お金に関する無敵伝説:二つの本性(1.6万文字)

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お金に関する無敵伝説:二つの本性
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【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。また、本稿では、ジェイコブ・ニードルマン『Money and the Meaning of Life』(邦訳『お金、この神秘なるもの』)および川村元気『億男』について、その核心的な内容に触れています。もし作品を未体験の方で、先入観なく享受されたい場合は、必ず先に作品そのものに触れてから、本稿をお読みください。
1.最強と無敵
筆者はクリスチャンである。そして、意外に「最強」とか「無敵」という言葉が好きである。強い言葉には、子どもじみた安心がある。誰にも負けない。何にも脅かされない。そう思えるだけで、人間の心は少し静かになる。
英語で言えば、無敵は invincible である。打ち負かされない、征服されない、という意味を持つ。一方で、invisible は見えない、不可視の、という意味を持つ。インヴィンシブルという言葉が少し面白いのは、インビジブルと紛らわしいところである。無敵とは、案外、見えにくいものなのかもしれない。
お金について考えるときも、この連想がついて回る。お金は目に見える。紙幣があり、硬貨があり、口座残高があり、価格がある。それなのに、お金を前にした人間の反応は見えにくい。欲望、恐怖、安心、自尊心、嫉妬、支配欲、清廉でありたい自己像。そうしたものが、金額のまわりで静かに動き始める。
お金に対する無敵とは、お金をたくさん持つことなのか。お金を軽蔑することなのか。お金を使いこなすことなのか。その問いの入口として、筆者にとって決定的だった本がある。ジェイコブ・ニードルマンの『お金、この神秘なるもの』である。
2.億男
『億男』は、現代日本の生活感覚から見たお金の物語である。川村元気の同名小説を原作に、大友啓史監督、佐藤健と高橋一生の共演で二〇一八年十月十九日に公開された。主人公の一男は、兄が残した三千万円の借金を背負い、妻子とも離れて暮らしている。そこへ宝くじ三億円の当選が転がり込む。一男は借金返済と家族の修復を夢見るが、起業して億万長者になった大学時代の親友・九十九に相談したあと、九十九は三億円とともに姿を消す。
三億円という金額は、手の届かない夢でありながら、まだ生活の言葉で想像できる。借金を返せる。住まいを整えられる。仕事との距離を変えられる。生活を立て直せる。家族関係を修復するための余裕も生まれるかもしれない。人ひとりの人生設計を変えるには、三億円は十分すぎる金額である。だから『億男』のお金は、まず救済の顔をして現れる。足りないものを満たし、壊れた生活を立て直し、閉じていた未来を開くものとして現れる。
物語は、その救済の顔をしたお金を、一男の手元からいったん奪う。九十九が三億円とともに姿を消すことで、一男は「三億円をどう使うか」という問題から、「お金とは何か」という問いへ押し出される。お金は、借金を返す手段であり、家族を取り戻す希望であり、同時に、人間の幸福観、友情、恐怖、自己像を揺らすものとして見え始める。
一男は九十九を追う過程で、お金によって人生を変えた人々、あるいはお金について独自の哲学を持つ人々に出会う。百瀬、千住、十和子といった人物たちは、一男にとって一種の「お金の師匠」として働く存在である。彼らは、厳密な教師というより、一男がお金の見方を変えていくために通過する人物たちである。お金の扱い方、お金への執着、お金からの逃避、お金と幸福の関係を、一男に別々の角度から見せていく。
百瀬は、お金を実体のあるものとしてより、人間の頭の中を出入りする幻のようなものとして扱う。お金は目の前にあるようで、実際には人間の認識、期待、恐怖、欲望の中で膨らんだり消えたりする。百瀬の存在は、お金の実体そのものよりも、人間がお金に投影するもののほうが人を動かしていることを示している。
千住は、お金を一種の宗教のように扱う人物である。人はお金を信じ、お金に救いを求め、お金によって自分の価値を測り、お金を持つ者の言葉に従う。千住の姿は、お金が交換手段を超えて、信仰の対象に近づいていく現代的な滑稽さと怖さを示している。
十和子にとって、お金は安心の形である。お金は自由を与えるものというより、不安から身を守る壁になる。使うためのものから、手元にあることで自分を保つものへ変わる。十和子の姿は、お金が快楽や権力と同じくらい、恐怖への防衛として蓄えられることを示している。
