見出し画像

映画『国宝』と原作小説『国宝』と漫画『昭和元禄落語心中』を読み比べてみる

映画『国宝』を観た。
率直な感想としては歌舞伎シーンはとても美しかったが、繋がりが大幅に省略されて何がどうなってそうなったのか分からないところや描写として気になるところが多過ぎて、話としてはあまり面白くなかった。
以下、気になったところを列挙してみる。

・序盤でサクッと仇討ちが成功
まだ中学生の喜久雄と徳次がドスを持って敵の組長のところへ突っ込んで行ったら仇討ちが成功してしまう。その後、徳次は出てこなくなるので仇討ちの際に死んだものと思われる。少なくとも組長と徳次、2人の人間が死んだとして、その後の始末はどうやったのか。ただでさえ人が死んだら大変なことだが、ましてヤクザの組長を中学生が殺したのだ。その落とし前はどうつけたのか。また喜久雄にとって親友である徳次を失った心の傷は深いはずだが、それらの描写が一切ないのも気になる。

・ミミズクの彫り物
ミミズクは恩を受けた人間のことを決して忘れない。そのことに感銘を受けた喜久雄は背中にミミズクの彫り物を入れる。当然、恩を忘れないことが後から重要なポイントになってくる、と観ていると思う。だが劇中でそういう描写があるのは半次郎がこさえた借金を喜久雄が自ら引き受けるところぐらいで、それも大して効いてくる描写でもない。ミミズクは何だったのか。

・藤駒と綾乃の扱い
結婚しない、2号さんで良いという本人の言があったとはいえ、藤駒と綾乃に喜久雄が冷たくする理由がなさすぎる。お練りの時に綾乃を無視するのは意味がわからない。子供がいるのが世間にバレるとまずいから往来では反応しないということかも知れないが、直前で手繋いでお祭り回っているし。
手を振り返してくれるが目が合っても全然別のところを見ているように感じる、という方が良かったのではないか。芸道に精進したい人というより自分の体面を(しかも下手なやり方で)守りたい人に見えて凄くダサかった。
というか直前に春江はいなくなっているから、普通に結婚すれば良いじゃん。

・喜久雄と俊介、復活の経緯が不明瞭
先に春江と出奔した俊介の復活劇。襲名披露の場で半次郎が倒れ、後ろ盾を失ってヤクザの血筋もマスコミに暴かれるようになり、喜久雄が世間から嫌われ不当な扱いを受けるようになるのはわかる。しかし、俊介が復活できた理由が、10年間ドサ回りで鍛えていた成果を万菊に認められたから、という説明だけで片付けられてしまうのが何だか雑。万菊は俊介の何を見て認めたのか。
また喜久雄が復活する際も万菊に会っているが、この時の万菊は地方の安宿で病床に伏せっている。いくら当代きっての立女形とはいえ、全てを動かせる訳でもなし、ましてや一線から退いた死にかけの状態から、万菊が何をしたら喜久雄が復帰できたのか、その辺が全然わからん。

・「日本一の歌舞伎役者にしてください」「その代わり、他のもんはなんもいりませんから」
この台詞があった後に綾乃を無視するシーンが入る。子供じみた悪魔との契約に、我が子を無視するダサい振る舞いをするので、この時点で何だかなとは思う。だが、その直前に俊介と春江の出奔があり、半次郎の看板をいきなり背負わなければならなくなったので、そうした極端な覚悟でもしないとやってられないと解釈すれば、まだ理解できる。
なので、ここからは喜久雄の地獄っぷりと、その復活劇が始まるのだと期待した。周囲に羨ましがれ憎まれ陰口も悪口も叩かれ、人は離れて理解者もおらぬまま、孤独になっていくのだろうと。その代わり舞台上の凄みだけでのし上がっていくのだろうと。どん底からヤクザ者の血が暴れ出すのだろうと。孤独で孤高の表現者になるのだろうと。
が、その後の喜久雄は俊介とあっさり仲直りするし、地位もそこそこに回復、凶暴なヤクザ者の血が発動することもなく、比較的ラストまで穏やかに過ごしていた。全然何にも失わないから拍子抜けだった。

