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知らない街を歩くということ

お元気ですか。
クーランガッタは今、冬を迎えています。一日のうちに気温が14度から25度まで大きく振れたかと思えば、数時間おきに雨と晴れがコロコロと入れ替わる。そんな定まらない天気のなか、今週の私はやけに歩くことが多い一週間を過ごしていました。

火曜日は、家の鍵を持たずに外に出てしまいました。オーストラリアの家は内側からロックして出ていくスタイルが基本です。部屋を借りているニュージーランド人の老夫婦は二人とも不在で、手元には車の鍵もない。焦っても仕方がないので、ひたすら街を歩いて彼らの帰りを待つことにしました。
「待つことしかできない」という状況には、これまでの人生で何度も置かれてきたので慣れています。ただ、今回はあの頃と違って待てば必ず戻ってくる人がいる。それだけで、随分と気が楽です。この日に書いた記事は、こちら。

木曜日は、今度は車が故障しました。ローカルのメカニックに持ち込むと、なんともそっけない対応。見積もりをお願いして車を預け、私はまたもや街を自分の足で歩くことになりました。結局その日は何も連絡がなく、職場へはバスで向かうことに。普段なら車で15分の道のりが、バスを乗り継ぐと1時間弱かかり、しかも勤務開始の1時間も前に到着してしまいました。車がない生活というのは、本当に不便なものです。私は仕方がなく、ひたすら歩いて時間を潰しました。

ただ、私は歩くのが大好きです。
知らない街を訪れたとき、私はいつも地図を見ずに歩きます。感覚だけに従ってクネクネと道を曲がりながら、頭の中に自分だけの小さな地図を作っていく。カメラを片手に、風の通りが心地よい道、おしゃれなカフェ、入ってみたい雑貨屋、逆にちょっと近寄りがたい路地を記憶にインプットしていきます。

ここで意外と大事なのが、無料の公衆トイレや、気兼ねなく座れそうなベンチ、コンセントのある図書館など、Googleマップには載っていないスポットをチェックしておくことです。あと、目印になるものを記憶して、帰りの道標にする。これはいつもスマホの充電が切れかけているズボラな私にとって、もはや習性に近いものです。

日本にいるうちは、これはそこまで重要ではありません。夜遅くまで開いているカフェや、24時間営業のコンビニが街のあちこちにあるので、いざトイレや充電が必要になればいつでも駆け込めるからです。

しかし、海外ではそうはいきません。
フィンランドで半ホームレスのような生活をしていたときや、大半のカフェが15時に閉まってしまうアデレードの夜、街にあるトイレや屋内の施設は、私にとって生死を分けるライフラインそのもの。あの頃、頭の中の地図作りは趣味ではなく、生き延びるための戦略でした。

教会、暖房の効いた図書館、湖のほとりのベンチ。誰にも咎められずに、ただそこに座っていられる場所を、私は必死で覚えました。

今、私はこれを旅の楽しみ、あるいは日常のハプニングとしてやっていますが、ふと少し複雑な気持ちになります。かつて生きるために必死で作っていた頭の中の避難地図を、今は豊かな趣味として消費できている。それは、私が今、ある程度安全な場所に立っているという何よりの証拠なのだと思います。

どこかで聞いた話ですが、北海道の路上生活者は、冬の夜、ひたすら歩き続けるのだそうです。立ち止まれば、凍えて死んでしまうから。歩くという行為が、ここでは健康的なリフレッシュではなく、命を引き延ばすための唯一の手段になっています。

かつて私がいたアデレードの図書館は、そういう行き場のない人たちも多く利用していました。館内には支援情報が載ったパンフレットがさりげなく置かれ、私がよく利用していたコインランドリーにも、毎週決まった時間に生活困窮者が無料で洗濯できる枠が設けられていました。それらは、剥き出しの厳しさが転がる街のなかに、誰かが意志を持ってそっと忍ばせた「人間の温かさ」であり、目に見えないセーフティネットでした。

その一方で、最近よく耳にするのが「排除アート(Hostile Architecture)」という言葉です。 街のベンチの真ん中に不自然な肘掛けをつける。地面に謎の突起を並べる。そもそも人が横になれるような場所自体を、設計の段階から消し去ってしまう。大阪でも、ゴールドコーストでも、こうした思想に基づいた都市設計が、静かに、けれど確実に浸透してきているように感じます。

こうした設計には、たいてい「治安のため」「景観のため」「安全のため」という、もっともらしい正論が添えられています。悪意に満ちた誰かが大声で「ここから出て行け」と排除しているわけではありません。むしろ誰も悪者にならないよう、クリーンで優しい「美観」の顔をして、システムが自動的に、そして匿名的に人を弾き出しているのです。この「誰も悪くないはずなのに、結果として誰かの居場所が奪われている」という構造こそが、今の都市設計が持つ本当の冷酷さなのだと感じます。

普段、屋根の下で暮らしている側の人間にしてみれば、それはただの「きれいな街並み」にしか見えません。しかし、いざ自分が一晩をストリートで過ごさなければならなくなったとき、ベンチの真ん中にあるその肘掛け一つが、その夜の行き場を奪う決定的な凶器として目の前に現れます。

鍵を持たずに家を締め出された私には、幸いにも待つ場所があります。家の玄関先に座り込んでいても誰にも咎められませんし、待っていればおっちゃんが鍵を開けてくれる。車の不調も、お金を払えば修理に出せる。

でも、それは私が「たまたま」今持っている条件の集積にすぎません。部屋を貸してくれる優しい老夫婦、介護施設での仕事、そして有効な学生ビザ。このカードのどれか一つが明日突然欠ければ、私は一瞬にして、あの肘掛けのあるベンチの側に立ち尽くすことになります。

私が歩いたこの同じストリートには、本当に帰る家がない人たちがいます。待っていても、誰もドアを開けてくれない状況にある人たちがいます。

ほんの小さなきっかけで、私たちはいつでも「持たざる側」へと転がり落ちる。街から困った人の姿を消し去ることを、私たちは簡単に「治安が良くなった」という言葉で片付け、解決と呼んでしまいがちです。けれどそれは、問題が解決したのではなく、ただ排除アートの洗練されたデザインによって、他者の痛みが私たちの視界から「きれいに隠された」だけにすぎません。

だからこそ、アデレードの図書館で見かけたあのパンフレットや、コインランドリーの無料枠のような、マニュアル化された効率主義の隙間に強引に割り込ませていくような「泥臭い善意」の価値を思うのです。クリーンな景観を維持することよりも、傷ついた人がそこに留まることを許す優しさ。それこそが、街が人間に提供できる本質的なライフラインではないでしょうか。

今日は幸いにも、抜けるような青空が広がっています。 でも、もしこれが激しい雨だったら。凍えそうな氷点下の夜だったら。

見えているはずなのに、クリーンな景観の裏に見えなくされているもの。私は今日も頭の中の地図を頼りに、あてもなくクーランガッタの道を歩いています。この道にも、きっとそんな見えない境界線と、そしてそれに抗う誰かの小さな温もりが、いくつも隠されているんだと思います。

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