九十九は、これらの人物たちを一男へたどらせる存在である。彼は三億円を持って消えることで、一男を強制的に「お金とは何か」という問いの旅へ送り出す。三億円を得た一男は、三億円を失うことで、お金について語る人々の世界を巡っていく。
『億男』の強みは、三億円という具体的な金額を通して、一男に複数の金銭哲学を通過させる構造にある。百瀬はお金の実体のなさを、千住はお金の宗教性を、十和子はお金が不安を防ぐ壁になることを、九十九はお金に魅入られる危うさと感謝の問題を示す。三億円は、人生を立て直すかもしれない金であり、人間関係を揺さぶる金であり、お金について語る人々を呼び寄せる金でもある。
『億男』は、三億円という金額を、生活の内部でお金を問い直すための装置として置いている。借金、家族、友情、自由、幸福、お金の師匠たちが語る金銭哲学。そのすべてが、現代日本の生活感覚に根ざしている。三億円は大きい。圧倒的に大きい。だが、その大きさはまだ「自分の人生をどう立て直すか」という範囲に収まっている。
じつは『億男』の語っていないことがある。
3.本書の入口
ジェイコブ・ニードルマンは、アメリカの哲学者であった。彼は一九九一年に『Money and the Meaning of Life』を刊行した。日本では、一九九二年十二月に忠平美幸訳『お金、この神秘なるもの』として角川書店から出ている。
この本は、お金を前にした人間の反応、眠り、自己欺瞞、意識を扱う本である。お金を増やす技術や、捨てる美徳の話よりも、人間がその前で何を見失い、何に触れるのかへ視線を向けている。お金は、生活の道具であると同時に、人間の内側を映す鏡でもある。恐怖、嫉妬、名誉欲、自己防衛、善意、支配欲。普段は隠れているものが、お金を前にした瞬間、急に輪郭を持ち始める。
家賃を払う。食べ物を買う。治療を受ける。移動する。学ぶ。働く。誰かを助ける。そのどれにもお金は関わっている。ニードルマンの本を読むと、その便利な道具が、人間の奥へ入り込んでくる力として見え始める。
本書では、お金を汚いものとして遠ざける態度よりも、お金を前にした人間の反応そのものが問われる。お金は、人間を低いところへ引きずる力であると同時に、人間同士を結びつけ、より高いものに仕えるための媒介にもなり得る。問題は、お金を持つことそのものよりも、人がそれにどう反応し、それによって何に連れ去られ、自分自身の中心からどれほど離れてしまうかである。
ニードルマン自身も、その危うさの外に立っているわけではない。サンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区で、ヒンドゥー教、ユダヤ教、チベット仏教などの民芸品を扱う店に入り、小切手を使おうとして断られる。すると彼は激怒し、「私は大学教授のジェイコブ・ニードルマンだぞ」と怒鳴り、店から追い出される。
この場面は滑稽で、同時に痛い。お金についての本質を考えている哲学者が、小切手を拒まれた瞬間、信用と肩書きと自尊心にしがみつく。精神文化の品物に囲まれた店で、少しも精神的ではない反応をしてしまう。大学教授である自分、信用されるべき自分、疑われるはずのない自分が拒まれたとき、彼の中の何かが一気に動き出す。
この自己暴露があるから、ニードルマンの本は信用できる。彼は賢者として高みから語らない。お金をめぐる眠りに、自分自身も落ちることを知っている。その人が、現在の感覚で約七千五百万円相当の黄金を前に逡巡する。そこに、本書の心臓がある。
4.ソロモンの疑問
本書の中で、アリサという人物が重要な問いを投げかける。彼女は子どものころから、ソロモン王について疑問を抱いていた。
ソロモンは、聖書において神から知恵を授けられた王として描かれる。列王記上四章二十九節には、神がソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、海辺の砂原のように広い心を授けられたという趣旨のことが記されている。続く列王記上四章三十節では、ソロモンの知恵が東の人々の知恵とエジプトのすべての知恵にまさったと語られる。
それほどの知恵を持った人間が、なぜ主の命じたことを守れなかったのか。アリサの疑問はそこにある。列王記上十一章三節では、ソロモンには七百人の王妃と三百人の側室がいたとされる。数字そのものを現代的な実録としてどう読むかには慎重さが必要だが、物語上の意味ははっきりしている。知恵ある王が、所有、欲望、政治的結びつきの網の中で、心を引き裂かれていくのである。
聖書の流れでは、ソロモンは多くの妻を通して異国の神々へ心を傾け、主の道から外れていく。やがてそれはイスラエル王国が引き裂かれる原因として語られる。神から知恵を授けられた王が、知恵によって最後まで守られるわけではない。この矛盾が、アリサの疑問の中心にある。
