MCR『穴熊の戯言は金色の鉄錆』を終えて。私はスターになりたい。
MCR『穴熊の戯言は金色の鉄錆』が無事に終演しました。
まさか参加できるとは思ってなかったMCR、飛び込んでみたらそこはとても温かな空間で。今までのMCRの中でも一番良かった、との声も聞こえるぐらい評判も良く。30周年を迎えてまだ傑作を更新できるってカッコ良すぎます。
いやマジで、稽古始まってから本番が終わるまで、ずっと、ずーーっと楽しかったです。
始める前はけっこうドキドキしていて。台本が遅いというのは散々聞かされていたけれども、直前のTEA FOR TWOが役者の記憶力の限界まで試された公演だったので、覚えることに関してはまぁ何とかなるだろうと思っていて、そのドキドキよりもMCRの世界に上手く馴染めるかなということにドキドキしていて。
MCRを外から観ている時はヤバい人たちの集まりなんだろうとか思っていたけど、実際に櫻井さんやおがわさんと話したら、ヤバいエピソードはふんだんにありつつも、それ以上に愛と優しさに溢れた人たちであることがわかったし、MCRという劇団が色んな人たちに愛されていることがよく分かったので、その愛に自分がそぐわなかったらどうしようというのが一番怖かったのですが、何のこともなく、MCRはすっと包み込んでくれました。
ヒロさんは事あるごとに山川くん、大丈夫?辛くない?と声かけてくれるし。おがわさんは最初の方、なかなか台本が僕が出てくるシーンのところまで上がってこなくて、僕がやることなかったのを見かねて、先におがわさんのシーンが上がっていたので、そこを俺の代わりに読んでみてよ、と振ってくれたり。そのお陰で喫茶店のマスターとガリ勉の役が交換されたりしました。僕はオファーの段階では喫茶店のマスター役と言われていて、おがわさんはガリ勉の役だったのですが、稽古場で試してみた結果、そうなったのです。替えて良かったよ、とヒロさんやおがわさんは何度もしみじみ言ってくれるし、僕自身も同い年(平成元年生まれの役者は何故かあんまりいないのです)のタテオさんとがっつり絡めてとても楽しかったです。
MCRは出ている人みんなパワーがあって声もデカいし、スズナリは広さ的にもちょうど良くって、いつも僕だけ声が響きすぎて悪目立ち(あの人だけ声がうるさかった、という感想をよく貰う)することが多いのですが、全然そのことを感じることもなく馴染めたのでとても良かったです。

ただ、受け入れてもらえたことに喜びは感じつつも、その一方で、あまりに静かに佇み過ぎて周囲に気を遣わせてしまったことには大いに反省しなければなりません。
ヒロさんは本当なら超絶人見知りで、一回会って話してもリセットされちゃうぐらいらしいのですが、そのヒロさんが話しかけてるんだから山川くんはヒロさんに気に入られてるんだよ、と言ってもらえたけど、逆に言えばヒロさんに気を遣わせるほどつまんなそうに見えてしまっていたということで。かと言って楽しそうにキャイキャイすることも出来ず、結局とりあえずは場の空気を乱すこともなく、ただその場に存在することだけに徹する、という地蔵みたいな状態でしか居られなかった。
おがわさんはコミュニケーションお化けだし、海里ちゃんはヘラヘラ大臣として立派に仕事されてたし、かすみんは急に目を見てニヤリと笑ったり何かふにふに呟いてるし、この人たちみたいに何かこう、もっと明るい作用を分かりやすく現場にもたらすような存在になりたいよ、私は。と幾度も稽古場で思ってました。
おがわさんに山川くんは普段、何て呼ばれてるの?と聞かれて、きょきょと呼ばれています、と答えた時のあ…え…ほ…え…?みたいな空気が、僕という存在の難しさを物語っていました。
きょきょというあだ名は別に僕自身がかわい子ぶろうと自称し始めた訳ではなくて、小学校の時、周りはみーくん、ぺっぺ、みすも、みったん、けけ、なかみょん、などかわいいあだ名が多くて、その中で自分はきょきょと呼ばれていた、というだけでして。
中学・高校は社長と呼ばれ、大学に入ったらカントクと呼ばれ、同年代の中にいると落ち着き過ぎているということから、そんなあだ名がついていた。でも学校の外に出て自分よりも上の年齢の人たちと関わっていく中で、自己紹介する際に社長・カントクと呼んでくださいというのも気が引けるので、あだ名を聞かれた際はきょきょと呼んでください、というようにしている。
Peachboysで長らくKYOKYOと名乗っていたように、自分の中ではきょきょという名前は自分のアイデンティティの根幹に近い感覚があるのだけど、どうもその自分の感覚と外から見た時の僕の感じにはギャップがあって、呼べない人は呼べないようで。気軽にきょきょと呼べない何かを地蔵の私がきっと出しちゃってるんだろうな、とは常々思っている癖にどうしたら良いか分からず、周りの人頼りになってしまっているのが目下の悩みというか課題だ。
何か自分はやたらとあだ名がいっぱいあって、とある現場の人たちからはずっとスターと呼ばれている。そのキッカケはその現場で人狼ゲームをやった時に特殊な役職としてスターという役職があって、その役職が妙にハマって盛り上がったことがあったからそのままスターと呼ばれ続けている、というだけのことなんだけど。でも、本当はうっすら、スターになりたい、みたいな願望が自分にはある気がしていて、その気持ちを掬い上げられたあだ名のような気もしている。存在するだけで、現場の空気が盛り上がったり、誰かをぎゅっと持ち上げることが出来る、そういう人をスターと呼ぶんだと思うのだけど、私は本当はそうなりたい。誰を侵すこともなく自分の領分をじっと守ってるだけの地蔵じゃなく、自分も輝きつつ誰かを照らし上げることも出来るような、私はスターになりたい。でも今回の、現状は地蔵でした。

