【連載小説 江田村たんけん記】(21)
二十一. 昭和二十年八月三日(その2)
再度交代して田処は滝の辺りを、テツは道の周辺を調べることにした。
「全く、人使いが荒いッスよ」
不平を漏らすテツの背中に、田処の昂奮した声が飛び込んできた。
「あった、あった。これだ」
テツが駆け寄ると、田処は地図と見比べながら滝の横の細い山道を指差した。駆けつけたテツが首を傾げる。
「あれっ。さっき俺が探した時は、そんなのなかったッスよ」
「馬鹿野郎。だからお前の目は節穴だってんだ」
田処が、テツの尻を蹴飛ばした。
「さあ、行くぞ」
合点がいかないテツを後目に、田処はさっさと滝の横の坂道を登りだした。テツも慌てて後を追った。二人は落ち口まで上り切ると、休むことなく川沿いの道から森に入った。
「兄貴、何だか薄っ気味悪い森ッスね」
テツが後ろを振り向くと、滝の落ち口辺りの風景が陽炎みたいに揺らいで、次の瞬間には森に変わった。テツは我が目を疑った。何度も目を擦って確認したが、周り一面鬱蒼とした木々しか見えない。
「兄貴、この森は何かおかしいッスよ。さっきの川が突然なくなっちまったッス」
「黙って歩け。びくびくしてるから、何でもかんでも恐ろしい物に見えてくるんだ。宝探しではな、多かれ少なかれ、危険な場面に出くわすものなんだ。『宝島』じゃあ大ダコや海竜まで出てきたぞ。いや待てよ、それは『海底二万哩』だったかな。あれ、違ったかな。まあいい。そんなもんだ」
――そりゃ作り話なんだから、何でもありッスよ。
テツが口を尖らしていると、田処がジロッと睨む。
「そうッスよね」
テツは愛想笑いを浮かべた。
二人はまだ日が高い内に森を抜けて、村の入り口に辿り着くことができた。
「これがお宝のある村ッスか」
「そうらしいな」
一休みした後、テツは近くの木に登り村を一望にしながら物色を開始した。
「どうだテツ。目ぼしい所はあるか」
遅れて登ってきた田処が尋ねる。
「土塀に囲まれた大きい家があるッスよ。まずはあれッスかね」
テツが指さす方向に目をやると、柿葺き家々の中にあって一際大きな瓦葺きの屋敷が見えた。
「あれか。おっ、お誂え向きに、近くに学校みたいな建物まであるじゃないか。暗くなったら村に下りて、皆が寝静まるまでそこに隠れるとするか」
こんな閉鎖的な村では遠目にでもよそ者はそれと分かる。行動するのは暗くなってからだ。二人は木から下りて夜に備えて一眠りすることにした。
「何とも気が抜けるくらい、のんびりした村じゃないか。これを使うことはなさそうだ」
田処は、膨らんだズボンのポケットを叩いて、硬く冷たい感触を確かめた。
その頃平助は、タマを宥めるのに苦労していた。日頃は温厚なタマだが、今日はいつになく気が立っていた。落ち着きなく歩き回っては、時折東の山に向かって唸っていた。こんなことは初めてだった。
――神様でも盛りが付くのかのう。
平助は苦笑した。
「さあ、家に入るんじゃ」
タマの頭を母屋に向けて背中と尻を押す。タマはスルリと体を捻って躱し、また東に向かって唸る。何度か繰り返してやっとタマを土間に入れた時には、平助はへとへとになっていた。
日が落ちても盆地のせいか熱が溜まっている。
「さて。そろそろ行くか」
村は未だ起きている。八時頃、二人は月のない真っ暗な道を下りだした。昼間、道の北側に何軒か家があるのを確かめていた。今はその灯りだけが頼りだ。計画通り校庭の隅に姿を隠した。
「深夜になれば月が出る。それまでここにいるんだ。いいな」
村の夜は早い。十時前には灯りが消えた。それから二時間ほど待った。寝静まったのを見計らって学校を出た。下弦の月の明かりを頼りに、そっと目星を付けた家に近づく。