知恵を持つことと、その知恵の中に存在することは違う。知っていることと、知っているように生きることは違う。ソロモンは知恵を授けられた。だが、その知恵は、彼を欲望や所有や権力の網から自動的に救い出さなかった。
この問いは、ニードルマン自身にも向かう。ニードルマンはお金の本質を知識としてつかんでいる。だが、小切手を拒まれた瞬間に怒鳴る。ソロモンは神から知恵を授けられた。だが、その知恵は彼を最後まで守らない。知っている者、考える者、精神的であろうとする者も、自分の欲望や身分や恐怖に連れ去られることがある。お金の問題は、その弱さを露出させる。
5.アシュマダイ
アシュマダイは、ユダヤ教のタルムードや後代伝承に現れるデーモンの王として語られる存在である。聖書本文そのものに、アシュマダイがソロモンを乗っ取る物語が書かれているわけではない。聖書の列王記上に描かれるのは、神から知恵を授けられたソロモンが、多くの妻や異国の神々への傾きによって主の道から外れ、王国分裂の原因を作っていく流れである。
一方、アシュマダイがソロモンを王座から転落させる物語は、タルムードや後代のユダヤ伝承の領域に属する。ここでは、その伝承を歴史的事実としてではなく、知恵ある王が危険な力に使われる象徴として扱う。
伝承の中で、ソロモンは神殿建設のためにデーモンの王アシュマダイの力を使おうとする。神から知恵を授けられた王が、聖なる建築のために危険な力を使う。目的は高い。神殿を建てるためである。ところが、その高い目的は、ソロモンを守ってくれない。アシュマダイはソロモンの力のしるしに関わるものを奪い、王を王座から引き離す。
後代の伝承では、ソロモンが三年さまよい、魚の腹から指輪を取り戻して復活する流れも語られる。史料の層を区別しながら読む必要があるが、象徴としての力は強い。王権のしるしが、宮殿ではなく魚の腹から戻ってくるという構図は、権力と自己の回復を同時に語っている。
神の名を刻んだ指輪は、知恵ある王が自分を保つための中心であり、権力と意識の境界に置かれた小さな重りである。その重りを失った瞬間、王は王座にいても自分ではなくなる。指輪を取り戻す物語は、失われた権力の回復であると同時に、失われた自己の回復でもある。
ニードルマンは、このアシュマダイ経験が『コヘレトの言葉』の背後にあるのではないかと推測している。そう読むなら、コヘレトの空しさは、老いた王の悲観という範囲を超えていく。知恵も富も権力も持った者が、それでも自分自身を失いうると知ったあとに発する、目覚めに近い言葉になる。
お金もまた、このアシュマダイに似ている。人はお金を道具として使うつもりでいる。生活のため、家族のため、芸術のため、信仰のため、共同体のため、正義のために使うつもりでいる。しかし、お金は、ただ使われるだけの力ではない。使う者の内側に入り込み、欲望、自尊心、恐怖、善意、支配欲、自己正当化を動かし始める。気づいたときには、自分がお金を使っているのではなく、お金に使われている。
この言葉を踏まえると、ヘイト・アシュベリー地区の店で小切手を断られたニードルマンの姿も、別の光で見えてくる。彼はお金をめぐる本質を考える人でありながら、小さな屈辱の中で肩書きと信用に連れ去られた。筆者には、その瞬間の彼もまた、アシュマダイに乗っ取られているように見える。
6.二つの世界
ニードルマンが見ているのは、外の世界と内なる世界の緊張である。外の世界には、お金、取引、成功、肩書き、信用、所有、社会的評価がある。それは現実的で活発な世界に見える。電話が鳴る。予定が入る。契約が進む。口座が動く。人が集まる。会社が回る。そこには社会の手触りがある。
人間がそこに運ばれ、自分の中心を失うとき、その世界は黄泉、あるいは死の世界として象徴される。ここでいう死は、肉体の終わりだけでなく、自分の存在の中心から離れ、反応、衝動、恐怖、欲望に運ばれていく状態にも及んでいる。
もう一つは、内なる世界である。夢、幻想、感情、信仰、思考、精神性、自己像の世界である。そこは一見、外の取引や所有の世界から離れた清らかな場所に見える。だが、夢は幻になり得る。信仰は自己像になり得る。感情は自分を正当化する物語になり得る。思想もまた、人間を眠らせることがある。
外の世界にも、内なる世界にも、人間を眠らせる力がある。外の世界に飲まれることも死であり、内なる幻想に閉じこもることも別の死になり得る。意識に近づけるのは、その二つのどちらかへ逃げるときではなく、両方に引かれている自分を見るときである。外の世界に飲まれず、内なる幻想にも逃げ込まず、自分の反応を見つめるとき、人は少しだけ目覚める。
