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血まみれの軍服と「お母さん」――立山英夫という青年が遺したもの

母と子と、上官と、そして一つの歌の物語


今回の東京では、本当に色んなことを感じ、学んだ。
その中でも 靖国で胸に走った衝動だけは、黙っていることができない。

一人一人の英霊には、
名前があり、
人生があり、
家族があり、
愛した人がいて、
それぞれに物語がある。

その一つ一つの上に、
今の僕たちの「平和」が成り立っているのだと思うと、
こみ上げてくるものがあった。

だから今日、こうして筆を執る。
これは、靖国で出会った “ある青年” の話だ。


僕は60歳という年齢で0から副業としてアフィリエイトを始めているお爺ちゃん美容師です。

日本人として産まれ育った僕は、当然のごとく日本人であることに誇りを持っており日本の文化や神社仏閣、日本の山々などの自然を愛しています。

そんな僕は「日本人としての誇りを取り戻す」というテーマでnoteの記事を綴っています。

前回の「日本人としての誇りを取り戻す」はこちら👇

血まみれの軍服と、一枚の小さな写真

遺品として戻ってきた血まみれの軍服。
その内ポケットから見つかったのは、一枚の母の写真だった。

写真の裏には、
震える筆跡でびっしりと書かれた「母への言葉」。

そして最後の余白には、
たった一語が、何度も何度も繰り返されていた。

「お母さん」

記録によれば――
「お母さん」という言葉は二十四回も書かれていた。

死が迫る極限の中で、
青年が最後に掴んだ言葉は、
国家の名でも、軍の名でもなく、
ただ一語の「お母さん」だった。

僕はその文字列を見た瞬間、胸が震えた。


まだあどけなさの残る青年

遺影を見ると、立山英夫はまだ少年のようだ。
熊本県出身。
陸軍歩兵第47聯隊。
偵察任務で前線に出て、そのまま初陣で斃れた。

あまりにも若い、ひとりの命。

彼が書いた遺書には、こうある。

出ても入っても、寝ても覚めても子を思う母
生きている間は子の身代わりになりたい
死んでなお子を守りたい

これは、母という存在の本質そのものだと思う。


原典がどうであれ、そこじゃない

立山の遺書については、
「もともと別の歌(感恩の歌)を書き写したものでは?」
という指摘もある。

だが――
正直、そんなことはどうでもいい。

もし仮に下敷きがあったのだとしても。

その言葉を
どんな心で書いたのか。
どんな想いで手を震わせたのか。
そして、最後の余白に「お母さん」を24回も繰り返した理由は何なのか。

大切なのは “文学的なオリジナリティ” ではない。
死の間際に溢れ出た「心」だけだ。

血まみれの軍服、
懐に入れた母の写真、
その裏の消え入りそうな文字。

引用であろうとなかろうと、
そこに宿っているのは
一人の青年が最期に叫んだ祈り だ。

僕は、その一点だけで十分すぎるほど価値があると思う。


遺書を受け取った上官の深い衝撃

立山の亡骸から遺書を見つけた上官、
陸軍少佐 大江一二三(おおえ ひふみ)

