【連載小説 江田村たんけん記】(24)
二十四. 昭和二十年八月下旬
尚子が二年生の教室に入ると、正夫の周りに小さな輪ができていた。
「皆、今日、どうしたの? 学校は来週からよ」
手を叩きながら注意を引くと、輪が崩れて康夫が尚子の前に立った。
「先生。タッちゃん、やっぱり里に帰っちゃうの?」
皆の代弁者にさせられたようだ。
「どうして?」
「だって戦争が終わったから、自分の家に帰るんでしょう」
「そうよね……」
尚子はしゃがんで康夫の視線の高さに合わせた。
「タッちゃんが、ずっとここにいるように、先生からもお願いしてよ」
「うーん。それはどうかしら。辰夫君とご両親が決めることで、私たちがとやかく言えることではないと思うわ」
右手でそっと康夫の肩を掴んだ。
「タッちゃんが、いなくなったらどうなるの?」
「何も変わらない。元に戻るだけさ」
側で正夫が冷たく言い放った。
「それは違うわ」
尚子は首を横に振りながら立ち上がった。
「辰夫君が来たことで確実に何かが変わった。それは皆も感じているでしょう。虎を探しに行った時の興奮、恐怖、勇気、友情。そんな体験は一生忘れない」
武、徳文、潔の三人が顔を見合わせた。
「殴り合った痛みや傷は消えても、その時感じた熱い思いは絶対失せない」
正夫は己の拳を見た。頬を撫でた。
「そう。一度変わったら、それはもう二度と元には戻らないの。戻れないのよ」
その言葉は自分自身に向けて言った。
「マーちゃん、それでいいの? 僕、とっても寂しいよ」
康夫は今にも泣き出しそうだ。
「俺だって残ってほしいよ。でも仕方ないだろ。タツは村の人間じゃないんだから」
正夫は声を荒らげた。驚いた皆の視線が集まる。正夫は居たたまれなくなって教室を出て行った。
「皆がそんなふうに騒いでいたら、辰夫君だって学校に来にくいでしょう。だから辰夫君の方から何か話があるまで、待ちましょう。ねっ?」
皆、視線を落としている。尚子は、小さくため息をついた。
その日の夕方。辰夫は門に立って村の入り口辺りをじっと見ていた。誰かが声を掛けなければ、何時間でも立っていそうな一途さが漂っている。ハルは、いても立ってもいられなくて駆け寄ろうとしたが、源三に玄関で止められた。
「辰夫」
源三はゆったりとした足取りで近付いていった。
「何をそんなに焦っておる。未だ敗戦から二週間しか経っておらんだろうが。落ち着いて考えて見ろ。戦争が終わったとて、里の暮らしが直ぐに元通りになるはずはなかろう。街は壊されて、鉄道や道路も至る所で寸断されておるだろう。住む家や食料にも困る。それらが復旧するには、何ヶ月いや場合によっては何年も掛かるやも知れん。ある程度身の回りが片付いて、お前を呼び戻せる目処が付かないと、迎えにも来られんじゃろ。お父さんは必ず迎えに来る。それまでここで、のんびり待っておればいいんじゃ。その方がお父さんも安心と言うもんじゃ」
辰夫は大きく頷いた。源三は辰夫の肩に手を回した。
「さあ、飯じゃ」
玄関でハルが待っていた。辰夫がばつの悪そうな顔をして戻って来る。落ち着かないのはハルも同じだった。ハルは辰夫を抱きかかえるようにして家の中に引き入れた。
だが源三には気懸かりなことがあった。太助の屋敷で拾った腕時計のことである。無論同じ型のものは他にも多数出回っているだろう。だが、あれは祐介のものだと確信している。どうして賊が持っていたのか分からない。それだけでは祐介の身に何か異変があったということにはならないが、源三の胸騒ぎは治まることはなかった。
■
尚子は、少し前から気鬱な日々を送っていた。時折、頭痛に悩まされるようになっていたからだ。それも、きりきりと差し込むような痛みではなく、頭の中に石くれでも詰め込まれたような、重く鈍い痛みだった。