申命記三十章十五節から二十節には、命と幸い、死と災い、祝福と呪いが人間の前に置かれ、「命を選べ」と呼びかけられる場面がある。ここでの死は、ただ肉体の終わりを意味しない。人が何に向かって生き、何に連れ去られているかという問題である。命を選ぶとは、外側の成功や内側の幻想に運ばれるままになるのではなく、自分がどちらへ向かっているのかを見て、存在の中心へ戻ることでもある。
ホメロス『オデュッセイア』第十一歌にも、この問題に響く場面がある。冥府を訪れたオデュッセウスは、死者となったアキレウスに会う。英雄として名声を得たアキレウスは、死者たちの国で栄光ある存在になっている。しかし彼は、死者の王であるより、地上で貧しく土地も持たない者に雇われて生きる方を選ぶ、という趣旨を語る。ここでは、地上の貧しささえ、死者の栄光より上に置かれている。
この二つの場面を並べると、お金の話は経済の範囲を超えていく。意識を奪われる状態は、どれほど華やかでも死の側にある。貧しくても、地上にいて、生きていて、自分の反応を見ることができるなら、そこには命の側がある。大事なのは、外の世界か内なる世界かを選んで眠ることではない。自分が何に動かされているのかを見ることである。
7.戦場と瞑想
この構図は、『バガヴァッド・ギーター』にも響いている。『マハーバーラタ』の戦場で、勇者アルジュナは二つの軍勢の中央に立つ。彼は戦いたくない。敵の側には、師も親族も友もいる。外の世界の義務に従えば血を流すことになる。内なる感情に従えば、戦場から退くことになる。アルジュナは外の世界と内なる世界の緊張の中で立ち止まっている。
そこでクリシュナは、ただ勝てと言うのではない。戦えと言いながら、同時に、衝動から魂を解き放てと教える。日常の行為と内省を区別し、つかの間のものと永遠のものを区別せよ、と迫る。目覚めは、行為から逃げることにも、感情のままに退くことにも宿らない。戦場のただ中で、何に動かされているのかを見ることが求められる。
戦場とは、外の世界の極限である。敵がいる。義務がある。血が流れる。名誉がかかる。親族がいる。逃げたい感情もある。そのただ中で、クリシュナはアルジュナに、外の世界の中で、外の世界に飲まれないあり方を示す。
白隠禅師についても、似た方向の言葉が伝えられている。静かな瞑想だけで悟りに達するのではなく、目まぐるしい日常生活の中で、世俗の雑事に煩わされ、七転八倒の苦しみのただ中に置かれ、敵の大群に囲まれたような状況で、勇者のように行動するとき、真の瞑想に近づくという趣旨である。ここで重要なのは、静かな内面だけを修行の場と見るのではなく、衝突、雑事、屈辱、恐怖、誘惑のただ中でも意識が試される、という方向である。
この言葉は、戦いや雑事や苦しみを、意識が試される場所として見ている。悟りは、静かな内面を聖域にして逃げ込む場所ではなく、雑事、衝突、屈辱、誘惑、恐怖のただ中で、自分が何に反応しているのかを見る場所にも現れる。そのとき、日常そのものが修行の場になる。
だから、金の延べ棒の場面は重要になる。静かな書斎でお金について考えることはできる。講義でお金の本質を語ることもできる。だが、目の前に黄金が置かれ、それを受け取るか拒むかを迫られるとき、思想は一気に身体へ落ちてくる。欲望、恐怖、体面、道徳心、自己像が同時に動く。その七転八倒のただ中で、ニードルマンは逡巡する。その逡巡には、身体に落ちた瞑想に近いものがある。
8.ウェーバー
近代のお金の世界を考えるところで、ニードルマンはマックス・ウェーバーにも触れる。ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、現在の資本主義を形づくった力のひとつとして、プロテスタンティズム、とくに禁欲的な職業倫理を見た。人は神に召された職業に励み、浪費を避け、利益を再投資する。そうした宗教的な規律が、やがて近代資本主義の精神を支える一部になった、という見方である。
ウェーバーの議論は、資本主義の成立原因を一つに押し込めるものとして読むより、近代資本主義を内側から駆動した精神の一部を照らすものとして読むほうがよい。信仰、職業倫理、節制、使命感、自己管理。そうした一見すると高い徳目が、歴史の中で資本の増殖を支える精神へ転じていく。善いものに見える力が、別の仕組みの中に入り、別の方向へ働き始める。
この構造は、ソロモンとアシュマダイの比喩に通じている。神殿建設という高い目的のために危険な力を使おうとしたソロモンが、その力に使われる。宗教的な職業倫理もまた、もともとは神への応答や生活の規律に関わっていた。しかし、歴史の中でそれは資本の増殖を支える精神へと転じていく。高いものが低いものに落ちるというより、高いものが別の仕組みに取り込まれ、別の方向へ働き始めるのである。
9.トランプ