屋敷の前まで来た。土塀に背中を付けて辺りを窺う。
「犬はいないか?」
田処が囁く。
「さっきから気にしてるんッスけど、いないみたいッスよ」
「つくづく平和な村だな。さっさと仕事を済ませるぞ」
先に忍び込んで門を開ける役目は、身軽なテツに任せた。田処は門の直ぐ横の塀に背中を付けて下腹の前で指を組むと、そのまま少し腰を落とす。テツは田処が組んだ指の上に片足を掛けた。テツがもう片方で地面を蹴ると同時に、田処は両手を振り上げテツを押し上げる。テツは一気に棟瓦に上がった。体を低くして中の様子を窺う。
「兄貴、今何か聞こえなかったッスか。獣の遠吠えみたいだったッスよ」
テツはびくっと身を振るわせた。
「いいや。びくびくしてるから、聞こえもしないものが聞こえた気がするんだ。しっかりしろ」
田処は押し殺した声でテツを叱咤した。テツはそっと庭に飛び降りて門扉に回って閂を外した。
ギーィッ
テツは注意深く開けたが、門扉は軋み音をたてた。テツは田処を制して聞き耳を立てた。家人が起き出す気配はない。テツは田処を促した。門を潜る。真っ直ぐ行くと玄関があった。門扉は逃げやすいように開けたままにした。二人は、南側の庭に回った。ゆったりとした庭で枯山水が造られていた。田処は気づかれにくい座敷付近から侵入し、その後寝室を襲う腹づもりだった。
「この辺ッスかね」
テツが、雨戸の下の隙間に指を掛けて持ちあげるとすんなりと外れた。
「不用心ッスよ」
二人は顔を合わせてにんまりとした。テツは雨戸をそっと地面に下ろして戸袋に立て掛けた。
ドーン。ドーン。
深夜、家を揺るがすような音がした。平助は飛び起きた。音のする方を見遣ると、タマが唸り声を上げながら土間の板戸に体当たりしている。タマの様子が尋常ではない。
――しまった昼間のことは、凶兆だったのか。
バシャーン。
板戸が壊れ飛んだ。タマは庭に飛び出し耳を聾するばかりの遠吠えを上げた。テツが棟瓦の上で聞いたのはこの声だった。
タマはちらりと平助の方を振り向き、次の瞬間には地を蹴った。胸騒ぎがする。平助は着の身着のままで跡を追った。
猫科特有の肉球で衝撃は和らげられているとはいえ体重二百キロからの猛獣だ。地を駆ける衝撃は地面を揺らし、疾走する体躯は空気を震わせた。タマは村長の屋敷まで来ると、にわかに上体を沈め後ろ足で一気に地を蹴った。ドゥ。巨体が跳ぶ。それは風を起こし、地を響かせた。次の瞬間にはタマは軽々と塀を跳び越えていた。
テツが先陣となって屋敷に忍び込もうとしたその時。
塀の外側で発せられた異様な音が耳に入った。同時に空気を揺るがす振動を感じて、二人は振り向いた。塀の遙か上を跳ぶ黒い大きな影に、二人の目は釘付けになった。二人が声を発する間もなく、その巨大な影は目の前にどうとばかりに着地した。地面が揺れる。風が巻き土煙が立った。
ザザーッ。
庭に敷き詰められた小石がけたたましい音を立てて、はじき飛ぶ。二人は咄嗟に手を顔の前に翳し目を守った。さっきまでの静かで平和な庭に一体何が起こったのか、二人は直ぐには理解できなかった。
ガウーッ。
巨大な影は着地と同時に牙を剥き出し、生臭い息を吐きながら上体を低くして唸っている。
折しも雲の合間から顔を覗かせた月影に照らされて、全体を覆う白っぽい体毛に黒い縞模様が鮮やかに浮かび上がった。
――とっ、とっ、虎。
俄に信じられなかった。田処は腰を抜かしてその場にへたり込む。呆けたように口を開けて失禁していた。テツはその後ろで呆然と突っ立っていた。二人とも目の玉が飛び出るほど大きく見開いて、口をぱくぱくさせている。心臓が口から飛び出さんばかりに早鐘を打っていた。多少なりとも切った張ったの世界を渡り歩いてきた二人だったが、それとは全く異質の恐怖だった。
