ストレイト・マルクナイクス『共産論』を読む(3.4万文字)

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v3.2
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1. 序章
ストレイト・マルクナイクス(Strait Marknaix)『共産論』は、ベルリンの壁崩壊からソ連崩壊へ向かう時代に現れ、すぐに姿を消した書物である。刊行年は一九九二年とされる。出版地はベルリン、プラハ、パリ郊外の私家版工房など複数の説があり、確定していない。版元名は、現存する数少ない複写では黒く塗りつぶされている。
この本を読むためには、いくつかの思想史上の流れを押さえておく必要がある。まず古代ギリシアのプラトンがいる。プラトンは紀元前四世紀の哲学者で、『国家』において、都市を正しく治める者は知恵と善を知る者でなければならないと考えた。次に古代ユダヤ教の共同体として語られるエッセネ派とクムラン教団がある。彼らは財産共有、清浄、規律、終末への備えを特徴とする共同体として、後世の宗教思想に強い影を落とした。
近代に入ると、カール・マルクスが現れる。マルクスは十九世紀ドイツの思想家で、『資本論』において、資本主義社会では人間の労働が商品となり、剰余価値として吸い上げられる構造を分析した。マルクスの思想は、ゲオルギー・プレハーノフによってロシア語圏へ本格的に紹介され、ウラジーミル・レーニンによってロシアの革命状況に合わせて政治理論化された。そこからマルクス・レーニン主義が生まれ、二十世紀の国家思想として広がっていく。
その一方に、ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフがいる。グルジェフはロシア帝国領に生まれた神秘思想家で、人間は自分で考え、自由に行動しているように見えながら、実際には習慣、恐怖、欲望、外部刺激によって機械のように反応していると考えた。彼の思想を記録し、体系的に紹介した人物として、P・D・ウスペンスキーがいる。さらに二十世紀には、ハンナ・アーレントが全体主義、官僚制、判断、責任の問題を論じ、「悪の凡庸さ」という言葉で、普通の人間が思考停止と職務への埋没によって悪に加担する過程を明らかにした。
ストレイト・マルクナイクスという名は、本名と見る根拠が薄い。マルクスを批判しながら、なおマルクスの影から逃れられない者。後世のマルキシズムによって歪められたものを、いったん直線へ戻そうとする者。そのような印象を読者に与えるために選ばれた筆名だと考えられる。
著者の正体については、東欧出身の亡命思想家、旧社会主義国の党官僚、比較宗教学者、地下出版に関わった編集者など、いくつもの説がある。なかでも有力なのは、マルクナイクスがグルジェフ、あるいはウスペンスキーの系譜に属するグループの元メンバーであり、同時に日本人、または日本語に深く通じた人物だったという説である。
本稿で参照されるグルジェフ系の文献は、G・I・グルジェフ『ベルゼバブの孫への話』、G・I・グルジェフ『Views from the Real World』、P・D・ウスペンスキー『In Search of the Miraculous』である。『ベルゼバブの孫への話』は、グルジェフの宇宙論、地球人批判、政治的類型を含む第一シリーズの主著であり、『Views from the Real World』は講話記録、『In Search of the Miraculous』はウスペンスキーによるグルジェフ思想の体系的記録として扱われる。マルクナイクスは、これらの文献から、人間の機械性、自己観察、存在水準、真のクリスチャン、クリスチャン候補生、非クリスチャンという分類を受け取ったとされる。彼は政治制度の問題を、制度名の違いとして扱わず、人間の存在水準の問題として読み替えた。
本書は刊行直後にわずかな読者を得たが、すぐに絶版となった。出版地、版元、現存部数には不明点が多い。出版資金の途絶、著者自身による回収、政治的圧力、宗教団体からの抗議、グルジェフ系統の団体からの距離取り、販売不振。どの説もありえそうで、どれも決め手を欠く。古書市場に出ることはきわめて稀で、出ても断片的なコピーや注釈付きの抜粋ばかりである。
筆者が目にしたのは、完全本ではない。全四巻から成るとされる版の、数種類の写し合わせである。章題の異同もある。本文の欠落もある。欄外には、筆跡の違う注釈が混ざっている。そこには、マルクス『資本論』への応答、二十世紀共産主義の解剖、エッセネ派とクムラン教団の再評価、プラトン哲人政治の補完、グルジェフ的な三分類を用いた哲人認定論、そして日本語に移すと「真のクリスチャン」という語でしか表せない独自の普遍概念が折り重なっている。
マルクナイクスは、ベルリンの壁崩壊を資本主義の勝利としてだけ見なかった。搾取を廃絶するはずだった思想が、なぜ別種の搾取を生んだのか。王を倒すはずだった運動が、なぜ疑似王政を作ったのか。神を追放した共同性が、なぜ党、歴史法則、人民、革命を神の位置に据えたのか。『共産論』は、その問いから始まる。
最初の動機は、共産主義への反省だった。ところが本書は、途中から自分の射程を変える。資本主義にも搾取がある。民主主義にも衆愚と扇動がある。共産主義にも善意による支配がある。近代政治形態は、それぞれ人間の弱さを別々のかたちで増幅する。政治の根本問題は、制度名よりも、人間そのものの水準にある。
この地点で、マルクナイクスはプラトンへ戻る。最良の政治形態はアリストクラティア(哲人政治)である。哲人を誰が哲人と認定するのか。この古い問いに対し、彼は千年規模の宗教、哲学、神話伝統を横断して答えようとした。彼の答えは、強引でありながら、独自の整合性を持つ。哲人とは、真のクリスチャンである。
この語は、教派名を超えた概念である。マルクナイクスは、仏教徒、哲学者、宗教者、無宗教者という外形分類をいったん排除した。グルジェフの基準を政治哲学へ転用し、全人類を、真のクリスチャン、クリスチャン候補生、非クリスチャンの三種に分けた。真のクリスチャンとは、人間より上位の存在を認め、その前で自己を制限し、善を命令として理解するだけでなく、心と本質の両方で実行できる者である。
本稿では、この書物の全章をたどる。マルクナイクスが何を見て、何を恐れ、どのように『資本論』を反転させ、どこでプラトンに接続し、どこでグルジェフを流用し、なぜ最後に「真のクリスチャン」へ行き着いたのか。その全貌を、入手できる断片から再構成してみたい。
2. 善意
第二章「善意」は、「商品」から始まる『資本論』への明白な対応である。『資本論』は、資本主義社会を理解する入口として商品を置いた。商品とは、売買される物やサービスであり、そこには人間の労働が込められている。マルクスにとって、資本主義社会の秘密は、商品という一見ありふれたものの中に隠れていた。
マルクナイクスは、それに対応するように、共産的共同性の入口に善意を置いた。善意とは、苦しむ者を助けたい、貧しい者を救いたい、不平等を減らしたい、所有による支配を抑えたいという願いである。マルクナイクスは、共産主義の出発点を低く見ない。その出発点には正当な痛みがあったと認める。資本主義の中で労働者が搾取され、富が集中し、人間が商品化される。その現実に対して、人間が怒り、別の共同性を求めることは自然である。
善意には、重大な弱点がある。善意は疲れる。善意は承認を求める。善意は自分が正しい側にいるという快感を生む。善意は、相手のためという名で相手を管理することがある。善意は、自分が傷つけている人間を見えなくすることがある。
マルクナイクスは、共産主義の失敗を悪意から説明しない。彼が扱うのは、善意が支配へ転じる過程である。資本主義の欲望による支配は利潤や所有として見えやすい。共産主義の善意による支配は使命感や正義の語彙に包まれるため、見えにくい。
第二章は、共産主義の出発点にあった痛みと善意を確認する章である。善意が本当に善意であるためには、善意を人間の自己満足から引き離す軸が必要になる。そこで本書は、すでに宗教的な問題へ足を踏み入れている。
3. 共有
第三章「共有」は、私有への批判から共同所有への転化を扱う。私有とは、土地、工場、資本、道具、財産などを個人や少数者が所有することである。マルクスは、資本主義社会では生産手段を持つ者と持たない者の差が、支配と従属を生むと見た。マルクナイクスは、この診断を大きく受け取る。土地、工場、資本、流通網、金融資産を少数者が持てば、多数者は労働力を売るしかない。所有は権力である。
共有は平等を自動的に生まない。共有物は管理を必要とする。共有地には使用規則が必要になる。共有財には配分者が必要になる。共有された生産手段には、計画、監督、記録、査定、懲罰が必要になる。私有者を廃した共同体は、管理者を生む。
この管理者が、共産主義の新しい支配者になる。資本家が消えた場所に、党官僚が立つ。地主が消えた場所に、配分機関が立つ。株主が消えた場所に、中央計画が立つ。共有は、所有者を消すのではなく、所有の名義を抽象化する。名義は人民になり、実権は管理者へ移る。
マルクナイクスがこの章で強調するのは、所有形態だけを見た政治思想の弱さである。私有か公有かという二択は、支配の実体を隠すことがある。大事なのは、誰が決めるのか、誰が配るのか、誰が記録するのか、誰が異議申し立てを受けるのかである。
共有は、垂直軸を持たないと配分権の集中へ進む。垂直軸とは、人間の共同体の外側または上位に、人間自身を裁く基準を置く考え方である。人間より上位の存在を認めない共同体では、管理者自身を制限する基準が弱くなる。人民のために管理している者が、いつのまにか人民そのものを名乗り始める。
4. 代表
第四章「代表」は、『共産論』の政治的な核心を初めて明確にする。労働者階級、人民、大衆、弱者、未来世代。これらは巨大な抽象名詞である。現実には、一人ひとりの労働者、一人ひとりの生活者、一人ひとりの子ども、一人ひとりの老人がいる。ところが政治運動は、それらをまとめて語る代表者を必要とする。