ニードルマンの本には、ドナルド・J・トランプとトニー・シュウォルツの共著『取引の芸術』からの抜粋がある。ここでのトランプは、現在の政治的文脈よりも、当時の成功したビジネスマン、不動産王として扱われている。
トランプは、朝早く目を覚まし、新聞に目を通し、九時までに出社し、五十通話以下の日はめったになく、百通話を超えることもしばしばだと語る。十数人の客と会い、昼食もゆっくり取れず、会社を出たあとも夜中まで電話をかけ、週末も電話にかかりきりになる。彼はこのやり方を決してやめない。それ以外の方法をとろうとも思わないと言う。
さらに彼は、自分がそうしているのはお金のためではないと語る。お金は必要以上に持っている。したいからするだけだ。取引は自分の芸術であり、大きな取引だけが自分をぞくぞくさせるのだ、と。
また、ドナルド・J・トランプとチャールズ・リーセンの共著『トランプ、トップでの生き残り作戦』からも引用される。人は万事順調に進んでいるときに満足感を覚えるが、自分は逆にいらだち、焦り始める。そこで次から次へと取引を探す。仕事でいい結果が得られ、電話やファックスのやり取りが続き、張り詰めた空気に囲まれているとき、普通の人が休暇で感じるような満足感を覚えるという。
ニードルマンは、トランプを成功した不動産王として観察するだけでなく、自分の中にもいる取引の衝動として読む。多忙、電話、予定、交渉、成果、緊張。その外的な営みによって、人間は大切な意識の時間を奪われる。
同じ構造は、外的な仕事に追われていない内省的な人間にも現れる。夢、幻想、衝動、感情、思考に意識を奪われることがある。取引に駆動される者も、思想に駆動される者も、夢想に駆動される者も、自分が自由に動いていると思いながら、実際には何かに動かされている。
トランプが「お金のためではない」と言うとき、その言葉は奇妙に重い。お金は必要以上に持っている。それでも動く。それでも取引を探す。それでも緊張に満足する。そこに見えるのは、貧しさから来る欲望ではなく、運動そのものに駆動される人間である。外の世界が、本人の内部に入り込み、本人のリズムになっている。
10.ビル
ここで、ビルという青年が現れる。本ではウィリアム・コーデル三世として語られる。その名には、個人の輪郭よりも先に、家名、相続、父祖、階級、信用、古いアメリカの空気が立ち上がる。彼は、金銭と権威の気配をまといながら、同時に、講義の場をかき乱すトリックスターのようにも現れる。
最初のビルは、神秘的な導き手というより、講座の欠陥を突く厄介な受講者である。パンフレットには「お金で買えるもの、買えないもの」といった趣旨の言葉が掲げられていたのに、講義ではそれが十分に説明されていない。彼はその一点を突き、受講料の返還を求める。
ニードルマンはその抗議を正面から受け止め、ビルの言い分を認めるようにして、昼食に誘う。こうして、ニードルマン、アリサ、ビルの三人は食卓を囲むことになる。
食卓に着くと、ビルの態度は変わる。講義の場を揺さぶった攻撃的な調子は静まり、彼は自分のことを話し始める。彼は裕福な家に育ったが、両親は彼に、自分で稼ぐ力を身につけるよう教育していた。ところが五年前、両親が事故で突然亡くなり、彼は現在の感覚で約九十七億円、原資料では六千五百万ドルの遺産を相続する。本稿では、概算として一ドル一五〇円で換算している。その日から、彼のまわりの世界は一変する。
約九十七億円は、本人が何を買うかという話に収まる金額ではない。人が集まり、専門家がつき、昔の友人が現れ、親切の意味が変わり、寄付、管理、相続、税務、名誉、信用が勝手に発生する金である。本人の生活が変わるだけでなく、本人を中心にした小さな社会ができてしまう金である。
最初に現れたのは、大学の事務長だった。親切に助力を申し入れてくれた。ビルは感謝した。だが、やがて同じような申し出が次々と届く。何年も疎遠だった知人、名前も知らない人、遠くから手紙を送ってくる人々。みな親切で、みな誠実に見える。だが、その親切の奥に遺産の影が見えてくる。彼はそれに気づく。それでも、彼らはみな誠実なのだと自分に言い聞かせなければならない。そうしなければ、人を信じる場所がなくなってしまうからである。
友人たちもまた、一人ずつやってくる。彼らは、まるで昔からビルの面倒を見てきたかのように振る舞う。あるいは、ビルには彼らへ財産を分ける道義的責任があるかのように近づいてくる。ビルは、喜んで分けるつもりだった。必要なら助けるつもりだった。だが、彼らはそれを素直にさせてくれない。助けを求める言葉が、請求の形を帯びる。友情が、権利の言葉に変わる。彼は最初、彼らに金を渡した。しかし、そこに救いはなかった。
財産管理人も信用できない。専門家はいる。助言者もいる。だが、彼らが本当に自分を見ているのか、財産を見ているのかが分からない。