ウーッ。
虎が唸りながら一歩近づく。体をぐっと沈めた。二人にはそれが攻撃直前の体勢だと本能的に分かった。殺気が大きく膨らむ。
――やられる。
二人は固く目を閉じた。
「タマ、止めろ」
その時、平助が息を切らせて駆け込んできた。二人は虎の殺気がふっと緩んだのを感じた。
――野生の虎じゃない。
田処はそっと目を開けた。虎の視線は平助に向けられていた。
――この野郎。
田処は腰を上げながら震える右手をポケットに突っ込んだ。
「兄貴、今動いちゃ駄目ッスよ」
テツの押し殺した声は田処に届いていない。田処は拳銃で猛獣に立ち向かおうとしている。とても正気の沙汰ではない。
「兄貴」
再びテツが止める。田処は振り向いてニヤリと笑った。目に狂気を宿している。テツは次の言葉を失った。その間も田処の手は拳銃を取り出そうともがいている。撃鉄がポケットの内側に引っ掛かっているようだ。くそっ。焦れば焦るほど生地に食い込んでいく。
ビリッ。
生地が裂ける。虎が田処を睨んだ。鼻に縦皺を寄せて牙を剥く。再び殺気が膨らみ、田処を押し包んだ。
田処の顔が引き攣った。
うわーっ。田処の脳の回路がどこか短絡したらしい。火事場の馬鹿力を発揮してズボンを裂きながら拳銃を引っ張り出した。
バーン。
錯乱した田処は狙いも付けず引き金を引いた。同時に虎が地面を蹴った。弾は大きく逸れた。
「うわーっ」
田処は叫声を上げながら立て続けに引き金を引く。拳銃が火を吹いた。
バーン。
虎が飛びかかる。前足の鋭く長い爪が田処の右手を払った。
バーン。
「ぎゃーっ」
大気を劈くような悲鳴が響く。田処は弾き飛ばされた。鮮血が飛び散る。田処は右手を押さえて、のたうち回った。
が、わずかに遅く、発射された弾は不運にも平助の胸に当たっていた。
「うっ」
平助が崩れ落ちた。虎はテツを睨んだまま視線を外さない。平助に血の臭いを嗅ぎ取った虎は気ぜわしげに側を行ったり来たりした。時たま牙を剥いて威嚇するが先程までの殺気は消えていた。
危害を加える素振りさえしなければ自ら襲ってはこない。テツはそのことを何となく肌で感じ取った。田処の動きが鈍くなった。辺り一面血の海だった。テツは虎の動きを目で追いながらゆっくりと田処に近づいた。田処の手首から先の部分がなかった。前腕の中程から下は、皮膚が裂け筋肉が削ぎ取られ、骨が覗いている。まだ血が吹き出していたが勢いは既に弱くなっていた。手首は拳銃ごと庭の隅に飛ばされていた。顔面が蒼白で口から白い泡を吹いている。田処の体が小刻みに痙攣していた。
――こりゃあ酷い。
テツは顔をしかめた。テツはこれまでにいくつかの修羅場をくぐっており、怪我の処置にも多少慣れていたつもりだった。だが、これほど酷い傷はどう手当していいのか皆目見当も付かない。取り敢えずシャツを裂いて包帯を作った。シャツを裂く音に虎が牙を剥いたが、殺気は感じられなかった。包帯で肘の上できつく縛り上げて止血した。田処が呻く。裂けた肉が包帯の下でぷるぷると揺れた。テツは田処の脇に手を差し入れて抱き起こした。
「兄貴、大丈夫ッスか?」
声を掛けるが反応はない。テツは田処に肩を貸すと、虎を刺激しないようにゆったりとした動きで立ち上がった。虎が睨む。テツは動きを止める。虎の目が逸れるとテツは静かに動く。
テツは虎から目を離さないようにして、ゆっくりと後ろ向きに一歩ずつ門に向かって歩を進める。虎は二人を睨み続けている。しかし追ってくる気配はなかった。
屋敷を出ると、テツは田処を引きずるようにして一目散に逃げ去った。
<続く>
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