代表とは、本人たちの代わりに話し、判断し、交渉し、決定することである。民主主義でも、労働運動でも、宗教共同体でも、すべての人が常にすべてを直接決めることはできない。だから代表者は必要である。マルクナイクスも、その必要を認める。
代表者は、本人たちの声を預かると同時に、その声を奪う危険を持つ。労働者を代表する者が、労働者本人より上に立つ。人民を代表する者が、人民本人の声を反人民として処理する。未来を代表する者が、現在の人間を犠牲にする。
この章で、マルクナイクスはソ連型共産主義の中心的な問題を扱う。党は労働者階級を代表する。党の意思は労働者階級の意思である。したがって、党に反対する労働者は、労働者階級の敵である。この論理が完成すると、労働者解放の名において労働者が処罰される。
代表者を制限する仕組みを持たない共同体は、すぐに王政へ戻る。王冠をかぶっていなくても、代表者が最終審級になった瞬間、そこには王がいる。マルクナイクスの「疑似王政」概念は、ここから始まる。
5. 垂直軸
第五章「垂直軸」は、本書の宗教的展開の入口である。マルクナイクスは、善意、共有、代表を支えるためには、人間同士の横の連帯だけでは足りないと見る。共同体には、人間の共同体を超える基準が必要である。
横の連帯は、人と人を結ぶ。貧しい者を助ける。孤独な者を支える。差別された者の側に立つ。政治や宗教において、この横の連帯は欠かせない。横の連帯だけで共同体を作ると、共同体内部の多数派、代表者、理論家、実務担当者が基準になりやすい。彼らは「みんなのため」と言いながら、自分たちを共同体そのものと取り違える。
垂直の畏れは、人間の共同体を超える基準を置く。神、天、道、法、ロゴス、聖なる秩序といった言葉は、それぞれ異なる伝統に属するが、人間を最終基準にしないための装置として働く。垂直軸を持つ共同体では、代表者も裁かれる側に置かれる。指導者、管理者、配分者、理論家、信徒、労働者、全員が自分より上位の存在の前で有限な者となる。そこに、共同体内部の権力を抑える可能性が生まれる。
この章で、マルクナイクスはエッセネ派とクムラン教団を予告する。彼らの財産共有は、経済制度として興味深いだけのものではない。共有を支える根拠が、人間の善意や人間の合意だけに置かれていなかった点が重要である。神の前で自分たちを整えるという大きな物語が、善意を自己正当化から守る役割を持っていた。
6. 配分者
第六章「配分者」は、『資本論』における資本家分析への対応である。資本家とは、生産手段を所有し、労働者の労働力を買い、その労働から利潤を得る者である。資本主義では所有者が力を持つ。共産主義では配分者が力を持つ。これがマルクナイクスの定式である。
配分者とは、物資、仕事、住居、情報、資格、機会を分ける者である。食料を誰が配るのか。住宅を誰が割り当てるのか。仕事を誰が決めるのか。教育の機会を誰が与えるのか。医療へのアクセスを誰が管理するのか。移動を誰が許可するのか。出版を誰が認めるのか。情報を誰が出すのか。これらを握る者は、私有財産を持たなくても支配者である。
共産主義国家では、形式上、工場や土地は人民のものになる。人民全体は工場を直接動かせない。誰かが管理する。その誰かが、配分者である。配分者は、所有権を持たないまま、人間の生活を握る。これは資本家とは別の、強い支配形態である。
マルクナイクスは、所有よりも配分権を警戒する。所有は見えやすい。登記や株式や資産として記録される。配分権は見えにくい。制度、慣習、許認可、人事、情報、順番待ち、推薦、所属、忠誠の中に埋まる。そこに、共産主義の搾取が潜む。
7. 剰余善意
第七章「剰余善意」は、『共産論』の中心概念を提示する章である。『資本論』が剰余価値を資本主義搾取の核心に置いたように、『共産論』は剰余善意を共産的搾取の核心に置く。
剰余価値とは、労働者が賃金として受け取る価値を超えて生み出した価値であり、資本家が取得する部分である。これに対して、剰余善意とは、共同体のため、未来のため、弱者のため、革命のため、地域のため、子どものためという言葉によって、個人の時間、体力、責任感、罪悪感、承認欲求から吸い上げられる余剰である。金銭で支払われない労働、断りにくい労働、見えない労働、称賛だけで回収される労働が、共同体の運営を支える。
資本主義の剰余価値は、利潤として見える。共産的共同体の剰余善意は、使命感として見える。だから告発しにくい。疲れた人は、自分の善意が足りないと思う。断る人は、冷たい人だと思われる。現場から去る人は、理念に耐えられなかった人として物語から消される。
マルクナイクスは、この概念によって、国家共産主義だけでなく、現代の市民運動、地域自治、イベント型政治、宗教共同体まで射程に入れる。搾取を批判する場が、別の搾取で運営される。剰余善意は、その現象を捉えるための言葉である。
8. 疲弊
第八章「疲弊」は、剰余善意が身体に現れる場面を扱う。共同体の搾取は、帳簿より先に人間の疲れとして露出する。会議が増える。連絡が増える。調整が増える。誰かが遅刻し、誰かが忘れ、誰かが怒り、誰かが泣き、結局いつもの人が片付ける。
疲弊とは、忙しさより深い状態である。休めないこと、断れないこと、感謝されないこと、責任だけが積み上がること、そして自分が疲れていることを言い出すと理念への裏切りに見えてしまうことである。マルクナイクスは、共同体の理念より先に、疲れている人の身体を見る。
イベント型運動は、立ち上がりが強い。講演会、勉強会、上映会、ワークショップ、街宣、マルシェ、支部活動、SNS発信。最初は熱量がある。旗印は立派で、言葉も大きい。だが、運営は地味で、継続には会計、広報、予約、備品、移動、苦情対応、後片付けがいる。理念を語る人は多く、実務を担う人は少ない。
疲弊は、共同体の診断装置である。誰が疲れているか。誰が休めないか。誰が何度も謝っているか。誰が見えない労働をしているか。誰が去ったあと、名前を呼ばれなくなるか。そこを見れば、共同体内部の搾取が見える。
この章の末尾で、マルクナイクスは明確に述べる。資本主義を批判する集会が半年で持続不可能になるとき、その集会は資本主義批判以前に、自分たちの労働配分を検査する必要がある。巨大システムを批判する者が、自分たちの小さなシステムを維持できないなら、そこにはすでに共産的搾取の萌芽がある。
9. 大義
第九章「大義」は、剰余善意を正当化する言葉の流通を扱う。大義とは、個人の利益を超えた大きな目的である。人民のため、未来のため、平等のため、革命のため、社会のため、弱者のため。これらの言葉は、人間を励ます。同時に、人間を縛る。
大義は、個人の疲労を小さく見せる。あなた一人の疲れより、未来が大事だ。あなた一人の不満より、人民が大事だ。あなた一人の生活より、革命が大事だ。この理屈が強くなると、現在の人間は未来のための資材になる。
マルクナイクスは、未来を語る政治を警戒する。未来は反論しない。未来の人民、未来の子ども、未来の解放、未来の社会。これらは有効だが、現在の人間を黙らせる道具にもなる。未来を代表する者は、現在の人間を犠牲にする権限を得やすい。
大義は必要である。人間は短期利益だけでは共同体を維持できない。大義に垂直軸が欠けると、それは人間が人間を使い潰す免許になる。マルクナイクスは、大義を裁く基準を探す。
10. 会議
第十章「会議」は、共同性を運営する実務の問題を扱う章である。会議とは、複数の人が集まり、意見を出し、合意を形成し、次の行動を決める場である。共同体には会議が必要である。マルクナイクスによれば、会議は共同性の象徴であると同時に、責任の所在を曖昧にする装置でもある。
会議では、みんなで決めたように見える。実際には声の大きい人、時間のある人、言葉に慣れた人、議事を操作できる人が流れを作る。反対意見は空気によって消え、疲れた人は黙り、最後に「合意」が残る。この合意は、共同体の意思として扱われる。
会議は、労働を生む。会議の準備、議事録、日程調整、資料作成、次回課題、連絡、修正、確認。発言した人より、記録した人が疲れる。大義を語った人より、会場を片付けた人が疲れる。会議は、剰余善意を生産する工場でもある。
この章が扱うのは、党内会議、市民運動の会議、宗教団体の集まり、亡命知識人の討論会に共通する運営構造である。共同性を語る場では、共同性を維持する実務の配分が検査されなければならない。
11. 情報
第十一章「情報」は、共産主義国家の支配を別の角度から説明する。情報とは、事実を知り、比較し、判断するための材料である。情報を握る者は、現実認識を握る。どれだけ生産したか。どれだけ失敗したか。誰が飢えているか。誰が処罰されたか。誰が得をしているか。誰が嘘をついているか。それを知る者が支配する。
資本主義では、情報の非対称性が市場を歪める。非対称性とは、取引に関わる一方が他方より多くの情報を持っている状態である。共産主義では、情報の集中が国家を歪める。統計は政治化され、新聞は宣伝となり、失敗は隠され、批判は反革命とされる。人々は、自分たちの生活がどういう全体の中にあるのかを知る手段を失う。
情報を独占する者は、現実そのものを編集する。現実が編集されると、不満は個人の弱さに見える。物資不足は一時的困難に見える。失敗は敵の妨害に見える。配分者の特権は任務上の必要に見える。
マルクナイクスは、情報公開を行政技術より深い倫理として扱う。それは、搾取を見えるようにするための倫理である。情報を持たない労働者は、自分の労働がどこへ行ったのかを検証できない。情報を持たない人民は、人民の名で語る者を裁けない。情報の独占は、官僚制、思考停止、法制度によって固定されると、さらに強い配分権へ変わる。
12. 悪の凡庸さ
