【連載小説 江田村たんけん記】(22)
二十一. 昭和二十年八月三日(その3)
虎が後を追おうとした。
「よせ、タマ」
平助は止めた。平助が力なく手を伸ばすとタマは手のひらに頭を擦り寄せてきた。
「もう大丈夫じゃ。賊は逃げたぞ」
平助は苦しい息の下から雨戸の奥に声を掛けた。直ぐに灯りが点いて、太助が恐る恐る顔を出した。太助の背中にフミが縋り付いている。尚子と里美も急を聞きつけて廊下を走ってきた。尚子は、太助とフミの背後から平助が俯せに斃れているのを見て、裸足のまま庭に飛び出した。尚子は平助の横にいる虎の姿に気づいて一瞬たじろいだが、気を奮い立たせて平助の元へ駆け寄った。
「お父さん、大丈夫?」
尚子が抱き起こすと、平助の胸に黒い染みが広がっているのが見えた。
「お父さん!」
尚子が叫ぶ。平助が目を開けた。こんな形で親子の名乗りを上げようとは。後悔の涙が尚子の頬を伝う。
「尚子、無事だったか」
平助は声を絞り出した。尚子は涙で咽んで頷くことしかできなかった。遅れて太助が庭に下りてきた。傍らに膝を突き平助の腕を取る。
「タマが……守って……くれた」
「うん、わかっておる。もう喋るな。直ぐに医者を呼ぶ」
太助が頷くと平助は目を閉じた。胸の染みは広がりを増している。平助の顔が土気色に変わってきた。
ウォーン。タマが低く長く吠えた。それは悲し気に響いた。
銃声で異変が起こったことを知った近くの村人数名が、いち早く駆け付けた。
「こっちだ。庭に回ってくれ」
平助の周りを歩き回る虎を見て皆一様にぎょっとした。タマだとわかっても顔を強ばらせたまま、誰も近寄ろうとはしない。気を取り直した太助はてきぱきと指示を始めた。まず一人を、村で唯一の医者である橘の元へ走らせた。フミに言って座敷に布団を用意させた。尚子には着替えてフミを手伝うよう命じた。それから残りの村人達の手を借りて平助を静かに座敷へ運ばせた。タマは庭を徘徊していたが、そのうち庭先に蹲った。
太助は庭に残り、賊が持っていた拳銃を探した。それは引きちぎられた手首が握りしめたまま、庭木の陰に転がっていた。太助は周りに人がいないのを確かめて近付くと、寝間着の片肌を脱ぎながら目を背けるようにして、手首の上に脱いだ方の袖を被せた。袖の上からでも、千切れた手首の、まだ生温かく柔らかい感触があり、太助は身震いした。強ばった指を苦労してこじ開けて拳銃を取り上げると、そのまま袖に包んでそそくさと部屋に持ち去った。
普段着に着替えた太助が玄関に顔を見せると、遅れた村人達が三々五々集まっているところだった。源三もその中にいた。傍には辰夫の姿もあった。村人達により庭は掃き清められ手首は片付けてあったが、小石に付いた血を洗い流して濡れた跡がそこだけ周りより黒ずんで見え、却って血を連想させた。家の外までは手が回らず、門から外へ道を伝って点々と血痕が続き、未だ惨劇の跡を生々しく残していた。
やっと橘が息を切らせて到着した。夜分往診に来てもらったお礼もそこそこに、太助は平助の元へ案内して奥に消えた。源三は庭に回った。辰夫も付いて行った。二人は庭先に蹲る虎にぎょっとして足を止めた。タマだと分かったものの、気が気ではなかった。
源三は庭木の陰に提灯の灯りを受けてきらりと光る物を見つけた。源三は一緒に付いて来ようとする辰夫をその場に留めた。静かに近付いて小石に埋もれていたそれを掘り出した。腕時計だった。賊がしていた物らしい。落ちた衝撃でガラスにひびが入って針は止まっていた。形に見覚えがあった。源三は気づかれないように拾い上げてポケットに滑り込ませた。
辰夫は源三から少し離れた所でぶらぶらしていたが、庭の片隅に落ちていた紙切れを見つけた。拾って開こうとした時、「帰ろうかのう」と源三から声を掛けられた。うん。辰夫は振り向き様さり気なくそれをズボンのポケットに入れた。
「さて。どうやら儂らの出番はなさそうじゃ」
源三達が門に向かって歩いていると、太助が玄関に顔を見せた。禰宜の虎之も異変を知って駆け付けてきた。門の所で源三とすれ違った。虎之はじろっと源三に視線をやっただけだった。
虎之は太助の姿を見つけると小さく頷いて近付いて行った。二人は二、三言を交わした。
「皆、聞いてくれ」
太助が集まっていた村人対に声を張り上げた。
「賊は負傷して逃げた。平助が怪我したが、先生が診てくれている。もう大丈夫じゃ」
言葉を切った。皆から安堵のため息が漏れる。
「賊は二人じゃ。一人は右腕に大怪我をしておる。遠くには逃げられん。すまんが、若い衆は四、五人ずつで隊を組んで村の中を捜索してくれんか。まだ他に武器を持っておるかも知れん。十分注意してな。見つけても捕らえんでいい。森に追い込めばよい。深追いは無用じゃ。くれぐれも森には入らんようにな。こんな夜更けにすまんが頼む」
太助が頭を下げると、玄関の近くにいた若者が「おう」と拳を突き上げて鼓舞する。周りが呼応した。
「本当にすまんのう。後の皆も、今夜はしっかり戸締まりして、休んでくれ」
村人達がそれぞれに出て行くのを見送った後、太助と虎之は一緒に家の中に消えた。