・幸子と彰子の描写
俊介の出奔後、夫は病気でふらふらなのに自身は白虎を襲名、喜久雄に半次郎の名を継がせることを勝手に決めて、そのことに幸子が憤慨するのはよくわかる。喜久雄に多少の八つ当たりをしてしまうのもむべなるかな。しかし、俊介が帰ってきた以降もずっと喜久雄のことを無視し続けるのはどうなのか。俊介・半次郎が亡くなって以降、丹波屋を守っていたのは喜久雄なのだ。梨園の妻として、あまりに器量が小さ過ぎやしないか。
また、彰子の扱いはもっと酷い。ただただ喜久雄に利用され親からは勘当されるし、喜久雄のドサ回りに付き合わされるだけ付き合わされ愛は全くないし。最後まで添い遂げることもなく途中離脱してしまうから、ただ喜久雄に嵌められた若い女の子というだけの印象で、藤駒・綾乃よりも扱いが酷い。
幸子・彰子・藤駒・綾乃に関しては物語のために扱いを雑にされたように見える。「その代わり、他のもんはなんもいりませんから」を成立させるための道具にされているのだ。

・喜久雄の受難がチープ
ドサ周りの最中に酔っ払いに絡まれて、女形なんて気持ち悪いと暴力を受けるところ。いやまあ、そういうことは現実にもあると思うけど、短絡的な悪人が短絡的な描かれ方で登場するのを見ると辟易するというか。そういうシーンだと分かってはいるけど、吉沢亮の姿があまりに綺麗すぎるもんだから手を出そうとするのも不自然にも思えるし。こんなに綺麗な役者を酔っ払っただけでボコそうとする人間って相当に性根が腐っていると思う。喜久雄の受難シーンというより、ただ人間のイヤな姿を見せられたようで不快だった。
喜久雄の女形に魅せられた人の狂気の演技は良かったので、この人が逆上して殴りかかってくるだけの方が、喜久雄の女形としての宿命や業を感じられたのではないか。

・「…ってな感じで怒った方が面白い」の意趣返し
事故を起こした半次郎が自分の代役を俊介ではなく喜久雄に指名した際、俊介が喜久雄の胸ぐらを掴んで殴りかかるフリをするシーン。数年後に俊介が帰ってきて喜久雄が丹波屋を出なければいけなくなった時に、今度は喜久雄が俊介に同じことをやり返す。あの時と立場が逆転したことを表す趣向として、同じことをやり返させてるのだろうけど、それぞれの場面の条件があまりに違いすぎて不自然だった。
俊介の場合は、半次郎が喜久雄を指名したのは俊介への厳しい激励でもあった訳で、俊介が真摯に受け止めれば良かっただけの話。しかし、喜久雄の場合は、いなくなった俊介の代わりに覚悟して半次郎の名前を継いで舞台に立っていたのに、俊介が帰ってきたら急にお払い箱にされる酷い仕打ちを受けているのだ。俊介の時と違って、喜久雄はブチ切れて良い理由が揃っている。というか本来ならば俊介が方々に謝り倒して喜久雄を引き留めるぐらいのことはすべきである。
結局、喜久雄が俊介に手を出してお互いに殴り合うことになるが、多少の殴り合いでは生ぬるい。喜久雄は俊介のことを馬乗りでボコボコにしても良かったぐらいだ。

・「あんな風に生きれないよな」と「キレイやなあ」の台詞
常人では耐えきれない程のしんどいことを抱えながらも、平気な面をして舞台に立っている。もしくは、圧倒的な美しさを求めている故に、しんどいことに意識がいかず一心不乱に美に向かっている。ということを伝えたくての「あんな風に生きれないよな」なんだろうけど、如何せん、喜久雄が大して何も失っていないので、あんな風にがどんな風によ、と思ってしまった。
また、求道の果てに色んなものを失って孤高の景色に辿り着いた、というよりは年取った結果たまたま周りよりか長生きした故の孤独、ぐらいにしか思えなかったので、ラストの「キレイやなあ」は凄く独りよがりに映った。あれなら表情だけで良かった。


と、恐らくこの映画の感動の布石になるであろう物語の部分が、ことごとく自分にはハマらなかったので、最終的にはしらけてしまったというのが正直なところ。
しかし、歌舞伎のシーンはとても素晴らしく、この映画のために稽古を重ねたことが感じられた。その部分にはとても感動したために、もっとどうにか出来なかったのかと強く思った。あまりに脚本に納得いかなかったため、原作を読むことにした。劇中のすっ飛ばされてる諸々の経緯が原作を読めば分かるんじゃないかと思ったのだ。

読んだ感想としては、映画と小説、全然別物やんけ!ってぐらい印象が違う。少なくとも上に列挙した気になったところは全て解消された。

まず、序盤の仇討ちはあっさりと失敗する。
仇討ちを仕掛けたことの後始末は周囲の大人がしてくれて、喜久雄は地元を追い出されるぐらいで済む。また、喜久雄が一人でやるので徳次は死なずに済む。というか、徳次はこの後ずっと傍で喜久雄を支えるキーキャラクターなので、映画序盤での徳次退場は大きな改変であった。