第十二章「悪の凡庸さ」は、マルクナイクスの社会主義批判とスターリニズム批判の基層を扱う章である。スターリニズムとは、ソ連のヨシフ・スターリン期に典型的に見られた党国家体制、官僚制、粛清、統制、計画、恐怖政治をめぐる政治的現象を指す。マルクナイクスは、それを指導者の性格だけで説明しない。
ハンナ・アーレントは、『全体主義の起源』と『エルサレムのアイヒマン』によって、全体主義、官僚制、判断、責任を考える主要な参照先となっていた。全体主義とは、政治権力が社会の一部だけでなく、人間の生活、思想、言語、記憶にまで及ぼうとする体制である。マルクナイクスは、アーレントの全体主義論を背景に置きながら、焦点をイデオロギーと恐怖の分析から、思考停止、官僚制、法、配分権の固定へ移した。
アーレントの「悪の凡庸さ」は、悪魔的な悪意よりも、思考することの放棄、決まり文句への依存、官僚的職務への埋没、判断の停止を問題にする概念として受け取られる。マルクナイクスは、この概念をスターリニズム批判の入口に置いた。社会主義国家の暴力は、指導者の悪意だけで説明されるのではなく、命令、手続き、統計、許認可、配給、審査、通報、会議、裁判、検察、計画という日常的な制度作業の中で増幅される。
マルクナイクスは、その思考停止を精神的エントロピーの増大として比喩化した。この比喩は、物理学や情報理論の厳密な理論ではなく、彼が用いた補助線である。精神的エントロピーとは、主体が批判的に考え、判断し、自己観察し、良心を働かせる努力を放棄したとき、精神が最も楽な状態へ流れ、命令への服従、既存組織への同調、決まり文句の反復、責任の分散へ向かう状態を指す。
マルクナイクスにとって、思考とは精神の秩序を保つための負のエントロピーである。人間は、考えることをやめると、外部の言葉、命令、役職、空気、所属、手続きへ流れる。個人の良心と判断の差異が失われ、全員が同じ語彙、同じ手順、同じ正当化を反復する。この均一化が、悪の凡庸さを生む。
言語にも、同じ比喩が及ぶ。官僚的な決まり文句、党の語彙、革命の語彙、人民の語彙、歴史の語彙、計画の語彙、合法性の語彙が反復されると、言葉は現実を照らす力を失い、現実を覆う膜になる。アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で、クリシェによって判断停止が露出する過程を見たように、マルクナイクスは、スターリニズム的官僚制にも、決まり文句によって良心の働きが眠る過程を見た。
この状態では、配分、処罰、検閲、通報、計画、統計、会議が、個人の悪意を必要とせずに人間を傷つける。ひとりの担当者は、命令に従っただけだと言う。別の担当者は、規則に従っただけだと言う。さらに別の担当者は、全体のために必要だったと言う。責任は薄まり、手続きは進み、言葉は反復され、人間の痛みは統計や記録の欄へ移される。
マルクナイクスにとって、スターリニズム批判の核心は、特定の指導者の暴力性だけにない。思考を停止した人間、決まり文句、官僚制、法、計画、配分権が結びついたとき、社会全体の精神的エントロピーが増大し、凡庸な悪が制度として作動する。『共産論』は、その作動過程を、善意ある共同性の内部から見ようとした。この思考停止と官僚制は、法と配分権によって固定されると、さらに解きにくい支配へ変わる。
13. 法と配分権
第十三章「法と配分権」は、ソビエト法制を通じて、配分権の制度化を扱う章である。ソビエトには法律があった。憲法、刑法、民法、労働法、土地法、家族法、裁判制度、検察制度、行政機構があり、国家は法と制度を通じて社会主義秩序を組み立てた。
『資本論』は、社会主義国家の憲法案や条文集ではなく、資本主義社会において商品、貨幣、労働力、剰余価値、私有財産、契約、賃労働が人間をどのように支配するかを分析した書物である。そこでは、形式上は自由な契約が、実際には生産手段を持つ者と持たない者の非対称性を隠す。私有財産と契約は、市民的自由の制度であると同時に、資本家が労働力を買い、剰余価値を取得する法的な通路にもなる。
ソビエト法は、『資本論』から直接作られた条文体系としてより、『資本論』的な資本主義批判と整合する法体系として自己を位置づけた。資本主義法は、形式上の自由契約と私有財産を守りながら、資本家と労働者の非対称性を隠す。社会主義法は、その批判を受けて、生産手段の社会的所有、計画経済、労働の権利、教育、医療、社会保障を制度化しようとした。
マルクナイクスが問題にするのは、その制度化のあとである。資本家の私有による搾取を廃するために作られた法が、国家、党、官僚、検察、裁判所、計画機関、配分機関の権限を固定化した。私有財産の所有者は消えたが、誰が配るのか、誰が許可するのか、誰が処罰するのか、誰が記録するのかという問題は残った。
資本主義では、契約と私有財産が搾取を合法化する。ソビエトでは、社会主義法と計画制度が配分権を合法化する。前者では資本家が労働力を買う。後者では国家と党が労働、住居、移動、出版、教育、医療、食料へのアクセスを管理する。どちらも法の外にある暴力ではなく、法の内側にある支配として現れる。
三権分立は、立法・行政・司法を分け、権力を相互に抑制させる仕組みである。権力は腐敗しうるという前提に立ち、裁判の独立、行政への司法審査、議会監視によって、権力を止める回路を確保する。これに対し、ソビエト型法制は、人民の意思を統一的に実現する国家装置として組み立てられ、党、国家機関、計画機関、行政、検察、裁判所が、権力を分割して相互に止める仕組みとしては働きにくかった。人民の名で権力を統一するため、誰がその権力を止めるのかという問いが弱くなる。資本家の支配をなくすための法が、党、官僚、計画機関、配分者、検察、行政の権限を固定する法へ変わる。マルクナイクスは、ここに社会主義法の急所を見た。
共産主義を名乗る国家が市場を取り込んでも、三権分立的なブレーキを持たず、党国家が許認可、配分、情報、処罰を握り続けるなら、アリストクラート(貴族型/王政的支配)とゼヴロクラート(共和制型/人民名義の支配)の同型性は強まる。市場、企業、外資、契約、私有的活動を導入しても、それらが独立した市民社会や権力分立へ接続せず、党国家の統治目的に従属するなら、資本主義的な生産力だけを取り込んだ統制国家になる。王の名で権限を集約するか、人民の名で権限を集約するか。外形は異なっても、配分権、許認可権、情報権、処罰権が一箇所へ集まり、異議申し立ての独立回路が弱いなら、その構造は同型である。そこに、独裁国家のコインの裏表というマルクナイクスの読みが成立する。
マルキシズムを学んだ者の多くは、ソビエトに法があったこと、社会主義法、プロレタリア独裁、国家の死滅、党と国家、計画経済、所有形態の変更といった論点を知識として知っている。だが、マルクナイクスが批判するマルキシズム主義者は、その知識を自分たちの思想の急所として扱わず、社会主義建設、移行期、官僚制の逸脱、外敵、歴史的条件といった語彙で処理する。マルクナイクスは、そこで問う。社会主義法は誰の権限を固定したのか。誰が配分したのか。誰が異議申し立てできたのか。誰が処罰されたのか。労働者本人は本当に自分の労働と生活を制御できたのか。
マルクナイクスにとって、ソビエト法の問題は、法律が存在したかどうかではなく、法が何を守り、誰の権限を固定し、誰の異議申し立てを可能にし、誰を沈黙させるのかである。『資本論』は資本主義法の背後にある階級関係を見た。『共産論』は、社会主義法の背後にある配分関係を見ようとした。
14. 資本論の概要
第十四章「資本論の概要」は、マルクナイクスが自分の批判の参照軸として置いた古典を整理する章である。『共産論』は、共産主義の失敗を扱う書物でありながら、マルクス『資本論』の強さを退けない。資本主義を内側から分析した古典として、その射程を受け取る。
『資本論』は商品から始まる。資本主義社会では、人間の労働の成果が商品として現れ、商品は使用価値と交換価値を持つ。使用価値は、その物が人間の欲求を満たす具体的な有用性である。交換価値は、他の商品とどのような比率で交換されるかという社会的な関係である。資本主義の特質は、人間同士の労働関係が、物と物の交換関係として見えるところにある。
商品交換が発展すると、貨幣が成立する。貨幣は、商品の価値を表し、交換を媒介し、蓄蔵され、支払いに用いられ、世界市場へ開かれる。貨幣は便利な道具であると同時に、人間の関係を抽象化する力を持つ。商品が貨幣を呼び、貨幣が資本へ転化する。資本とは、自己を増殖させる価値である。
資本主義において決定的なのは、労働力そのものが商品になることである。労働者は生産手段を持たず、自分の労働力を売る。資本家はその労働力を買い、一定時間働かせる。労働者は、自分の生活を再生産するために必要な価値を生む時間だけ働くのではない。その時間を超えて働き、必要労働を超えた部分として剰余労働を差し出す。この剰余労働から剰余価値が生まれる。
剰余価値は、資本家によって取得される。資本家は、労働力の価値を賃金として支払いながら、労働が生む総価値との差額を得る。そこに『資本論』が見た搾取の核心がある。搾取は、むき出しの強奪としてだけ現れるのではない。契約、賃金、労働時間、工場制度、市場交換という合法的な形をまとって現れる。
資本は、得られた剰余価値を再投資し、資本蓄積を進める。機械化は生産力を高め、より多くの商品をより短い時間で生産可能にする。だが、機械化は労働者を解放するだけでなく、労働過程を細分化し、熟練を奪い、人間を機械の付属物のように扱うことがある。労働の疎外は、労働者が自分の生産物、自分の労働過程、自分の類的な能力、他者との関係から切り離される状態として現れる。
商品物神性は、この関係をさらに見えにくくする。商品は、あたかも自分自身で価値を持っているかのように見える。人間の労働と社会関係が、物の性質として現れる。市場では、誰がどのような条件で働き、誰がどのように疲弊し、誰が利益を得ているのかが見えにくくなる。商品は整然と並び、貨幣は静かに交換される。その背後で、人間の時間と身体が使われている。