その日も尚子は気分が勝れないと、部屋に早めに部屋に下がっていた。
「尚子はどうした?」
「頭が痛いと言って、もう部屋に行きましたけど」
太助は虎之から尚子が次の依り代になると聞いていた。どんな変化も見逃すなと虎之に釘を刺されたが、普段を知らないのに変化あったのか分かるはずがない。虎之自身もどんな変化が起こるのか知らないらしい。フミだけが頼みだ。
「月の障りか?」
「さあ、違うでしょ」
「他に何か変わったことはないか?」
「さあ。それより里美よ。この頃碌に口も利いてくれないのよ」
「今は尚子のことを話してるんだ」
太助は語気を荒らげた。
「何よ、自分の子より尚子の方が可愛いの?」
「そうじゃない。とにかく尚子に注意を払ってくれ。いいな」
太助は念を押した。フミはしぶしぶ頷いた。
深夜。風さえも眠りについた頃。
「起きろ」
尚子の耳に呼びかける者がある。耳から入った声ではなく、聴覚を司る脳の部分に直接響く、それだった。尚子は目を開けようとしたが開けることができない。
「誰? 誰かいるの?」
声も出せなかった。懸命に抗うが体も動かない。覚醒しているのは脳だけで、全ての感覚は未だ眠ったままだ。声が響く。
「声を出さずとも念じれば、届く」
「誰なの? 何の用なの?」
尚子は念じた。
「これからそなたを神社に導く」
声が響く。尚子の意志とは関係なく体が起きあがった。
参道辺りから霧が立ちこめていた。尚子はその中を拝殿に向かって歩いた。拝殿の前まで来ると、糸を切られた操り人形の如く、尚子はその場に突っ伏した。やがて厳かな声が頭に響いてきた。
「そなたは選ばれた。これから神官として、この村を守っていかなくてはならん。これは、そなたの定めじゃ。そなたには、そのための『力』を与える。かなり強いものだ。先に申したように定めじゃ。逃れることはできん。これからすべての『力』を一度に開く。かなり衝撃がある。痛みも伴う。心せよ」
言葉が止むや否や、尚子の頭から背中を通って手足に電撃が走った。それは数回にも及んだ。その度に尚子の体は跳ね上がり、声にならない絶叫を上げた。衝撃で意識が遠のかないように、何らかの力が働いているようだ。声は更に続く。
「そなたには四つの『力』を与える。一つ目は結界を操作する『力』じゃ。村は結界によって外の世界から守られておる。張るのも解くのも自由じゃ。もし結界が綻ぶようなことがあれば、そなたが修復して村を守らねばならん。よいな。二つ目の『力』は、人別帳を使い村人達を治めるために用いるがよい。兎角人は弱いものでな、ついつい欲に目がくらむ。だが、秩序を乱す者や害をなす者は、村のために排除せねばならん。その時は人別帳から抹消するがよい。抹消と言っても殺すわけではない。村から永久追放するだけじゃ。それに人別帳は努々損なってはならぬ。損なうは、抹消と同じじゃ。これらの『力』は本殿の近くで用いるがよかろう」
声は尚子の中に言葉が染み入るのを待っていた。
「三つ目は、虎の能力の一部を『力』として授ける。五感のうち、聴覚、嗅覚、視覚の能力が著しく向上するだろう。脚力、腕力も優れるだろう。だが生身の体では体力の消耗が激しい。負担も大きい。上手く使うことじゃ」
尚子の体が今一度大きく跳ねた。全ての『力』が解放されたようだ。四肢は細かく痙攣している。
「最後じゃ。森を閉じる力と札付けの権限を与えよう。だがこれらはあくまで緊急手段じゃ。従って、そなたの代理を勤める禰宜にも与えてある。まず森を閉じるというは、結界の境界領域を森全体にまで広げることじゃ。神官が不在の時、村を守るためのものじゃ。万が一結界が破れて外の世界から侵入する者があった場合に用いるがよい。不用意に森の中に足を踏み入れれば、奈落へ落ちることになる。