ビルは、ほしいものをすべて買った。やがて、ほしくないものまで買った。牧場を買い、ボートを買い、市民運動や慈善事業に寄付をした。小さな出版社を買い、豪邸も手に入れた。それでも、お金は減らない。使えば使うほど増えていく。
この時点のビルは、富を所有しているというより、富が作る世界の中に閉じ込められている。親切が近づき、友情が請求を帯び、贈与が贈与でなくなる。欲しいものを買い尽くしたあとも、買えるという事実だけが彼を動かし続ける。
お金は制約ではなく、環境になっていた。
11.本当のお金
次にビルが姿を見せたとき、彼は別の熱を帯びていた。ニードルマンの講義に刺激され、金本位制から離れた現代の貨幣制度を調べてきたのである。銀行の記録、信用、入力によってお金が生み出される仕組みを、彼は新しい世界の秘密に触れたかのように語る。
アリサの反応は、ビルの興奮とは対照的だった。巨額の遺産を相続した青年が、現代の貨幣制度の基本に、そこで初めて触れたかのように驚いている。その無邪気さに、彼女はむしろ戸惑う。
約九十七億円を相続した青年が、現代のお金が金の裏づけから離れ、信用と制度と記録の中で作られていることに、いま強い衝撃を受けている。そこに、ビルの無邪気さと危うさが同時に出る。彼は、お金が数字と制度で作られていることに揺さぶられ、その反動のように、もっと古くて重いものへ戻っていく。
ビルはおもむろに、現在の感覚で約七千五百万円、原資料では五十万ドル相当の金の延べ棒と大量の金貨を見せる。そして、これが本当のお金です、と披露する。
現代のお金は銀行の記録、信用、入力で作られる。だが、ビルはそこで、黄金の現物を出す。紙でも数字でもなく、手で持てる、重く、輝く、危険な物質としてのお金が出てくる。ニードルマンもアリサも動揺する。知識としてはお金を語れる。貨幣制度についても語れる。だが、現物の黄金を目にすると、身体が反応する。心変わりしかける。何かが揺れる。
約七千五百万円の黄金は、ビルの約九十七億円の全財産から見れば一部にすぎない。富豪の世界全体への招待ではない。人生を丸ごと飲み込むほどでもない。豪邸や王国を作る金ではない。だが、ニードルマン一人の生活、自尊心、思想を揺らすには十分すぎる額である。受け取った瞬間に、思想家としての自己像、生活の安心、道徳的な立ち位置を揺らすには十分な金である。
三人は、食事と酒をともにしながら議論を続ける。ニードルマンは、二つの世界の両方を見ているところに意識があるという視点から話す。アリサもまた、自分の経験を語る。彼女には美術売買に従事していた経歴がある。アートは一見、お金から離れた高い領域に見える。だが、現実の美術市場には、価格、名声、投機、所有欲、流行、権威、見栄がまとわりつく。芸術のまわりに生まれるお金のから騒ぎに、彼女は疲弊していた。
ビルとニードルマンの議論は平行線のまま進む。ビルは酔って眠ってしまう。場は終わったように見える。
だが、終わっていない。
12.黄金の贈り物
ビルは突然目を覚まし、帰ると言う。場が終わるかに見えたあと、彼はふたたび引き返してくる。そして、約七千五百万円相当の黄金が入ったマホガニーの箱をニードルマンに手渡し、「贈り物です」と告げる。
議論はそこで終わる。お金についての思想は、黄金の重みに変わる。金の延べ棒は、ビルの余った財産であると同時に、彼が抜け出せない世界の凝縮でもある。親切と請求が区別できなくなった世界。友情と権利が混じった世界。善意の寄付も、消費も、管理も、すべてお金の内部に戻っていく世界。その塊を、彼はニードルマンの前に置く。
ニードルマンの中に、二つの本性が立ち上がる。一方には、もらってしまえ、という本性がある。もう一方には、これをもらったら、自分のこれまでの見解はすべて終わるぞ、という本性がある。
前者だけが悪魔で、後者が天使という話ではない。もらってしまえという欲望は分かりやすい。しかし、もらわずに自分の思想家としての純潔を守ろうとする声もまた、自己像への執着かもしれない。金に買われない哲学者でいたい。自分の本の正しさを守りたい。自分はお金に勝っている人間だと思いたい。その声もまた、別の誘惑である。
受け取りたい欲望も危うい。受け取らないことで清らかな思想家でいたい自己像も危うい。天使の顔をした悪魔と、悪魔の顔をした天使が争っている。しかも、その両方がアシュマダイになり得る。
ニードルマンの足は震え、息は荒くなる。黄金は外の世界から来る。だが、それを拒もうとする内なる世界もまた、清らかな避難所ではない。欲望と自己像、贈与と警戒、善意と恐怖、その二つの本性が同時に立ち上がる場所に、彼はいる。
絞り出すように、彼は「受け取れないよ、ビル」と言う。