資本主義は、資本の集中と集積を進める。競争は小さな資本を淘汰し、大きな資本をさらに大きくする。企業は機械を導入し、生産規模を拡大し、信用を利用し、市場を広げる。資本は集まり、労働者は生産手段から切り離されたまま労働市場に従属する。労働者階級は、形式上は自由な契約主体でありながら、生きるためには労働力を売らざるを得ない。
景気循環と恐慌も、『資本論』の大きな論点である。資本主義は、拡大、生産過剰、信用膨張、需要不足、失業、倒産を周期的に生む。個々の資本家が合理的に行動しても、社会全体では過剰生産や恐慌が生じる。市場は調和だけを生む機構ではなく、矛盾を蓄積して爆発させる機構でもある。
マルクスの強さは、資本主義を永遠不変の自然秩序として扱わなかった点にある。資本主義は歴史的に成立した制度であり、別の形態から生まれ、別の形態へ移りうる。人間が作った制度である以上、その内部の搾取や矛盾を検査できる。この視点は、古典としていまも強い。
マルクナイクスは、この分析を認めたうえで、同じ内省の刃を共産主義にも向けた。資本主義が商品、貨幣、労働力、剰余価値を通じて人間を支配するなら、共産主義は善意、共有、代表、配分権、情報独占、剰余善意を通じて人間を支配しうる。『共産論』の前半は、この反転によって閉じられる。
15. エッセネ派とクムラン
第十五章「エッセネ派とクムラン」で、本書は古代宗教共同体へ向かう。エッセネ派は、紀元前二世紀頃から紀元一世紀頃にかけてユダヤ教世界に存在したとされる共同体で、財産共有、禁欲、共同生活、規律、清浄、終末論を持つ集団として扱われる。終末論とは、歴史が神の裁きや完成へ向かうという考え方である。
マルクナイクスは、彼らの共有制度そのものより、それを支える垂直軸を評価する。エッセネ派の共同性は、人間同士の善意だけで維持されたものではなかった。神の前で自分たちを整えるという大きな物語があった。所有欲を制限する理由は、経済的効率や政治的平等だけではなかった。人間より上位の存在への畏れがあり、自分の欲望を聖なる秩序の前で制限するという構造があった。
共同生活と財産共有を考えるとき、新約聖書の初期キリスト教共同体も思い起こされる。使徒言行録には、信じる者たちが持ち物を共有し、必要に応じて分け合ったと記されている(使徒言行録 2章44節から45節、使徒言行録 4章32節から35節)。マルクナイクスが注目するのは、このような共有が、単なる経済制度ではなく、神の前での生活の整えと結びついていた点である。
この章で、マルクナイクスは「優勢」という語を使う。エッセネ派の優勢は、近代共産主義より古いことにも、厳格な規律にも、財産共有にも尽きない。彼らは、人間を共同体の最終基準に置かなかった。共同体そのものもまた、神の前で問われるものだった。
宗教共同体にも腐敗はある。神の名で人を支配することもある。マルクナイクスはその危険を承知している。だが、腐敗を腐敗として裁く基準が、人間共同体の外側または上位に置かれている点に意味を見る。神なき共同体では、その基準が党や理論や指導者へ移る。
エッセネ派の問題は、クムラン教団の終末論的共同体としての性格へ接続される。クムランは、死海文書と結びつけて論じられることの多い共同体であり、自分たちの共同生活を、神の計画と結びつけて理解した。共同体は生活組合ではなく、来たるべき時に備える場だった。規律、選別、清浄、共同生活、終末への備えは、現代人から見ると閉鎖的に見える。そこには危うさもある。マルクナイクスは、そこに近代政治が失ったものを見る。人間の共同体を超える基準である。
クムランの共同性において、指導者もまた神の前に立つ。共同体の正しさは、内部の人気や多数決や効率だけで決まらない。上位存在への畏れが、共同体の自制機能として働く可能性を持つ。
マルクナイクスは、エッセネ派やクムランを現代に再現せよとは言わない。彼が取り出すのは、制度ではなく象徴構造である。善意ある共同性は、上位存在への畏れを欠くと、代表者、配分者、理論家の支配へ転じる。エッセネ派とクムランは、その反例として読まれる。
16. 神なき共同性
第十六章「神なき共同性」は、近代共産主義を宗教の世俗化として読む章である。世俗化とは、本来は宗教的な意味を持っていた形式や期待が、神や聖なるものを外したまま政治や社会の中へ移されることである。マルクナイクスによれば、近代共産主義は宗教共同体から多くの外形を受け継いだ。共有、規律、選民意識、終末論、腐敗した世界への批判、清浄な共同体、来たるべき未来への希望。これらは、宗教的構造によく似ている。
近代共産主義は、そこから神を抜いた。神の位置に、歴史法則を置いた。神の位置に、党を置いた。神の位置に、人民を置いた。神の位置に、革命を置いた。人間より上位の存在を尊重する物語が、人間の作った理論を尊重する物語へ置き換わった。
この置換が、疑似王政の入口になる。上位存在への畏れを失った共同体では、人間の誰かが上位者になる。理論を知る者、歴史の法則を読む者、人民を代表する者、革命を導く者が、神の代理人のように振る舞う。
マルクナイクスが問題にするのは、宗教的構造を持ちながら、神の前での自制を失った共同性である。そこに、彼の独自の批判がある。
17. グルジェフ的分類
第十七章「グルジェフ的分類」で、マルクナイクスは『ベルゼバブの孫への話』の地球人批判を政治分類へ転用する。
グルジェフ思想の中心には、人間は自分で自分を完全に知っている存在ではなく、しばしば機械的に反応しているという見方がある。自分で考えているつもりでも、実際には欲望、恐怖、習慣、周囲の空気によって動かされる。この状態を知るために必要なのが自己観察である。自己観察とは、自分の内側に起こる欲望、怒り、虚栄、恐怖、正当化の動きを、できるだけ正確に見る訓練である。
『ベルゼバブの孫への話』では、地球のインテリゲンチャたちは自分自身の意志によって内的衝動を導けず、外から来る刺激によって自動的に反応する存在として描かれる。そのうえで、責任ある存在過程の中で内的機能が変質した者たちは、ビューロクラート(官僚型)、プルートクラート(金権型)、テオクラート(神権型)、デモクラート(民主型)、ゼヴロクラート(共和制型/人民名義の支配)、アリストクラート(貴族型/王政的支配)といった名称で呼ばれるようになる。
マルクナイクスは、この一覧を制度そのものの分類として読まなかった。彼はそれを、存在水準が低下した人間類型として読んだ。存在水準とは、知識量や地位ではなく、自分を観察し、欲望を制限し、良心に従い、上位の基準の前で自分を相対化できるかどうかを示す言葉である。
ビューロクラート(官僚型)は、手続きと記録と管理を握る者である。プルートクラート(金権型)は、信用と金銭を利用して他者を支配する者である。テオクラート(神権型)は、信仰を利用して人間の内面へ働きかける者である。デモクラート(民主型)は、民意や人気の通路を使って上層へ入り込む者である。ゼヴロクラート(共和制型/人民名義の支配)は、人民、共和制、共同体の名で配分権や処罰権を握る者である。アリストクラート(貴族型/王政的支配)は、称号、血統、名誉、上位者としての資格によって支配する者である。
この読解によって、『共産論』の近代政治批判は制度名の比較を超える。制度名や思想名が変わっても、人間の内実が変わらなければ、官僚制、金権、神権、民主、共和、貴族的支配は同じ理由で劣化する。劣化の理由は、上位存在への畏れ、自制、良心、自己観察が失われ、制度上の役割、称号、理念だけが残ることにある。
マルクナイクスは、政治形態の名前を変えても、人間の存在水準が変わらなければ同じ支配型が再発生すると見た。資本主義を倒しても配分者とビューロクラート(官僚型)は残る。神権を批判しても党や理論が新しいテオクラート(神権型)になる。民主主義を掲げても、人気と機会を利用したデモクラート(民主型)が統治の位置へ入る。グルジェフ的分類は、制度の看板ではなく、その制度を担う人間の内実を問うための道具だった。
18. 王政と共産制
第十八章「王政と共産制」で、マルクナイクスは、アリストクラート(貴族型/王政的支配)とゼヴロクラート(共和制型/人民名義の支配)の同型性を展開する。両者は、制度上の反対物としてではなく、同じ支配衝動が別名で現れる型として読める形で並べられていた。
マルクナイクスは、アリストクラートをアリストクラティア(哲人政治)の劣化版として読む。アリストクラティアでは、哲人が知恵と善にもとづいて共同体全体を見て統治する。アリストクラートでは、その内実が失われ、上位者であること、称号、血統、名誉、支配資格だけが残る。つまり、哲人政治の形骸化がアリストクラートである。
ゼヴロクラートは、その反対側にある同型物である。アリストクラートが上位者、貴族、王政的資格の名で支配するのに対し、ゼヴロクラートは人民、共和制、平等、共同体の名で支配する。名目は反対に見えるが、存在水準を欠いた者が配分権、処罰権、代表権を握る点で同じ構造を持つ。
この同型性が、マルクナイクスにとってグルジェフの預言性である。預言性とは、未来の事件を当てたという意味ではない。王政的支配と人民名義の支配が、存在水準の低下によって同じ支配構造へ収束することを見ていた、という意味である。ベルリンの壁崩壊後、マルクナイクスはこの構造を読み返し、二十世紀共産主義の失敗を読む鍵とした。この同型性は、後に法制や市場導入の問題にも及ぶ。
共産制は、王政の否定として登場したにもかかわらず、実際には王政の支配機能を別名で再構築した。王冠は消えた。貴族称号も消えた。だが、配分する者、記録する者、処罰する者、人民の名で人民を裁く者が残った。そこに、ゼヴロクラート(共和制型/人民名義の支配)の本質がある。
19. グルジェフとプラトン
第十九章「グルジェフとプラトン」で、マルクナイクスは、グルジェフの政治的諷刺を、プラトン『国家』の政体論と並行して読んだ。プラトンは、政治体制を制度名だけではなく、魂の秩序の反映として見た。魂とは、人間の内側にある欲望、気概、理性の秩序である。都市の政治は、人間の魂のあり方を拡大して映すと考えられた。