恩をいつまでも忘れないミミズクの性質。これは喜久雄のヤクザ社会との付き合いの中で発揮される。映画ではヤクザ要素は最初の料亭のシーンと背中の彫り物で世間にバッシングされるところぐらいしかないので、半次郎の借金を無理やり引き継ぐところにしか掛ってないように見える。
小説ではこの性質によって彰子の父親である千五郎に許される展開もあり、最終盤にこの作品における重要な事件の根幹部分にも掛ってきている。映画ではヤクザ関連の描写をゴッソリ切っているので、ミミズクだけ変に印象付けることになってしまった。それならミミズクの説明自体いらなかった、というか冒頭の料亭の大立ち回りが丸々無くて良かったんじゃないかと思う。

映画では理不尽に冷たくあしらわれて、その後は出てこない藤駒。そして綾乃は映画の終盤に、酷い扱いを受けて恨んでいたけど舞台上の姿が美しくて感動してしまいました、と大人になった姿で喜久雄の前に現れる。周りに対して酷いことばかりしていたけど舞台上の美しさだけは極めたのが喜久雄の人生でした、というのを補強するための役である。
映画だとそこしか出番がないが、小説だと藤駒(原作の名前は市駒)と綾乃は喜久雄とも付き合いがずっとある。喜久雄が忙しくて会えない時は徳次がフォローして面倒を見たり、でも喜久雄の気配りが足りないせいで綾乃がグレたり、その後に親子の関係を修復しようと喜久雄が働きかけるも幼い時の触れ合い不足によるわだかまりの解消は難しく…というように関係性が丁寧に描かれている。歳も重ねてようやく親子のわだかまりは解消されたか、というタイミングである事件が起こり、綾乃の中に喜久雄に対する絶対的な不信感があることが発覚する。それは「日本一の歌舞伎役者にしてください」「その代わり、他のもんはなんもいりませんから」のくだりであり、綾乃は簡単に切り捨てられる存在だと子供の時に思ってしまったことで、喜久雄のことを信用できなくなっていたのだ。喜久雄にとっては子供じみた願掛けで若気の至りのようなものだったが、それが綾乃のことを深く傷つけていたのだということに初めて気づくことになる。幼い時に出来た親子の溝は、消えることなくずっと残るのだ。
映画だと藤駒と綾乃は喜久雄の非道さを立たせる為の道具にしかなっていないが、小説だとお互いを一人の人間として認めた上での交流がちゃんと描かれている。

幸子と彰子にしてもそうで、映画だと俊介が帰ってきた後、幸子は喜久雄のことを無視するように描かれている。だが小説だと、幸子は俊介の出奔と半次郎の急逝で憔悴し切ってしまい、変な宗教にハマって、そのせいで喜久雄とまともなやりとりが出来なくなってしまったために、喜久雄の方から進んで家を出るようになっている。その後、俊介と共に春江が帰ってきたことで、春江がまず家に入り浸っていた宗教の連中を追い出し、そのお陰で幸子も気力を取り戻して、幸子は春江に歌舞伎役者の女将のノウハウを叩き込むことを決意、二人で傾きかけてたお家の再建をしていくのである。
彰子は喜久雄に乗せられて結婚を決意したことで親から勘当されるのは映画と同じ。しかし、徳次が喜久雄のことを殴って改心させたお陰で、喜久雄は彰子を利用していたことを早々に白状する。当然、怒る彰子だがそれで出て行くことをせず、逆に肚を決めて喜久雄を支える決心を固める。
幸子・彰子、共に器量の大きな女性として描かれている。

映画だと喜久雄と俊介の復活の理由はドサ回りで鍛えたから、ぐらいしか説明がないが、小説だとその経緯が克明に描かれている。三友商事の竹野がたまたま地方の温泉街の見世物小屋でのショーで行っていた俊介の化け猫の芝居を見つけ、これなら万菊も認めるのではないか、万菊も巻き込んで興行を行えば当たるのではないかと、企画を立ち上げたことで俊介は復活していく。喜久雄の方は歌舞伎界で居場所がなくなっていたところ、新派に移籍したら悪く映っていた世間のイメージが悪人役にハマり、返り咲いていく。
また、その後に千五郎に認められて歌舞伎界に復帰できる描写もある。映画だと喜久雄に娘を寝取られ捨てられるだけの役という印象だが、小説だと千五郎も器の大きな人物に描かれている。