場面の中心には、その答えに至るまでの逡巡がある。受け取りたい本性と、受け取らないことで清らかでいたい本性が同時に立ち上がり、その両方を見ている時間が、ニードルマンの身体に現れている。その瞬間、ニードルマンには「私は在る」があった。I am があった。欲望に乗っ取られてもいない。清らかな哲学者であろうとする自己像にも乗っ取られていない。その二つの力に引き裂かれながら、自分の反応を見ている稀な時間があった。
無敵は、黄金を前にした勝利宣言としてではなく、二つの本性を同時に見ている静かな時間として現れる。受け取りたい本性と、受け取らないことで清らかでいたい本性。その両方が同時に立ち上がる場所で、どちらにも眠らず、かろうじて「私は在る」に触れることである。
13.使いきれない富
通常のお金は、生活の制約と結びついている。使えば減る。減るから選ぶ。選ぶから優先順位が生まれる。優先順位が生まれるから、自分が何を大事にしているのかが少しずつ見えてくる。
生活のなかでお金は、欲望を測る物差しでもある。何を買い、何をあきらめるか。何のために働き、何のために我慢するか。どの人を助け、どこまでなら背負えるか。そうした判断の積み重ねが、人間にある種の方向感覚を与える。
ビルの財産は、この構造を壊していた。使いきれない。使っても減らない。場合によっては、使えば使うほど、投資や資産運用を通じて増えてしまう。そこでは、お金は限られた資源という性質を失い、環境そのものになっていく。
環境になったお金は、空気のように人を包む。本人は自由になったように見える。失敗しても修復できる。嫌な人間関係から逃げられる。退屈を刺激で埋められる。不安を旅行や買い物や人付き合いで紛らわせることができる。罪悪感さえ、寄付や慈善という形で処理できる。
それらの処理は、生活の表面を整える。しかし、根本には届きにくい。空虚さは消えず、別の形で残る。金で処理できる問題が増えるほど、金で処理できない問題の輪郭がぼやける。やがて本人は、自分が本当に苦しんでいるのか、退屈しているのか、怯えているのか、飽きているのか、分からなくなる。
お金が少ないとき、人は欲望をあきらめる苦しみを知る。お金が多すぎるとき、人は欲望そのものの輪郭を失うことがある。欲しいものを買えるから、自分が本当に欲しかったものが見えなくなる。選択肢が増えるから、選択の重みが薄くなる。
ビルは、ほしいものを買ったあとに、ほしくないものまで買った。ここには笑い話に収まらない怖さがある。欲望が満たされたあと、人間がなお動き続けるとき、何がその人間を動かしているのか。お金のためではない。必要以上に持っている。それでも動く。動かされる。そのとき人は、生きているようでいて、何かに運ばれている。
14.親切と友情
富は、本人の内面だけでなく、人間関係の意味まで変えていく。相続した瞬間に、言葉の響きが変わる。親切の意味が変わる。友情の重さが変わる。
ビルのもとには、親切な人々が集まってくる。大学の事務長。疎遠だった知人。見知らぬ人。昔の友人。彼らは必ずしも嘘をついていない。本当に親切なのかもしれない。本当に心配しているのかもしれない。助けたい気持ちもあるのかもしれない。そこがさらに厄介である。
すべてが打算として見えていれば、判断はむしろ簡単になる。だが、人間はそんなに単純ではない。善意と期待が混じる。親切と接近が混じる。友情と請求が混じる。過去の思い出と現在の財産が混じる。
君を助けたい、昔から君のことを思っていた、自分たちは友人だ、お金のことではない。そうした言葉の一つひとつが、本気で語られている可能性がある。だからこそ、ビルは苦しむ。その言葉を信じたいのに、言葉の背後に財産の影が差し込んでくる。お金は、人間関係を露骨に買収するだけではない。もっと深く、人間関係の解釈そのものを汚染する。
第10章で見たように、ビルは喜んで分けるつもりだった。必要なら助けるつもりだった。だが、相手はそれを素直にさせてくれなかった。助けたいという気持ちが、請求されることで変質する。贈与が、道義的債務に変わる。友情が、財産分与の根拠になる。
富は、人が他人を信じる能力を傷つける。それは疑心暗鬼というより、人間の弱さを知ってしまった者の防衛である。自分も他人も、金の前でどう変わるか分からない。その不確かさが、友情のあいだに透明な壁を作る。
ビルの孤独は、一人でいる孤独ではない。人が集まれば集まるほど、なぜ集まっているのかが分からなくなる孤独である。
15.無敵の入口
お金に関する無敵は、自分もお金に買われうると知るところから始まる。欲望、拒絶の自己像、外の世界、内なる幻想。そのどれか一つへ逃げ込むのではなく、それらが自分の中でどう動いているのかを見る。そこに、お金に対する静かな強さがある。