プラトンの政体論には、アリストクラティア(哲人政治)、ティモクラティア(名誉支配制)、オリガルキア(寡頭制)、デモクラティア(民主制)、テュランニス(僭主制)という流れがある。アリストクラティア(哲人政治)では、知恵と善を知る者が共同体全体を見て統治する。ティモクラティア(名誉支配制)では、哲人の内実よりも名誉、武勲、序列、規律、功績が前に出る。オリガルキア(寡頭制)では、地位や名誉を支える実質として富と財産が政治を握る。デモクラティア(民主制)では、富と序列への反発から自由と平等が広がる。テュランニス(僭主制)では、自由と平等が秩序を失ったあと、不満、欲望、恐怖、救済願望を一人の人物が回収する。
この政体論は、歴史上の王権成立史ではなく、統治の内実がどのように失われるかを描く哲学的図式である。歴史上の王権形成は、富、名誉、武勲、祭祀的権威、配分権が一人または一族へ集約され、その地位が継承され、儀礼化され、制度化されたものとして説明できる。プラトンの図式は、その歴史説明とは別に、統治者の魂と共同体の秩序がどのように劣化するかを示す。
グルジェフは、ビューロクラート(官僚型)、プルートクラート(金権型)、テオクラート(神権型)、デモクラート(民主型)、ゼヴロクラート(共和制型/人民名義の支配)、アリストクラート(貴族型/王政的支配)という六類型を通じて、制度名が変わっても人間の存在水準が低ければ同じ劣化が反復されることを描いた。プラトンが政体の劣化を描いたとすれば、グルジェフは制度を担う人間類型の劣化を描いた。
マルクナイクスは、この二つを受け取り、政治の劣化を制度の失敗としてだけでなく、人間の内実が失われる過程として読んだ。制度を変えても、人間が機械的であり、良心を失い、虚栄と欲望と恐怖に動かされる限り、支配は別名で戻る。プラトンが骨格を示し、グルジェフが存在水準論として再記述し、ベルリンの壁崩壊がそれを歴史的に照らし返した。マルクナイクスは、その照り返しの中で『共産論』を書いた。
20. 王政の挿話
第二十章「王政の挿話」で、マルクナイクスはグルジェフが描く王政の挿話を参照する。そこでは、ある王が共同体の維持のために自分の労働と富を惜しまない存在として描かれる一方で、必要なものを共同体から引き出すためには威嚇や強制を用いる局面を持つ。
マルクナイクスはこの箇所から、善良な統治者であっても、統治は必ず配分と強制へ接続するという命題を引き出した。王政の問題は、善良な統治者であっても、共同体維持の責任を負った瞬間に命令、徴発、配分、懲罰の構造へ入る点にある。
さらに王政に関する挿話では、政府機構を一度変えたあと、旧秩序へ戻すこと自体が重大な反発を招くとされる。周囲の者たちは、旧政府への復帰を必要と判断しながら、それが市民の反乱を招くと予測する。民衆の怒りを王本人ではなく行政機構へ向けさせる議論も出る。マルクナイクスはこの挿話を、制度変更の不可逆性と、統治責任が行政担当者の身体へ落ちる過程として流用した。
改革は、善意だけで戻せない形に制度を変形させる。制度が変形したあと、王も民衆も行政も、すでに動き出した機構の中で別々の役を演じる。政治形態の変更は、理念の変更だけでは完了しない。そこには手続き、利害、職務、怒りの受け皿、行政担当者の疲弊が残る。
21. 選挙と共和国
第二十一章「選挙と共和国」では、古代エジプトの政変挿話に出てくる選挙の描写も、『共産論』における民主主義批判の素材になる。町や村の長を選ぶ選挙が告知され、その基準が、宗教儀礼上の供物をどれだけ差し出すかという競争になる。マルクナイクスはこの場面から、選挙形式が哲人を選ぶ保証にならないことを読み取った。共同体の存在水準が低ければ、選挙は知恵や徳の選別ではなく、供物、人気、見せ金、熱狂、儀礼的参加量の競争へ変わる。民主主義は、支配者を交代可能にする価値を持つが、選挙は存在水準の高い人間を自動的に選ばない。
トルコの共和国化に関する箇所も、マルクナイクスの制度批判へ組み込まれた。グルジェフは、古い国家組織を捨て共和制的形態へ移ったトルコを、一人の支配者から複数の支配者への移行として描く。マルクナイクスはそこに、王を消しても支配機能は残りうるという近代政治の課題を見た。支配者が単数から複数へ変わるだけなら、共同体は王政を脱したように見えて、別の管理体制へ入る。
この政治分類の対極に置かれるのが、アシアタ・シエマシュの統治である。グルジェフは、アシアタ・シエマシュの聖なる労働の結果として、当時の人々が首長や王の言葉を銃剣や牢獄への恐怖によってではなく、献身と喜びによって実行していたと描く。マルクナイクスは、統治者と共同体のあいだに、恐怖ではなく、内的な尊重と自制が成立しているかどうかを真の統治の条件として読んだ。
22. 疑似王政
第二十二章「疑似王政」は、王冠なしに王政的構造が復活する条件を扱う章である。王政を倒す思想が、別の王政を作る。封建制を批判した運動が、党官僚制を作る。貴族を批判した思想が、幹部特権を作る。教会を批判した運動が、理論と党を国教のように扱う。
疑似王政には、王冠がない。血統もない。玉座も儀式も別の形を取る。だが、上から裁く者、配分する者、異端を決める者、現実を編集する者がいる。そこに王政的構造が復活する。
マルクナイクスは、近代政治の語彙よりも、実際の権限の流れを重視する。人民、平等、解放、革命、民主、科学。これらの言葉が並んでいても、実際に誰が命令し、誰が従い、誰が情報を持ち、誰が例外的待遇を受けるのかを見る。疑似王政は、配分権、処罰権、代表権、情報編集権が特定の者や機関へ集中するときに発生する。
この疑似王政批判は、後のネオ・アリストクラティア(新哲人政治)へ接続される。制度の看板よりも、権限の集中をどう止めるかが問題になる。
23. 資本論の肯定
第二十三章「資本論の肯定」は、資本論の位置づけを整理する章である。共産主義批判の書物である『共産論』は、マルクス『資本論』を退けない。むしろ、資本主義に搾取があることをはっきり認める。
マルクナイクスは、資本主義の勝利を喜ぶだけの反共主義を退ける。共産主義が失敗したからといって、資本主義の搾取が消えるわけではない。『資本論』は、資本主義の病理を見抜く古典として肯定される。
この章は、本書の均衡を支えている。マルクナイクスは、共産主義批判と資本主義批判を両立させる。同じ内省力を資本主義にも当てる。そうすると、マルクスは再び必要になる。資本主義の病理を見抜く眼として、『資本論』は参照される。
マルクナイクスが行ったのは、『資本論』の拒否ではなく、批判の対称化である。私有による搾取を問うなら、配分権による搾取も問われる。貨幣による支配を問うなら、善意による支配も問われる。商品物神性を問うなら、人民、党、革命、大義という語の物神化も問われる。
『共産論』は、その意味で『資本論』の批判の継承者である。マルクスが資本主義に向けた内省の刃を、マルクナイクスは共産主義へ向けた。資本主義批判を捨てず、共産主義批判も捨てない。その両立が、この章の位置を決めている。
24. 現代経済学
第二十四章「現代経済学」で、マルクナイクスは『資本論』を肯定しながら、それを全能の書物として扱わない。現代経済学は、『資本論』以後に大きく進んだ。労働経済学、産業組織論、ゲーム理論、契約理論、情報の非対称性、行動経済学、金融経済学、開発経済学、公共経済学、計量経済学、制度経済学、マクロ経済学、国際貿易論など、分析道具は細かく分かれた。
労働価値説に対して、現代経済学は需要と供給、限界効用、生産コスト、希少性、競争状態、ブランド、情報、期待、制度、規制を加える。剰余価値論に対して、企業利益にはリスク負担、資本投資、技術革新、経営能力、組織設計、ブランド形成、需要予測、失敗可能性への対価が含まれると見る。労働市場については、人的資本、教育、技能、経験、労働組合、最低賃金、雇用規制、企業内訓練、転職市場、差別、地域格差、移民、労働市場の摩擦が賃金を左右する。
商品物神性の問題は、現代のブランド、広告、認知バイアス、ランキング、レビュー、フォロワー数、限定品、消費文化の分析へ接続する。資本蓄積と格差の問題は、相続、金融資産、住宅価格、教育、税制、技術変化、労働分配率、企業統治の分析へ広がる。恐慌論は、景気循環、金融危機、中央銀行、財政政策、信用膨張、資産バブル、期待形成、インフレ、失業の分析へ細分化される。
マルクナイクスは、古典理解を自己優越感の根拠にする態度を批判した。『資本論』を読む経験は、資本主義批判への入口になる。現代経済を読むには、そこに労働経済学、情報の非対称性、契約理論、行動経済学、金融経済学、制度経済学などの道具を重ねる必要がある。
彼のマルキシズム主義者批判は、この地点から立ち上がる。古典を読むことは必要である。古典理解と現代経済の理解、さらに倫理的成熟は、それぞれ別の検査を必要とする。
25. 近代政治
第二十五章「近代政治」は、資本主義、共産主義、民主主義を横並びにする章である。資本主義は欲望を市場へ解放した。共産主義は善意を国家へ集中した。民主主義は判断を多数へ委ねた。三者はそれぞれ人間の自由を広げ、同時に人間の弱さを制度の中で拡大した。
資本主義は、創造力、競争、技術革新、選択の自由を生んだ。だが、富の集中、労働の疎外、商品化、欲望の肥大を生んだ。共産主義は、平等、共同性、搾取廃絶への願いを掲げた。だが、配分権の集中、党官僚制、情報独占、善意による搾取を生んだ。民主主義は、支配者を交代可能にし、民意を政治へ入れた。だが、衆愚化、扇動、短期利益、人気取り、責任の分散を生んだ。
この章で、マルクナイクスはプラトンへ近づく。制度の問題は、結局、人間の問題へ戻る。欲望に支配される人間、善意に支配される人間、多数の気分に流される人間。近代政治形態は、これらを十分に克服できない。
