【連載小説 江田村たんけん記】(23)
二十三. 昭和二十年八月上旬
三日以降、平助の枕元には尚子が付き添っていた。平助は時折弱い呻き声を上げることはあったが、意識が戻ることはなかった。暑さが容赦なく平助の体力を奪っていった。
五日の夕方。昼過ぎまで降っていた雨が止んで、霧が庭先にも忍び込んできた。
タマははっと頭を擡げた。平助の呼ぶ声が聞こえたのだった。見上げると平助が手を振っていた。タマはウォーンと低く啼いた。平助はそのまま上昇して霧の中に消えていった。
その直後、「お父さん」と泣き叫ぶ尚子の声が屋敷中に響き渡った。
タマはもう一度啼いた。そしてそれは長く木霊した。
七日の午前中。炎暑が戻って来た。じっとしていても汗が噴き出す。
平助の葬儀は、太助の家でしめやかに行われた。辰夫も源三夫婦と一緒に同列した。屋敷の中も外も人で溢れて、道さえも埋め尽くされた。総勢二百名ほどだろうか。この村に来て五ヶ月余り。大半が会ったことのない人ばかりだった。これほど多くの村人がいたことに驚いた。今更ながら、子供と年寄りの姿が極端に少ないことに驚いた。
葬儀は禰宜の虎之が取り仕切った。終了すると虎之が先頭に立ち、村人の代表数名で棺を担いで、その後に太助夫妻と尚子が続いて神社の方に歩いていった。
「終わった。さあ帰ろうかのう」
行列が角に消えると源三が促した。
「この後はどうなるの?」
辰夫は歩きながら尋ねた。片影から出ると日差しが刺すように降り注ぐ。
「棺は神社の裏の洞穴に安置される」
辰夫はいつぞやの注連縄が張られた洞窟を思い出した。
「その後は?」
「それだけじゃ。その後は何もしない。いつの間にか棺は消えとる。それから暫くすると、どこかの夫婦が子供を授かるだけだ。尤も平助さんのような場合は稀で、この村の老人は死期を悟ると自ら神社裏の洞窟へ姿を消すんじゃ。ここではそうやって生まれ変われると信じられている」
「象の墓場みたいじゃない。本当なの?」
「分からん。また分かる必要もない。この村ではそう信じられている。それだけだ」
源三は、このことに触れるのは禁忌と考えているようだ。
「この世の中、分かっていることより分からないことの方が多いんじゃ。それに無理に知ろうとしないことがいいこともある。知っていても言わない方がいいこともな」
この村には普通でないことが多すぎる。だが源三はこれが普通だと言うのだろう。それならそれでもいい。無理に里の考えに当てはめる必要も無い。辰夫は黙って源三と歩いた。
平助が亡くなった日を限りにタマの姿を見ることがなくなった。
トモ子は葬儀の後平助の家を訪ねたが、タマはどこにもいなかった。次の日も、次の日も。流石に三日目になって、トモ子は村長に知らせた。
報告を受けた太助は老人子供を除く全ての男を急遽招集して境内に集めた。五人ずつの隊を編成し範囲を割り当てて森中を探させた。
日が落ちて捜索隊が次々と境内に戻ってきた。タマの痕跡どころか気配さえ見つからなかった。
「どうやら神様は、山にお帰りになられたようだ」
誰かがそう言った。村人達がざわつく。
「皆の衆」
虎之は拝殿の前に立ち両手を挙げて呼びかけた。波を打ったように静謐が戻った。
「神様は、村長を賊から守ってくださった。残念なことに平助は命を落としたが、魔の手が村に及ぶのを防いでくださった」
虎之は皆に言葉が染み渡るのを待った。
「今年は神様に一層のお礼を込めて、祭りは盛大に執り行わなくてはならん」
虎之が一際高い声で宣言した。
「そうだ」「そうだ」
直ぐさま賛同の声が上がる。それは波紋が広がるように境内を埋め尽くした人達に次々と伝搬して、神社全体を震わすような大きな音のうねりとなった。虎之は歓声の海に浸っていた。
虎之は再び両手を挙げた。波が引くと、虎之は皆を労って散会させた。
「村長、そろそろだ。尚子の様子にはくれぐれも十分注意をしてくれ」
虎之は残った太助に念押しした。
「分かっておる」
――儂を蔑ろにしおって。
太助はむすっとした顔で答えた。太助は虎之と自分との力関係を改めて見せつけられた気がした。