「どうしたんじゃ。源三が変な顔して見ておったぞ」
太助は、書斎に招き入れながら虎之に渋い顔を見せた。虎之はそれを無視して経緯の説明を求めた。平助が拳銃で撃たれた件に差し掛かると、先程の恐怖がぶり返してきた。太助は口角泡を飛ばして虎之を責め始めた。
「何で、あんな輩が村に侵入してきたんだ」
「さて断言はできんが、昼間の爆撃機のせいで、場が乱れて結界が破れたんだろう」
「結界が破れたんだろうだと、他人事だと思って呑気なもんだな。虎が来なかったら、儂らは殺されていたかも知れないんだぞ」
太助は畳み掛ける。
「落ち着け。取り敢えず危険は去った。ただはっきり言っておく。今回のことは儂の責任じゃない」
虎之は強い口調でぴしりと言った。太助はあんぐりと口を開けて黙った。
「平助には気の毒だったが、儂にはどうにもできん。尤も神官がおれば、対処できただろうがな」
「すまん。つい口が過ぎてしもうた」
「まあ、恐い目に遭ったんだ。無理もない」
いつもの表情に乏しい顔に戻した虎之が慰めた。
「さっきも言ったように、ここに来る前に森は閉じてきた」
「じゃあ、奴らは生きて村を出られんな。一先ず安心じゃのう」
「そうじゃない。この村から絶対出してはいかんのだ。この村の存在自体を里の者に知られてはいかんのだ」
虎之は、目の前の問題解決しか関心がない太助に苛立ちを露わにした。
「明るくなったら呪を解く。今度は徹底的に山狩りをやらせるんだ。いいな」
「分かった」
「さて、問題は、奴らがどうやって此処に来たのかだ」
「というと?」
「この村に至る道を知っておったということだ。あの時お前を尾行していたのは、本当にあやつ一人だけだったんだな」
「ああ」
「確かか? 一人が滝に残って、あやつだけが来たということはないか?」
「ない。駅からは、あの通り人気のない一本道じゃ。気づかんはずがない。確かに一人だけじゃった。春彦にも確認した」
太助は断言した。春彦というのはがかいの良い若者で、太助の用心棒として福岡まで同行し取り巻きの一人だ。
「となると、この間源三の所に来たノブの息子だな。あれが地図でも持っていて、それがあいつ等に渡ったんだな。そうとしか考えられん」
「と言うとこは、ノブの息子がグルなんじゃな」
「断定はできんが、責任の一端はあるだろう」
「よし、今度こそ源三を締め上げるぞ」
「先走るな。今回のことは、最悪の事態が幾つも重なって起こった不幸な事故だ。それに追求しすぎると儂等のボロも出かねん。これは諸刃の刃だ。それより尚子のことだ。早く我々の支配下に置いて村を治めていかないと、またいつ何が起こるか分からんぞ。どうだその後は?」
「気をつけてはいるが。漠然と変化と言われても、もう少し具体的な情報をもらわんことには……」
しーっ。足音に気づいて虎之は太助が言い募るのを制した。
「あなた、橘先生がお帰りになるそうですが……」
フミが襖越しに声を掛けた。
「わかった、今行く」
太助が出て行った。開け放した襖から屋内外の喧噪が入り込んでくる。
橘は玄関にいた。太助は門まで送りながら容態を尋ねた。
「止血したので今は落ち着いているが、何せ血を失い過ぎている。それに弾が未だ体に入ったままだが、ここじゃ手術もできない」
「それで、どうなんじゃ?」
「それにこの暑さだからな。持って、二日。それも平助さんの体力次第だ」
「そうか。あのバカ者が、死に急ぎおって」
太助は、がっくり肩を落とした。日頃反りが合わないことが多かったにせよ、たった一人の弟だった。
「明日、また来る」
そう言い置いて医者は帰っていった。
橘を送って太助が戻って来た。
「尚子が平助のことを、お父さんと呼んでおったように聞こえたが。経緯を話したのか?」
虎之が眉を顰める。
「いや。誰から聞いたのか分からんが、知っておった」
――儂らと源三しか知らんのだから、漏れるとすればお前の口しかないだろうが。
怒鳴り散らしたいところではあったが、ぐっと押さえた。
「先程の話だが、依り代になったらどうなるのか、儂にも分からん。尚子のことはお前に任せていいのか?」
太助は頷いた。
「その代わり皆のことは儂に任せろ。いざとなれば上手く言いくるめてやる」
太助は恩着せがましい言い方にむっとした。虎之は帰って行った。太助は見送りに出なかった。
辰夫は家に帰ると直ぐに布団の中で紙切れを広げてみた。地図だった。庄駅から江田村までの地図だと直感した。どうやら賊が落としたものらしかった。辰夫は、それを源三に渡そうか迷ったが、終には背嚢の奥深くに仕舞った。
タマは庭先にじっと蹲っていた。平助が寝かされている座敷のすぐ前だった。ただじっと蹲っているだけだった。
翌朝から再度村人達が動員されて山狩りが行われた。血痕が森まで続いていた。その辺りを中心に、片端から徹底的になされたが賊の姿は影も形もなかった。昼過ぎには捜索は打ち切られた。
<続く>
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