最良の政治形態はアリストクラティア(哲人政治)である。マルクナイクスは、そう言い切る。ただし、古い哲人政治のままでは危険である。誰が哲人を認定するのかという問題が残るからだ。
26. 平等の誤差
第二十六章「平等の誤差」は、人間の尊厳の平等と統治資格の差を分ける章である。近代政治は、人間は平等であるという考えを大切にする。この平等は、身分、血統、財産、出身によって人間の尊厳を差別しないという意味で、きわめて重要である。
マルクナイクスは、人間の尊厳の平等と、統治資格の平等を分ける。人間の尊厳は等しい。だが、統治能力、倫理的自制、霊的成熟、欲望への耐性、権力への警戒心、善意を疑う力は等しくない。
この区別を失った政治は、搾取目的の為政者を排除できない。民主主義は、人気を得る者を上げる。資本主義は、市場で勝つ者を上げる。共産主義は、党内で出世する者を上げる。いずれも、その人物が本当に自制できる者か、人間より上位の存在の前で自分を制限できる者かを十分に検査しない。
平等を粗雑に扱うと、搾取者が合法的に上がってくる。選挙に勝った、利益を出した、党に認められた、学歴がある、専門知がある、大衆を動かせる。これらは能力の指標にはなるが、搾取者を排除する基準にはならない。むしろ搾取者ほど、これらを巧みに利用する。
マルクナイクスは、尊厳の平等と統治資格の差を分ける。ここを混同する社会は、優しい言葉で自分の防御装置を壊す。すべての人を守ることと、すべての人を為政者にふさわしいと扱うことは、別の問題である。
27. 哲人政治
第二十七章「哲人政治」で、プラトンのアリストクラティア(哲人政治)が正面から論じられる。哲人政治とは、知恵と善を知る者が共同体全体を見て統治する政治である。プラトンは『国家』において、政治を知恵ある者に委ねるべきだと考えた。欲望に支配される者、金銭に支配される者、人気に左右される者が政治を担えば、都市は乱れる。統治者は、善を知り、魂の秩序を知り、私益より全体の調和を見る者でなければならない。
マルクナイクスは、この主張に同意する。近代政治形態の失敗を見たあとでは、哲人政治の理屈は再び力を持つ。市場に任せれば欲望が肥大する。党に任せれば代表者が神になる。多数に任せれば気分が政治を動かす。ならば、欲望、党派、多数の気分を超えて善を見られる者が必要になる。
哲人政治には、自称賢者が善の名を用いて統治権を独占する危険がある。賢者を名乗る者が、自分こそ善を知ると言い始める。専門家、宗教家、革命家、官僚、大学教授、思想家、王族、党幹部。誰もが哲人を名乗りうる。
マルクナイクスは、この危険を哲人認定の問題として受け取った。哲人政治を成立させるには、知性だけでなく、統治者が自分を制限できるかを検査する原理が必要になる。この問題は、後のネオ・アリストクラティア構想へ送られる。
28. 認定問題
第二十八章「認定問題」は、哲人政治の急所を扱う。誰が哲人を哲人と認定するのか。この問いに答えられなければ、哲人政治は成立しない。党が認定すれば党の代理人になる。大学が認定すれば制度知の代理人になる。国家が認定すれば権力の代理人になる。大衆が認定すれば人気の代理人になる。
マルクナイクスは、個人の知能や肩書きではなく、思想が持つ象徴的な自制機能を検査する。彼は、千年規模の宗教団体、哲学思想、神話伝統を横断し、そこに共通する複合的象徴学を見た。神、天、道、法、ロゴス、創造主、聖なる秩序。名称や教義は異なるが、人間を最終審級にしないための装置がある。
長く残った伝統には、人間が自分自身を神にしないための象徴的な工夫が蓄積されている。人間を超えるものを認める。その前で欲望を制限する。指導者も裁かれる側に置く。知識を自己優越感から切り離す。権力を畏れによって制限する。
哲人の認定には、自称、人気、学歴を超えて、その人の思想と実践に自制の構造があるかを確かめる視点が必要になる。マルクナイクスは、これを現場検証と呼ぶ。
29. 三分類
第二十九章「三分類」は、グルジェフの概念を政治哲学へ転用する章である。マルクナイクスは、仏教徒、哲学者、クリスチャン、無宗教者といった外形区分を排除する。そして全人類を、真のクリスチャン、クリスチャン候補生、非クリスチャンの三種に分ける。
この分類は、宗派分類を超えた存在水準の分類である。グルジェフの講話記録では、彼のインスティテュートの目的が、人がクリスチャンであることを可能にすることとして語られる。そこでは、単に「望む」こと、「可能になる」こと、「存在する」ことが段階として分けられる。さらに、キリスト教の命令を実際に満たせる者、心では望むが本質ではまだ実行できない者、心においても実行できない者という区分が作られる。マルクナイクスは、この構造を政治哲学へ持ち込んだ。
聖書においても、善を知ることと善を行うことの間には深い裂け目がある。パウロは、自分が望む善を行わず、望まない悪を行ってしまう人間の分裂を語る(ローマの信徒への手紙 7章15節)。この一節は、知識、願望、実行の間に距離があることを示している。マルクナイクスがグルジェフ的三分類に惹かれた理由も、そこにある。
マルクナイクスにおいて、真のクリスチャンは、キリスト教徒名簿に載る者を指さない。心と本質の両方で善を実行できる者である。クリスチャン候補生は、まだ完全にはそう生きられないが、その方向を望み、訓練へ入る者である。非クリスチャンは、宗教的所属に関係なく、上位存在の前で自分を制限できない者である。
この分類の背景には、グルジェフ系の著作に見られる存在水準への強い関心がある。宗教的所属ではなく、人間がどの水準で善を理解し、実行できるかが問題にされる。
マルクナイクスは、この基準を哲人認定に用いた。この語は、教派上の所属ではなく、上位存在への畏れ、自制、良心、実行可能性を備えた存在水準を示す。真の仏教徒であっても、真のプラトン哲学者であっても、真の神話的伝統の担い手であっても、その存在水準がこの基準を満たすなら、彼は真のクリスチャンと呼ばれる。
この命名は強引である。だが、マルクナイクスは語彙における矛盾をあえて残すことで、概念の普遍性を示そうとした。真のクリスチャンとは、教会の名簿に載る者ではなく、善を生きることができる存在である。
30. 候補生
第三十章「候補生」は、三分類の中間に置かれる人々を扱う。クリスチャン候補生とは、まだ真のクリスチャンとして生きられないが、そう生きたいと望み、自分の機械性を知り、訓練へ向かう者である。
マルクナイクスは、この層を重視する。人間はほとんどの場合、最初から哲人ではない。人間は欲望に動かされ、気分に動かされ、承認欲求に動かされ、集団に流される。だが、自分がそうであることを知り、上位存在の前で自分を制限しようとする者は、候補生である。
候補生は、政治的に重要である。真の哲人が少数しかいないなら、共同体は候補生の訓練を制度化する必要がある。候補生を育てられない社会は、哲人政治を名乗っても持続しない。候補生を育てる仕組みを持たない哲人政治は、カリスマ依存や血統主義へ近づく。
この章で、マルクナイクスは教育論にも踏み込む。教育とは情報を詰め込むことではなく、自分の欲望、怒り、見栄、恐怖、支配欲を観察できる人間を育てることである。知識人を増やしても、真のクリスチャンは増えない。候補生を育てるには、知識と存在水準を同時に扱う教育が要る。
31. 非クリスチャン
第三十一章「非クリスチャン」は、宗教的所属ではなく、上位存在の前で自分を制限できない存在状態を扱う章である。マルクナイクスの言う非クリスチャンは、自分の欲望、感情、思想、党派、知識、善意、人気を最終基準にしてしまう者を指す。
非クリスチャンは、教会にいることもある。寺にいることもある。大学にいることもある。政党にいることもある。市民運動にいることもある。非クリスチャンとは、外形ではなく存在水準である。
この章は、読者自身を対象に含める。非クリスチャンとは、どこかの愚かな大衆だけではない。正しいことを語る自分、弱者のために怒る自分、資本主義を批判する自分、民主主義を守る自分、信仰を語る自分も、上位存在の前で自分を制限できなければ非クリスチャンである。
マルクナイクスは、非クリスチャンを憎まない。彼は、人間の大部分が非クリスチャン的に生きていると見る。そのうえで、非クリスチャンが為政者になることを恐れる。自分を制限できない者が権力を持つとき、政治は搾取へ向かう。
32. 良心
第三十二章「良心」は、道徳と良心を分ける。道徳は時代、地域、階級、共同体によって変わる。何を礼儀とし、何を恥とし、何を善とするかは、社会によって変動する。良心は、より深いところで自分の矛盾を感じる力として置かれる。
マルクナイクスは、哲人の条件を道徳的評判に置かない。評判のよい人間が搾取者であることもある。礼儀正しい人間が支配欲を隠していることもある。共同体の道徳を守る人間が、共同体外の人間を傷つけることもある。
良心とは、自分の中の矛盾を見てしまう力である。自分が善の名で誰かを使っていること、自分が弱者の味方をしながら身近な人を疲弊させていること、自分が上位存在を語りながら自分を神の位置に置いていること。それを感じる力が良心である。
聖書の中にも、良心や内面の分裂をめぐる言葉がある。パウロは、律法を知りながらも、その知識だけでは人間が善を実行できない現実を語った(ローマの信徒への手紙 7章15節から25節)。マルクナイクスの良心論は、このような内的分裂を政治思想の中心に置く。制度だけを変えても、人間が自分の矛盾を見なければ、同じ支配が別名で戻る。
この章は、三分類の実質的な基準を補強する。真のクリスチャンは、良心を持つ。候補生は、良心を求める。非クリスチャンは、道徳や理論や所属で自分を正当化し、良心を眠らせる。
33. 逃げ場
第三十三章「逃げ場」は、制度論として非常に重要である。搾取を防ぐには、逃げ場が必要である。職場から逃げられること。地域から逃げられること。党から逃げられること。共同体から逃げられること。思想から逃げられること。宗教団体から逃げられること。