今回の作品の素晴らしさは評判の良さから言うまでもないのだけど、個人的に刺さるところもたくさんあって。今回の作品は、人生において落ちてきちゃった雷が、呪いであり、祝福であり、衝動であり、生きる指針であり、人によっては雷が落ちない人生もあるでしょうに、早めに雷が落ちちゃった場合は、一度きりのその感触を大切に抱きしめながら、味がしなくなっても噛み続けながら、生きていくのか、それとも何度でも雷を落としてやるんだと思いながら生きていくのか、死んでいくのか、とかそういう話でした。
櫻井さんはMCRでは、というか自分は恋愛が一番のSFだと思っているから、恋愛しか書かないし、書くにあたって、過去の経験をちょっとずつ切り出しながら書くのではなくて、今、恋をしているんだという気持ちのもと書くことにしていて、それは年齢を重ねるに連れて段々しんどくなってきているんだけど、もう毎回、タスキを全身に何箇所もウシウシウシウシ!!!と巻き上げまくって重すぎる腰と身体を持ち上げて書いてるんだそうで。飲みの席でそんなことを言っていましま。
僕は人生において雷が落ちたような恋は全くもってナッシングだけど、呪いであり祝福でもある自分の中に楔を打つような大事なモノの感覚はよくわかる。
僕は家族全員美大出身の美術一家なので、役者活動をやることを反対されたことはないし、むしろ応援して貰いまくっている。コレは面白いと雷を落としてくれた存在だったPeachboysは昨年に最終公演を迎えてしまったので、もう存在しない。自分の表現で食っていくこと、自分の存在を確立させること、が目下の目標である。35歳にして、文字にしてみると格好が悪すぎる目標だが、実際そうなのだから仕方がない。Peachboys以上の雷を落とせるようになりたいのだ。過去に受けた雷以上の雷を自分で起こしたい、そういう点で言えば、今作の小野くんに共感するところは多々あった。