また札付けというは、一時的に村を出る者に許可を与えることじゃ。東口と里の滝に祠がある。そこに札を貼れば、村と里を結ぶ道が開かれる。だがそれは、あくまでも緊急手段じゃ。事が済み次第速やかに発動した本人が解除しなくてはならん。
最後に、言うまでもないことだが、森を閉じることと結界を解くことは、相反する力ゆえ決して同時に行ってはならん。
以上じゃ。『力』の使い方は自ずから分かるはずじゃ。これらの『力』をどう使うか、何に使うかは、そなた次第じゃ。心せよ。断るまでもないが、今夜のこと、他言は無用じゃ。よいな」
声が消えたと同時に尚子は気を失った。
尚子は目を覚ました。上体を起こそうとした途端、体の節々に激痛が走り悲鳴を上げた。体を捻りながら苦労して布団から這い出た。頭痛は治まっていたが未だ芯がぼーっとしていた。昨夜のことを思い起こす。細部まではっきり覚えている部分と、曖昧な部分がある。
――変な夢だったわ。
ふっと手のひらを見ると泥で汚れている。はっとして他を確認すると、寝間着の肘や膝に泥が付いている。足の裏も汚れていた。
――拝殿でのことは現実のことだったのかしら。
直ぐには信じられない。どうやって神社から戻ってきたのかも定かではない。
――『力』を与えられたというのは本当なのかしら。
確かめればはっきりする。しかし今はそんな気分にはなれない。その日は一日中寝て痛みが引くのを待った。
結局体の痛みが完全に消えるまでに数日掛かった。その間を尚子は暑気あたりで押し通した。つくづく夏休み中でよかったと思わずにはいられなかった。
やっと起き出した尚子は、まずは聴覚、嗅覚、視覚の『力』を確かめるつもりだった。
――『力』と言っても、それ程大したものじゃないかも。
半信半疑で『力』を開いた途端、尚子はその考えが甘かったことを思い知らされた。
視覚については、直ぐにその凄さの程が確認できた。遠くの物がはっきり見えた。闇の中でも物がはっきりと識別できた。だがその際、急に強い光を浴びると眩惑されて一時的に盲目状態に陥ることも分かった。
聴覚の力を開くや否や、余りの五月蠅さに耳を塞いだ。だが直ぐに音量の調節が自在になった。遠くの音が聞き取れるようになり、離れていても特定の音や声を聞き分けることができるようになった。ただこちらも微かな音に集中している時に大きな音を浴びると、暫く耳鳴りで聞き取りづらくなるという弊害が生じることも分かった。
嗅覚が一番きつかった。自分がこれほど色んな臭いに囲まれていたとは想像だにしなかった。余りの刺激に思わず鼻を摘む。涙が出た。それでも少しずつ慣れるに従って、特定のものの臭いだけを嗅ぐとか、相手の精神状態、喜怒哀楽を臭いによって判別できるようになっていた。感情によって体から出る汗の量や含まれる分泌物の違いから臭いが違うらしい。
――恐ろしい程だわ。
平素は『力』を遮断することで常人と同じになった。これらは特に練習することもなく、初めから可能だった。確かに声の通り、『力』の使い方は自ずと分かった。記憶の中にしっかり刷り込まれているらしい。
『力』を確認することで、神官としての責務に身が引き締まる思いだった。
――祭りの日、神官となったことを宣言する。そして一刻も早く村の秩序を取り戻す。それまでは私が神官になったことを、伯父達に知られないようにしなくてはいけないわね。
尚子は覚悟を新たにした。
<続く>
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければサポートお願いします。また読んで頂けるよう、引き続き頑張ります。