『億男』は、お金が生活と人間関係を揺さぶる入口を示した。ソロモンは、知恵を持つことと知恵の中に存在することの違いを示した。アシュマダイは、高い目的を持つ者でさえ危険な力に使われうることを示した。トランプは、外の世界の運動に駆動される人間の姿を示した。ビルは、お金が環境になったとき、人を信じる形式そのものが壊れることを示した。ニードルマンは、約七千五百万円の黄金を前に、二つの本性が同時に立ち上がる瞬間を示した。
お金は必要である。生活を支え、人を結びつけ、支援、贈与、事業、出版、介護、研究といった営みに現実の形を与える。同時に、お金は人間を支配する力にも変わりうる。支援は依存に変わり、寄付は名誉に変わり、給与は服従に変わり、贈与は負債に変わる。お金の力を信じすぎれば飲み込まれ、お金の力を軽く見れば無防備になる。
無敵の入口は、その両方を見ている場所にある。お金を欲しがる自分も、お金を憎む自分も、お金を裁くことで安心したがる自分も、同じ場所に立たせて見る。その視線が生まれたとき、人は少しだけお金の外側へ出る。ただし、それはお金の世界を離れて内面に逃げることではない。外の世界にも、内なる世界にも乗っ取られず、自分の反応を見ていることである。
無敵は、自分が買われうる弱さを知っている者の静かな姿として現れるのだと思う。
16.残る問い
お金への興味が薄れたあと、筆者の関心は、何を中心に置いて生きるのかという問いへ移っていく。お金の必要性を見落とせば、現実から離れてしまう。だが、黄金の前で震えるニードルマンを見てしまうと、お金を人生の中心に据える物語は、急に薄く見えてくる。
ここで、『億男』とニードルマンの違いがあらためて見えてくる。『億男』の三億円は、生活を揺らす金である。借金、家族、仕事、住まい、時間の使い方を変えうる。現代日本の生活感覚の中で、お金が救済にも試練にもなることを描いている。ビルの約九十七億円は、本人を中心に人間関係、専門家、管理、相続、税務、名誉、信用を発生させ、世界の構造そのものを組み替える。ニードルマンに差し出された約七千五百万円の黄金は、富豪の世界全体への招待ではない。それでも、一人の思想家の生活、自尊心、思想を揺らし、受け取りたい本性と清らかでいたい本性を同時に露出させるには十分な金額である。
この三つは、それぞれ別の種類の大金である。三億円は生活を揺らす金である。約九十七億円は世界を組み替える金である。約七千五百万円の黄金は、一人の内面に二つの本性を露出させる金である。『億男』は生活の内部でお金を見る入口であり、ニードルマンは意識の内部でお金を見る入口である。
夢をかなえるためにお金が要るという話は、入口である。その奥に、お金が夢を見る主体を変えてしまうという話がある。さらにその奥には、富が死と相続と友情と自己像に接続していくという問いがある。さらにその奥には、自分の中で同時に立ち上がる二つの本性を見るという問いがある。
そこまで見てしまうと、関心は自然に別の場所へ移る。友情、信仰、読書、書くこと、共同体との距離、金で買えないもの、失う訓練、手放す技術、死の前で残るもの。そうしたもののほうが、むしろ強く迫ってくる。
筆者の原稿が聖書、タルムード、ホメロス、ギーター、白隠、ウェーバー、トランプ、『億男』へ飛んでいく癖そのものは、明らかにニードルマンの影響である。そもそも比較宗教学という学問の存在を知ったのも、筆者にとってはニードルマンを通してだった。その後、筆者は半ば冗談のように、しかし半ば本気で、自分をなんちゃって比較宗教学者のように感じるようになった。こうした素材が一つの原稿に並んでしまうのは、知識を見せびらかしたいからではない。一つの問いが複数の伝統を横切って現れるという感覚を、ニードルマンから学んだからである。
ニードルマンから受け取った重要な感覚は、知識があるだけでは足りないということである。人は知っていても眠る。分かっていても反応する。二つの本性、二つの声、二つの衝動が同時に見える稀な瞬間にだけ、本当の意識やプレゼンスに触れることがある。黄金の前で震えるニードルマンの場面が忘れがたいのは、その一瞬に「私は在る」が現れているからである。
筆者は今、クリスチャンとして、その「私は在る」やプレゼンスの問題を、聖霊の内住という言葉と切り離して考えにくくなっている。これはニードルマンをキリスト教へ乱暴に回収するという意味ではない。むしろ、ニードルマンから受け取った、知識ではなく生きた意識に触れるという問いが、今の筆者には聖霊の内住という言葉の近くで響いている、ということだと思う。
お金の力を正しく見て、自分の魂の置き場所を決めること。受け取りたい本性にも、清らかでいたい本性にも、どちらか一方へ逃げ込まないこと。二つの本性が同時に立ち上がる瞬間に、ほんの一瞬でも「私は在る」に触れること。
そこに、お金に関する無敵伝説の入口がある。