今回の感想で弱者男性は愛する人を得ても尚、弱者男性なのか?というのがあった。確かに小野くんは弱者男性と言えるところはあるかも知れない。接客業は絶望的に向いていないし、何かをしたいという衝動だけは凄いけど具体的に向ける先をいつまで経っても見つけられない。枠にはまらない自分を夢想しながら、実際に社会のレールから外れてる人を目の当たりにすると、ごくごく普通の反応しかできない。ゆかりちゃんが惚れてくれなかったら、誰にも見染められない人生だったかも知れない。社会的な成功が難しそうなことだけは確かだ。
ただ、本当に弱者男性か?と言われるとちょっと違う気がする。弱者男性は社会的な成功が難しい諸条件が揃っている上に、自己肯定力が低く自分を卑下し他人を妬むニュアンスを含む言葉だと思う。少なくとも、小野くんは自分を卑下している印象はあまりない。掲げる理想に全然辿り着いてない自分にイライラしているような感じだ。で、理想に近づけない自分に対し、才能を改めて見つけたゆかりちゃんが輝いて見えて、その輝きを阻害していた自分も見つけて、と同時に自分の才能はまっすぐゆかりちゃんが好きなことであることも見つけて、そっから何かもう、切ない擦れ違いのアレが発生してしまうのだけど。
その物語の展開は置いといても、やっぱり小野くんは弱者男性とは少し違うと思う。弱者男性は基本的に周りが見えておらず、自分が助けてもらうべき存在だと思っている者だ。でも小野くんは自分はこういう者だというのが見えているし、割と積極的に他人に介入する。自分にはこれが出来る、というものがないと思っている割には普通に入ってくるのである。これは、弱者男性には基本的に出来ないことだ。だから、小野くんは弱者男性ではない。むしろ、弱者男性はガリ勉・山川くんだ!
小野くんの不幸は自分にある才能がゆかりちゃんをまっすぐ好きなことだけだと思ったことである。小野くんには何もしてないようで周りに影響を与える力があるのである。タテオにとっては親友だし、大石さんにとっては良い人だし、加茂井ちゃんが殺されなかったのだって、小野くんが中川さんと海里ちゃんに普通のことを言ったからかも知れない。先生の家に逆恨みで放火しているジャポニカ・山川くんの方が断然、弱者男性だ!その山川くんが最終的には何となく良いやつに見えていたのは小野くんが良いやつだったからに他ならない。
この作品の結末を、哀しいとか幸せとかの一言では絶対に言い表せないけれど、小野くんが小野くんで、ゆかりちゃんがゆかりちゃんで、それぞれが出会って雷が落ちて、もう一回雷が落ちてきたらどうなっちゃうのか、雷なんてなかった方が良かったのか、いやそれだけは絶対にない!どうすれば最高の形になるのかはわからないけど、雷だけは絶対に間違いない!という作品だった。

Peachboysは僕の中で呪いのような祝福のような雷だった。
去年、最終公演を迎えて何にも所属のなくなった僕が思ったことは、一人でもPeachboysと同じぐらいの面白さを発揮できるような表現者になることだった。そう決めたのだけど、そう決めた途端に死ぬほど体調を崩したり、死ぬほど地獄みたいな現場で精神を追い詰められたり、去年はなんかもう、散々だった。で、今年の頭の時点でも何の予定も決まってなくて、どうしたものかと思っていたところだったけど、ちょこちょこ色んなところに顔を出したり、歌やらアクロバットやら手を伸ばしていたお陰で、声掛けを頂いて予定が埋まりつつあって、大きな波がきているのを感じる。
と同時に、現在進行形で、身近な家族に大きな病気が今年になって見つかった。直ちにどうにかなってしまう、という状況では今のところないが、いつどうなってもおかしくない、という状況ではある。
Peachboysは確かに自分にとって雷だったが、この状況になって思うのは家族の存在は自分にとって何よりの雷だったということだ。いつだって家族は自分のことを手放しで応援してくれた。面白いと笑ってくれた。変なセンスで最高だと言ってくれた。今でもそうだ。好きなことをやりなさいと言われた。それは祝福であり呪いだった。多分、本人たちはそんなことまで望んでいないだろうけど、僕は本当だったら爆売れしないといけない者だと思う。それぐらい、環境に恵まれ過ぎてる。だから、そう、僕は本当はスターになりたいのだ。雷を与えてくれた人たちに雷を与え返したい。

小野くんは雷を与えられる者になりたかったのではないだろうか。
でも本人の気づいていないところで雷を与えられる者でもあった。
山川くんは小野くんに憧れていたのではないだろうか。
山川くんは小野くんに当てられた者だった。

今回、個人集客で80人以上呼べたのだけど、これが僕自身の集客力だとは到底思えない。MCR効果です。めちゃくちゃ面白いMCRに山川が出るなら、というあくまでMCRが主体の相乗効果。技術や能力的には作品に貢献できるモノを自分は持っていると思えるようにはなってきたけど、僕が出るから面白いとまではまだまだ言い切れない。いるだけで作品をグイッと引っ張り上げることが出来る、そういう存在になりたいと改めて思った今回でした。