喜久雄の受難は映画だとドサ周りの最中に起きているが、小説だと劇中映画「太陽のカラヴァッジョ」の撮影中に起きている。喜久雄自身、乗り気ではない映画の撮影に女形の日本兵役として参加。歌舞伎界で干され、先輩役者からはいびられる中で映画に参加すれば、喜久雄は歌舞伎を捨てたと悪い噂を立てられる。撮影中は監督に目をつけられ、理不尽に怒られる。拙い芝居をする主演に不満が向かないために、わざと喜久雄はスケープゴートにされてしまうのだ。周りも最初のうちはわかっていたが、あまりに撮影が遅々として進まないために、段々周囲の不満も喜久雄に向かうようになる。ある時、喜久雄は理由もなく座組の面々に袋叩きにされてしまう。
映画だと、その時点で藤駒・綾乃・彰子などを袖にしているので、酔っ払いに絡まれるのは理不尽ではあるが因果応報のようにも感じられるが、小説のこのシーンだと喜久雄には何の落ち度もなく、全く理不尽なので芯から可哀想である。

また、映画だと舞台上に客が上がってきてしまう事件もこのドサ回りのシーンだ。ドサ回りによって喜久雄の美がそれ程までに惹きつけてしまうものになった、ということを示したいのかも知れないが、その後すぐにその者も喜久雄を殴りつけてくるので、何とも言えない。惹きつけられたのは喜久雄の美が凄まじいからというより、単純に酔っ払っていたからという風にも見える。というか、喜久雄に倒錯した感情を抱いてしまった自分に逆上して怒っているようにも見えて、女形並びに同性愛者に対しての偏見というセンシティブな問題を急にここだけ挟んできたようでもあり、主題がブレて見える。
小説だとこの事件は物語のだいぶ後半だが、歌舞伎座の舞台で起こる。この場合は、酩酊していた訳でもないし歌舞伎座の舞台はふらりと上がれるものでもないわけで、観客が喜久雄の美に惹きつけられたのが明確になっている。ここで喜久雄の美が客の狂気を引き出したことがキッカケとなり、喜久雄自身が美に偏執的になっていく。終盤の始まりのシーンとも言える。
また、このシーンが小説だとラストシーンの布石にもなっている。事件のシーンでは喜久雄の作り出す美の世界に客が迷い込んで舞台に上がってしまう。ラストシーンでは喜久雄が舞台から降りて来て舞台の外を喜久雄自ら美の世界に染めて行くのである。

総じて、
映画だと喜久雄は舞台上での美しさにしか興味がない故に、他の大切にすべき日常のことがお粗末になっている、という風に見える。小説だと支えていたものが無くなっていくのに歌舞伎界における責任は増えていき、その危ういバランスをこなす為に喜久雄は舞台上の美に専心していかざるを得ないように見える。
後者であれば、「あんな風に生きれないよな」という台詞も「キレイやなあ」の台詞も響いてきたと思う。まあ、小説だと竹野は喜久雄が「あんな風に」生きてしまっているのは自分を含める周りのせいであり、それを止めることが出来ない自分を責めているので、そんな台詞を吐くようには思えないが。


映画『国宝』を観て『昭和元禄落語心中』という作品も思い出した。作中で扱われているモチーフやテーマが似ていたからだ。

・ヤクザ者が落語界の大師匠に弟子入りする
・ヤクザ者の彫り物が周囲にバレて話題になる
・落語家のサラブレットと出自不詳の野良犬という対照的な若者2人が切磋琢磨する
・最初は揉めていたがあっという間に仲良くなり互いに無二の存在となる
・師匠から名前を継ぐかどうかのいざこざで片方がいなくなってしまう
・共に落語界を盛り上げようとしていた2人の片割れが亡くなってしまう
・残された1人は自身の芸を磨き上げ誰も届かない境地にいってしまう
・厳しい状況に置かれている伝統芸能・落語を今後どうしていくのか

安楽亭八雲は昭和最後の名人として知られる落語家である。
誰もがその芸に惚れ惚れするが、弟子は取らない主義であった。
そんな八雲のもとに刑務所上がりの野良犬のような男が弟子入りにやってくる。何を思ったか、八雲はその男を弟子に迎える。
八雲にはかつて兄弟弟子がいた。
確かな技で見せる八雲の落語とはまた違った、圧倒的な人柄で見せる助六の落語。
二人で落語界を盛り上げようと約束した仲だった。
だが運命の掛け違いで助六は帰らぬ人に。愛する女性・みよ吉と共に逝ってしまった。
孤独になった八雲は芸を極めた。だが、時勢に押されて落語の存在も危ういものに。
大事な人との心中に失敗して自分だけ生き残ってしまった自責の念がある八雲。芸を極めたとは言え、自身の理想とする落語は助六あってのものであった。助六亡き今、落語は輝きを失っている。昭和の落語を受け継ぐ最後の者として、自分が亡くなれば落語は終わる。八雲は今度は落語と共に心中を図る。そのために弟子を取っていなかったのだが…。