数日後、尚子は平助の家を訪ねた。土間の戸は枠木が折れて戸板が壊れたままの状態で立て掛けてあった。誰かが片付けてくれたらしい。主のいない家はひっそりと静まりかえっている。
「ごめんください」
誰も居ないと分かっていたが、尚子は断りながら戸の隙間から土間に入った。ここに虎が寝ていたんだろう。敷かれた藁の中央部が押し潰れていた。獣の臭いが立ち籠めている。土間から一段高い板の間に囲炉裏があった。寝るのも囲炉裏の側だったようだ。
空気が淀んでいた。汚れたまま放置された食器や抜け出たままの寝具が、あの夜飛び出したまま帰らない主を待っているかのようだ。尚子は、食器を洗い、寝具を片づけた。その後で囲炉裏端に座る。
一人暮らしが長かったせいか家財はあまりない。唯一の家具とも言える箪笥の上に、色褪せた写真が写真立てにも入れられずに無造作に立て掛けてあった。
立ち上がって手に取る。赤子を抱いた母と父の白黒写真。お宮参りの時に撮ったものだろう。名刺判の大きさで、縁の部分が擦り切れて何カ所か折れた跡も見える。幸い顔の部分には瑕疵はなかった。男性は父、先日会った平助の面影がある。
――私はお父さん似なんだわ。
女性は母のサト、真ん中の赤子は私だ。
初めて見る母の顔。レンズに向かって微笑んでいる。優しい眼差しで見つめられている気がした。そっと触れると温もりが指先から伝わってくるようだった。お母さん。尚子はそっと呟く。
――お母さんは今の私をどう思うかしら? 何て言うかしら? 頑張れって励ましてくれるかしら? 止めなさいって泣くかしら?
聞きたいことは溢れるほどあった。話したいことも抱えきれないほどに。叶わない想いが両の目から零れ、いつの間にか尚子の頬を濡らしていた。父は私を手放した後、この写真に詰まった思い出だけで、これまで生きてきたのだろうか。そう思うとやりきれない気持ちに襲われた。
――でも、これからは一緒よ。
尚子はお守り袋の中に写真を折り畳んで入れた。
――これから私は心を鬼にして闘わなくちゃいけないの。だからお母さん、助けて。お父さん、私の力になってね。
尚子はお守りを首から下げてブラウスの中に入れた。
尚子は暫くして土間から外に出た。
――今度は、ただいまって帰って来るわね。
尚子は帰り際、門の所で振り返った。
それから間もなくして日本は無条件降伏を受け入れた。やっと戦争が終わった。
二十四. 昭和二十年八月十五日
昭和二十年八月十五日。
その日、辰夫達は分校に集められラジオから流れる玉音放送を聞かされた。そこで日本が戦争に負けたことを知った。しかし元々戦争の影がほとんどなかったこの村は、放送が終わると何事もなかったように、いつもの暮らしに戻っていった。
――やっと家に帰れる、また家族三人で暮らせる。
知らず知らず辰夫の顔が綻ぶ。
「タッちゃん、もうすぐ福岡に帰っちゃうんだね」
武が寂しそうに近付いてきた。辰夫はその時になって、それは皆との別れを意味しすることに気づいた。
「僕、ここに残るよ」
辰夫は思わずそう口走っていた。武の顔がぱっと明るくなった。
「そんなこと無理だよ。タツも気を持たせるようなこと言うなよ。喜んだ分、余計にタケが悲しがる」
正夫が、言下に否定する。
「そんなことないよ。父に頼んでみる」
正夫が言うのも尤もだ。いつまでも源三の世話にばかりはなれない。かといってこの村で自分に何かできることがあるか見当も付かない。そんなこと今まで考えたこともなかった。そもそも自分の居場所があるのさえも分からない。確かに父に頼んだからといって、どうにもならないことだという気もする。
――でも皆と別れたくない。
辰夫はどうしたらいいのか自分でも分からなくなってきた。
これまで皆と一緒にゆったりと流れていた時間が、急に自分の周りだけ速度を増して、皆の思いとの間にずれを生じさせている。それが軋轢となって、周りに新たな波紋を投じた。
<続く>
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