逃げ場を裏切りと呼ぶ共同体は、人間を壊す。資本主義社会では、逃げ場が金に依存しやすい。金がなければ転職も引っ越しも休養も難しい。共産主義国家では、逃げ場が政治的に閉ざされやすい。国家が雇用、住居、配給、移動、教育を握るからである。宗教共同体では、逃げ場が罪悪感によって閉ざされやすい。
ネオ・アリストクラティア(新哲人政治)は、逃げ場を制度化しなければならない。哲人がいるから安心だという考えは危険である。哲人も誤る。候補生も疲れる。共同体も腐る。だから、退出、異議申し立て、情報公開、複数の所属先、生活の足場が必要になる。
マルクナイクスは、逃げ場を弱さではなく防波堤として扱う。人間の弱さを前提にする政治だけが、逃げ場を制度として確保できる。
34. 小さな所有
第三十四章「小さな所有」は、共産主義批判と資本主義批判の中間にある章である。マルクナイクスは、私有を一括して悪と扱わない。人間には、小さな所有が必要である。服、道具、本、家、畑、店、工房、端末、貯蓄、技能、生活の場所。これらは、国家や共同体から自分を守る足場になる。
巨大資本の所有と、生活を支える所有は区別されるべきである。土地や金融資本や巨大企業の集中は支配を生む。だが、個人の生活の足場まで共同体や国家が吸収すると、人間は逃げられなくなる。すべてを共同体に預けた人間は、共同体から離れられない。すべてを国家に預けた人間は、国家に逆らえない。
小さな所有は、哲人政治においても必要である。哲人が善良であるとしても、統治される人間に足場がなければ、善意の支配が始まる。人間を守る制度は、統治者の善だけに依存してはならない。
この章は、『共産論』が巨大資本への警戒と生活上の所有の擁護を両立させていることを示す。マルクナイクスは巨大資本を警戒しつつ、小さな所有を人間の自由の条件として守る。
35. 市場
第三十五章「市場」は、価格と情報の問題を扱う。市場とは、商品やサービスが売買され、価格を通じて需要と供給が調整される場である。マルクナイクスは、市場を道徳的に称賛しない。市場には欲望、格差、商品化、搾取がある。だが、市場には情報伝達の機能もある。価格は、希少性や需要や失敗を伝える場合がある。
計画経済が失敗した理由の一つは、この情報機能を軽く見たことにある。中央がすべてを知り、すべてを配分できるという前提は、人間の知識の限界を忘れている。情報は分散している。現場にある。生活にある。欲望にも、失敗にも、在庫にも、行列にも、価格にも現れる。
市場を完全に消すと、搾取の指標も消えることがある。価格が統制されれば、不足は行列として現れる。失業が隠されれば、非効率な雇用として現れる。賃金が抑えられれば、国家投資や軍事費として吸収される。
市場には限界があり、市場を消した場所には配分者が現れる。マルクナイクスは、市場の暴走と計画の暴走を同時に見る。
36. 民主
第三十六章「民主」は、民主主義の限界を扱う。民主主義とは、人民が政治の正統性の源泉となり、選挙や議会を通じて支配者を選び、交代させる仕組みである。民主主義は、支配者を交代可能にする。これは大きな価値である。暴君を選挙で退けられること、政権が変わること、民意が政治に入ることは、王政や独裁への防波堤になる。
民主主義は哲人を自動的に選ぶ制度としては働きにくい。人気のある者、分かりやすい言葉を使う者、不満を吸い上げる者、敵を設定する者、短期利益を約束する者が勝ちやすい。多数派の気分が、善よりも強くなることがある。
民主主義は、非クリスチャン的な能力に報いることがある。自己演出、怒りの操作、扇動、約束、敵味方の単純化、メディア対応。これらは選挙では強みになるが、統治者の自制とは別の能力である。
マルクナイクスは、民主主義を捨てよとは書かない。民主主義には、哲人認定の象徴学、候補生を育てる教育、非クリスチャン的為政者を制限する制度が組み合わされる必要がある。
37. 教育
第三十七章「教育」は、ネオ・アリストクラティア(新哲人政治)の実装へ進む章である。教育の目的は、情報量の増加ではない。統治者候補が自分の欲望、恐怖、嫉妬、支配欲、承認欲求、善意の危険を観察できるようになることである。
マルクナイクスは、知識だけを哲人性の根拠にしない。知識は、良心と結びつかなければ自己優越感になる。難解な本を読む能力は、他人を見下す材料になる。経済学、神学、哲学、マルクス主義、プラトン、仏教、キリスト教。どの知識も、自制と結びつかなければ、権威の衣装になる。
教育は、候補生を育てるためにある。候補生は、自分がまだできないことを知る人間である。愛を語れても愛せない。平等を語れても見下す。善を語れても支配する。共同体を語れても実務担当者を疲弊させる。そういう自分を見る訓練が教育である。
この章は、現代の学校教育批判としても読める。点数、学歴、専門知、資格は、哲人性を保証しない。教育は、知識と存在水準の両方を扱う必要がある。
38. 共同体監査
第三十八章「共同体監査」は、共同体の理念よりも、労働配分、疲労、承認、責任の偏りを検査する章である。監査とは、表に出ている説明や理想だけでなく、実際に何が起きているかを確認することである。
誰が働いているのか。誰が楽をしているのか。誰が発言しているのか。誰が黙っているのか。誰が感謝されているのか。誰が見えない労働をしているのか。誰が疲弊して去っているのか。誰が去った人を裏切り者として扱っているのか。
共同体監査は、会計監査より深い。金の流れだけでなく、疲労の流れを見る。承認の流れを見る。責任の偏りを見る。沈黙の偏りを見る。感謝されない労働を見る。
マルクナイクスは、共同体を理想化しない。共同体は人を支え、同時に人を縛ることがある。孤独を和らげる一方で、異物を排除し、善意を生みながら剰余善意を搾取することもある。だから監査が要る。
39. 宗教監査
第三十九章「宗教監査」は、上位存在を置く思想が支配へ転じる危険を扱う章である。神の名を使って支配する者がいる。宗教共同体にも搾取がある。司祭、教祖、指導者、長老、教団運営者が、上位存在を自分の権威に変えることがある。
マルクナイクスは、宗教を政治の防波堤として評価しながら、宗教権力を正当性の根拠としてそのまま扱わない。真のクリスチャンという語も、宗教的肩書きとして使われた瞬間に腐る。教会に所属すること、仏教徒を名乗ること、哲学者を自称することは、哲人性の証明にならない。
宗教監査の基準は、上位存在が人間の支配欲を制限しているかどうかである。指導者を強くしているだけなら、その宗教は疑似王政へ近づく。信徒の良心を育て、指導者自身を裁かれる側に置くなら、その宗教は垂直軸として機能する。
聖書にも、言葉や肩書きではなく、実際の実りによって人を見分けるという発想がある。マタイによる福音書では、木はその実によって知られると語られる(マタイによる福音書 7章16節から20節)。マルクナイクスにとって、宗教監査とはまさにその実を見る作業である。指導者が何を語るかよりも、その共同体で誰が疲弊し、誰が沈黙し、誰が逃げられないのかを見る。
この章によって、本書は神権政治論ではなく、宗教象徴が人間の支配欲をどう抑えるかを問う議論として整理される。マルクナイクスは、宗教家による支配を求めない。彼が求めるのは、宗教象徴学によって人間の支配欲を抑える仕組みである。
40. ネオ・アリストクラティア
第四十章「ネオ・アリストクラティア」で、本書の政治構想が明示される。ネオ・アリストクラティア(新哲人政治)は、本来のアリストクラティア(哲人政治)の復権である。プラトンの哲人政治を古代的に復元する構想ではなく、アリストクラート化とゼヴロクラート化を防ぐために、グルジェフ的な存在水準の検査、エッセネ派とクムランに見られる垂直軸、真のクリスチャン概念を組み込んだ新しい哲人政治である。
この政治は、哲人の善良さだけに依存しない。哲人は、知性だけで認定されず、共同体の労働配分を見抜き、自分自身も制度の外側に立たない者として検査される。哲人自身が制限される点に、マルクナイクスがプラトンへ加えた補正がある。
ネオ・アリストクラティアは、資本主義、共産主義、民主主義をすべて材料として使う。市場の情報機能を捨てない。共同性の理想を捨てない。民主的な交代可能性を捨てない。だが、それらを最終基準にしない。市場も、党も、多数派も、専門家も、哲人自身も、互いに検査される位置へ置かれる。
ネオ・アリストクラティアは、政治原理の再配置として提示される。誰が支配するかより先に、誰が自分を制限できるかを問う。何を所有するかより先に、誰が配分するかを見る。どんな理念かより先に、誰が疲弊しているかを見る。哲人政治の内実を回復し、アリストクラート化とゼヴロクラート化を防ぐことが、この構想の中心である。
41. 日本的回収
第四十一章「日本的回収」は、『共産論』の考え方を日本政治へ応用した章である。日本政治には、国民の不満を周期的に噴出させながら、最後には安定的な統治構造へ回収する反復がある、という章である。
自民党的統治への不満がたまる。新しい政治が現れる。非自民、改革、生活者、目覚め、反緊縮、地域自治。熱量が上がる。イベントが起きる。支持者が働く。やがて疲弊し、分裂し、内輪化し、一般の有権者が不安になる。最後に、古いが慣れた統治構造へ戻る。
反体制のイベントが、体制の延命装置になる。搾取を批判する運動が、内部の剰余善意によって回る。哲人を欠いた政治は、同じ脚本を繰り返す。
この章では、政治の表面より、運動の疲弊が重視される。マルクナイクス的に見れば、どの政党が正しいかより、誰が無償で疲弊しているかが診断点になる。
42. マルキシズム主義
第四十二章「マルキシズム主義」は、マルキシズムの権威化を扱う章である。マルキシズムとは、マルクスの思想をもとに、資本主義批判、階級闘争、社会主義への移行を論じる思想である。マルキシズム主義者とは、マルクスを読む者そのものではなく、マルキシズムという語の権威によって自分の判断を補強しようとする者である。