『国宝』を観た後に『昭和元禄落語心中』も読み直した。
この作品では、落語の美だけに専心し周囲を置いてけぼりにして落語と心中を図ろうとする八雲を、与太郎・小夏をはじめとした周囲が引き留め分かち合おうとする。
小説『国宝』ではラストに向かって喜久雄は孤独になっていき、美に専心していかざるを得なくなっていく。美を技術として見せる者ではなく、美そのものと化していくのである。竹野はその姿に晩年の万菊の姿を重ねており、果てのない重責に誰かがもう良いよと言ってあげるべきとも思っているのだが、それも言えずに葛藤している。
八雲は助六・みよ吉を亡くした罪も小夏からの恨みも自ら背負い込み、ある時からずっと孤独であった。孤独すらも芸に昇華して、それを誰にも引き継がせずに自ら消えて無くなろうとしていた。しかし、八雲の芸に惚れ込んだ与太郎に助六の面影を見た八雲は、誰にも語ってこなかった過去の話を伝える。そして、八雲自身の落語だけでなく助六の落語も与太郎に叩き込み、与太郎を一人前の落語家として育て上げる。
喜久雄は俊介ともども復活し、共に円熟期を迎えるが、俊介に病気が発覚し早々に一番の友を失ってしまう。俊介の息子である一豊を鍛え上げようと預かり、本人も真面目に取り組んでいるのに上手く育たない。喜久雄の娘である綾乃との関係性はようやく良好になってきたかと思っていたら、根本の部分では大きな断絶があったことに気づく。芸だけが磨かれていく喜久雄。その美は並ぶ者のいない孤高の領域に入っていく。
八雲は罪の意識から落語の美に専心し共に消えようとする一方、落語家として成長した与太郎や恨みながらも慕ってくれる小夏にほだされ、死にたくないと本音を漏らす。孤独という芸の極みの一方で、分かち合うことで継がれていく人の縁の面白み。八雲は孤独と孤高の地位から最後には解放される。喜久雄も道半ばで俊介を失い、終盤は孤独にならざるを得なかったかも知れない。だが綾乃も観ている。春江も、俊介の孫を宿す美緒も観ている。喜久雄と何もかも分かち合うことが出来る徳次が会場に向かっているのは最大の救いだろう。
孤独なる美を讃えるだけじゃなく、紡ごうとする意思が感じられる方が、面白い。そうでないと人と人とが関わる意味がなくなってしまうから。


ところで『昭和元禄落語心中』のドラマ版もあって、ちょうど今NHKで再放送をやっているから、それも観ようとしているが正直、頓挫しそうである。こちらのドラマ版はさっと観た感じだと、漫画の筋をある程度そのまま再現しているよう。
個人的意見としては好きな作品であってもメディアミックスすることに懐疑的である。何で知ってる物語をそのまま映像化したものをまた観なければいけないのか。別のメディアで作品化するのであれば、大幅に内容を改変しても良いから、そのメディアでやる意義を見出した上でやって欲しい。なので漫画がそのままドラマ化されてるんだなあ、と感じると観る気が失くなるのである。
あと原作を読んでいた時の想像を実写が超えてこない場合も一気に飽きる要因となってしまう。『昭和元禄落語心中』では絶品と呼ばれる落語が披露されるシーンが幾つもある。漫画内での落語を自分の脳内ではとんでもない仕上がりに想像していた。そのため、ドラマで落語シーンを観た時に正直それを超えるものとは感じられなかったので、ウーンと思ってしまった。

その点、『国宝』の歌舞伎シーンの説得力は物凄い。そこで圧倒的に魅せ切っているのがこの映画の良いところだ。
たとえ映画では無くて1クールのドラマにしたとして、そこで原作通りに忠実に再現したら面白くなるか、と言えばまたそこは微妙なところなので、メディアミックスは難しい。今作の場合、大胆に改変した物語の筋が個人的にはハマらなかったけども、歌舞伎シーンの美しさで説得力を持たせているのは素晴らしいので、それはそれで良きと思う。


最近書いた記事


なんか人気な記事


いいなと思ったら応援しよう!