彼らは「資本論を読め」と言う。その言葉が読書のすすめではなく、知的優位の表示として機能するとき、マルクナイクスの批判対象になる。
マルクナイクスは、マルクスを資本主義の病理を鋭く見た思想家として評価する。問題は、マルクスの名が自己正当化に使われる態度である。この態度では、搾取を語りながら身近な無償労働を見落とし、人民を語りながら隣の人間の疲弊を見落とし、資本主義批判を語りながら共同体内部の支配を見落とす危険がある。
マルクナイクスにとって、マルキシズム主義者の問題は、ソビエト法制を知らないことではない。知っていながら、その法が誰の配分権を固定したのかを自分たちの批判対象にできないことである。資本主義法を疑う眼を、社会主義法、党、官僚、検察、計画機関にも向ける必要がある。
その態度は、知識を良心ではなく自己正当化へ向かわせる点で、律法主義に似た構造を持つ。知識が良心へ向かわず、自己優越感へ向かうとき、その態度はマルクナイクスの三分類では非クリスチャン的な存在状態に近づく。
43. 壁
第四十三章「壁」は、ベルリンの壁崩壊を扱う。ベルリンの壁は、冷戦期の東西分断を象徴した壁である。一九八九年に壁が開かれ、一九九一年にはソ連が崩壊する。壁が崩れたとき、人々は資本主義の勝利を語った。マルクナイクスは、そこで制度の崩壊と語彙の崩壊を見た。壁の向こうで露出したのは、神なき共同性の構造的失敗である。
国家は人民の名で人を閉じ込めた。党は労働者の名で労働者を監視した。平等の名で特権を作った。未来の名で現在を犠牲にした。解放の名で逃げ場を奪った。壁は、外敵から守るためのものではなく、人民が逃げることを防ぐためのものになった。
壁が崩れるという出来事は、制度の崩壊であると同時に、語彙の崩壊だった。人民、歴史、革命、科学的社会主義。それらの言葉が、実際には何を隠していたのかが露出した。壁の崩壊は、全体主義の外形だけでなく、決まり文句、官僚制、法、配分権によって維持された精神的エントロピーの崩壊でもあった。
マルクナイクスは、壁の崩壊の歓喜の奥に、さらに大きな問いを見た。資本主義へ戻れば、人間は自由になるのか。市場へ戻れば、搾取は終わるのか。壁の崩壊によって、人民、歴史、革命、科学的社会主義という語が隠していたものが露出し、政治制度そのものを問い直す入口が開かれた。
44. 懺悔
第四十四章「懺悔」は、著者自身が、かつてマルクス主義に惹かれたことを告白しているように読める章である。懺悔とは、単に過去の誤りを謝ることではない。自分が正しいと信じたものの中にあった暴力や見落としを見つめることである。
資本主義の不正義に怒り、労働者の痛みに反応し、共同性の理想に魅せられた自分がいた。その自分を彼は消さない。懺悔とは、共産主義を信じたことへの単純な謝罪ではない。搾取を資本家の私有に集中させすぎたこと、国家と党による配分権の危険を軽く見たこと、代表者が本人たちの声を奪う危険を軽く見たこと、善意が搾取を生む危険を軽く見たことへの反省である。
マルクナイクスは、資本主義者にならない。反共主義者にもならない。民主主義の信者にもならない。自分が見たすべての制度を、同じ光で照らそうとする。
内省とは、自分の敵を裁く力ではない。自分が信じたものの中にある暴力を見つめる力である。『共産論』は、その意味で懺悔の書である。
45. 普遍定義
第四十五章「普遍定義」は、真のクリスチャン概念を確定する章である。マルクナイクスは、仏教、プラトン哲学、キリスト教、神話伝統を比較しながら、外形分類を削っていく。
真の仏教徒とは、自我への執着を見て、それを制限する者である。真のプラトン哲学者とは、善の前で自分を制限する者である。真のクリスチャンとは、神の前で自分を制限する者である。この三者は、別々の伝統に属しながら、同じ象徴構造を持つ。
キリスト教において、善は単なる思想ではなく、実行を求める命令として現れる。イエスは山上の説教で、敵を愛し、迫害する者のために祈ることを命じる(マタイによる福音書 5章44節)。十字架上では、自分を処刑する者たちについて赦しを願う言葉が語られる(ルカによる福音書 23章34節)。パウロは、愛が知識や信仰の誇りを超えるものとして語られると述べる(コリントの信徒への手紙一 13章1節から13節)。マルクナイクスが「真のクリスチャン」という語に見たのは、このように、善を知るだけでなく、敵意、恐怖、支配欲の中でも実行できる存在水準である。
マルクナイクスは、最終的に名称を一つへ絞る。真のクリスチャンである。理由は、彼にとってこの語が、愛、罪、悔い改め、赦し、上位存在、命令の実行可能性、良心、責任を一つに含むからである。この語は特定の宗教語でありながら、マルクナイクスの本文では普遍概念として用いられる。
普遍定義は、無色透明な言葉では弱い。マルクナイクスはそう考えたように見える。あえて特定の宗教語を用いることで、抽象概念の逃げを防ぐ。真のクリスチャンという語は、読者に違和感を与える。その違和感によって、読者は自分の前提を問われる。
46. 共産論
第四十六章「共産論」は、全体の総括である。共産論とは、共産主義の内側にあった善意を守るために、共産主義の失敗を解剖する本である。
搾取は、私有だけから生まれるのではない。搾取は、配分権から生まれる。代表権から生まれる。情報独占から生まれる。善意の強制から生まれる。逃げ場のなさから生まれる。大義から生まれる。共同体から生まれる。宗教からも生まれる。資本からも生まれる。民主からも生まれる。哲人政治からも生まれうる。
共産論は、私有、公有、国家、市場、党、共同体、代表者、哲人、宗教家、知識人、自分自身の善意を検査する。その疑いは冷笑ではない。人間を守るための防波堤である。上位存在への畏れは、人間が人間を神にしないための最後の装置である。哲人とは、その装置を自分の権威に変える者ではなく、その前で自分を制限する者である。
この章の最後に、最も有名な一文が置かれる。
誰が、誰の労働で、誰の名において、何を得ているのか。
47. 終章
ストレイト・マルクナイクス『共産論』の核心には、権限、労働、疲弊、自制の所在を見つめる視線がある。『資本論』が資本主義社会の秘密を商品から開いたように、『共産論』は共同体の秘密を善意から開こうとした。
善意、共有、代表、法、情報、宗教、知識、民主的手続きは、人間の存在水準によって支配へ転じうる。そこから、統治の位置に立つ者を制限し、共同体内部の疲弊を見えるようにし、異議申し立てと逃げ場を確保する政治構想が導かれる。その構想が、ネオ・アリストクラティア(新哲人政治)である。
本稿の到達点は、その反復を見つめる読者自身の位置にも及ぶ。資本主義の搾取、共産主義の搾取、民主主義の搾取、共同体の搾取、善意の搾取は、形を変えながら戻ってくる。その反復に気づき、自分自身の善意、知識、所属、怒りを検査し始めることが、マルクナイクスのいう真のクリスチャンへの、最初の候補生の歩みなのかもしれない。
48. マルクス、レーニン、グルジェフ
マルクスの『資本論』は、題名だけを見れば資本の分析書である。しかし、その核心にあるのは、資本主義社会において人間の労働がどのように商品化され、どのように剰余価値として吸い上げられ、どのように契約と市場の形式の中で搾取が見えにくくなるのかを明らかにする批判である。したがって『資本論』は、実質的には資本主義批判論であった。
それに対して、マルクナイクスの『共産論』は、まず共産主義批判論として始まる。そこから論点は、資本主義、民主主義、宗教共同体、哲人政治へ広がっていく。共産主義の善意が、代表、配分、情報、法、官僚制を通じて別種の搾取へ変わる過程を見たあとで、マルクナイクスは同じ視線を他の制度にも向ける。『共産論』は、共産主義批判論であり、資本主義批判論であり、最後には哲人政治論である。
この構図を理解するためには、マルクス思想がロシアへ渡った歴史が重要になる。ドイツ語で書かれたマルクスの思想は、ゲオルギー・プレハーノフによってロシア語圏へ本格的に紹介された。プレハーノフは、ロシアにおけるマルクス主義受容の重要人物であり、マルクスの経済分析と歴史観をロシアの知識人世界へ運んだ。
その後、ウラジーミル・レーニンが、マルクス主義をロシアの革命状況に合わせて政治理論化した。レーニンにおいて、マルクスの資本主義批判は、帝国主義論、前衛党、革命国家、プロレタリア独裁の理論へ接続される。そこから、マルクス・レーニン主義という二十世紀の巨大な国家思想が成立していく。
マルクナイクスが特異なのは、この流れを批判する尺度として、同じくロシア出身のゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフを呼び出した点にある。マルクスが資本主義社会の構造を見た思想家であり、レーニンがその思想を革命と国家の理論へ変えた人物であるなら、グルジェフは、制度を担う人間そのものの機械性、自己欺瞞、存在水準の低さを見た人物だった。
この配置こそ、『共産論』のもっとも特筆すべき特徴である。マルクナイクスは、マルクスが資本主義へ向けた批判の刃を、マルクス主義国家、党、官僚制、配分権、そしてそれらを運用する人間の存在水準へ向け直した。そこにグルジェフが導入されることで、『共産論』は制度批判と人間批判を同じ平面で扱う書物になる。
そのため、『共産論』の終点には、資本主義か共産主義かという制度選択を超えた問いが置かれる。誰が権限を持ち、誰が配分し、誰が疲弊し、誰が自分自身を制限できるのかという問いである。この問いを制度論として受け止めたとき、マルクナイクスはプラトンへ戻る。彼は古代の哲人政治をそのまま復元せず、哲人自身をも検査し、制限し、共同体の疲弊を見る政治として、ネオ・アリストクラティアを構想する。そこに、『共産論』が共産主義批判を超えていく理由がある。
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