彼はその文字を見て深い衝撃を受け、
立山の郷里の葬儀に向けて一首の歌を贈った。

靖國の
宮にみたまは鎮もるも
をりをりかへれ 母の夢路に

靖国で静かに眠っていても、
どうか、ときどきはお母さんの夢の中へ帰ってあげなさい――
そんな“ひとりの男としての祈り”だった。


この歌は、やがて国民に歌われた

この大江少佐の歌に、
作曲家・信時潔 が深く心を打たれ、
曲をつけて 「靖国の」 として発表。

当時の国民歌謡として全国で歌われた。

名も知られぬ青年の遺書が、
その死を悼んだ上官の歌となり、
さらに歌声として多くの胸に届いていった。

そこには、政治や軍事を超えた
“人の想い” の連鎖 があった。


僕がこの話に胸を打たれた理由

靖国の展示室で彼の遺影を見たとき、
僕はしばらく動けなかった。

あどけない顔。
小さな母の写真。
その裏に刻まれた震える文字。
そして余白いっぱいの「お母さん」。

僕はその瞬間、
戦争の是非ではなく
「人間としての真実」 に触れた気がした。

立山にとって最後に浮かんだのは
国家でも名誉でもなく
母の顔 だった。

それだけで、この遺書は“完全”だと思う。


立山英夫の遺書を読んで、
僕はどうしても自分の母の顔が浮かんだ。

正直に言えば、
俺は子どものころから母親にずいぶんと迷惑をかけてきた。
思い返すたびに、胸の奥がちくりと痛む。

あの頃の俺を見たら、
きっと立山の母は「罰当たり」と笑うかもしれない。

でも――
その「罰当たりな俺」を、
誰よりも見捨てずに支えてくれたのも、母だった。

だからこそ今、
立山英夫という青年が遺した“母への想い”が、
まっすぐ胸に響くのかもしれない。

俺たちはみんな、不完全で、どこか不器用や。

でも、
「大切な人を想う心」だけは、
どんな時代でも、どんな立場でも、
変わらずに残るんやと思う。

それを教えてくれた立山英夫に、
静かに頭を下げたい。


■付録

立山英夫中尉が母の写真の裏に書き残したとされる「原文」

若し子の遠く行くあらば
帰りてその面見る迄は
出でても入りても子を憶ひ
寝ても覚めても子を念ず
己れ生あるその中は
子の身に代らんこと思ひ
己れ死に行くその後は
子の身を守らんこと願ふ あゝ有難き母の思
子は如何にして酬ゆべき あはれ地上に数知らぬ
衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ
貴きえにし伏し拝む 母死に給ふそのきはに
泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの
言葉交はして微笑めよ 母息絶ゆるそのきはに
泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて
誠心こめてもみまつれ

(このあと余白に「お母さん、お母さん……」と24回繰り返し記載されていた)


■現代語訳

もし子どもが遠くへ行くことがあれば、
帰ってその顔を見るまでは、
家を出ても帰っても、子のことを思い続ける。

眠るときも、目覚めるときも、
いつも子のことばかりを気にかける。

自分が生きているあいだは、
いつでも子どもの身代わりになりたいと願い、
自分が死んだあとでさえ、
なお子を守りたいと願う。

あぁ、なんとありがたい母の思いだろう。
子はどうしてこの恩に報いることができるのだろう。

無数の人が生きるこの世で、
ただ一人「母」とかしづき、「母」と呼べる人。
その尊いご縁に、深くひれ伏して感謝する。

母が亡くなられようとするとき、
もし泣きながら母を想う声があるなら、
生きているうちにこそ、
慰めの言葉を交わし、微笑みかけてあげなさい。

母が息を引き取るその瞬間、
祈るように手を合わせるのなら、
生きているうちに、
そっと肩に手を置き、心を込めて揉みさすってあげなさい。

(このあと余白に「お母さん、お母さん……」と24回繰り返し記載されていた)


──そして、ここまで読んでくれたあなたへ。

あなたは、この遺書を読んでどう感じましたか?

人によって浮かぶ顔も、
思い出す声も、
胸に刺さる何かも違うと思う。

でも、
立山英夫という一人の青年が最後に遺した想いは、
きっとあなたの何かにも触れたはず。

静かなところで、
ほんの少しだけ、自分の中の“誰か”を思い出してみてください。


書き手について・プロフィール

  • 1981年若干16歳で美容業界に足を踏み入れる

  • 1990年、大阪府八尾市にて独立し美容室を開業。

  • 1996年、大阪八尾市の店舗は譲渡。

  • 1997年、大阪府藤井寺市にて再び美容室を開業。

  • 1999年、大阪で最初の「縮毛矯正専門店 矯正屋」をスタート。

大阪で一番最初の縮毛矯正専門店「矯正屋(きょうせいや)」を藤井寺市で営んでいます。

縮毛矯正専門の美容室は当時は存在せず、「絶対に失敗する」と散々言われました。
しかし、諦めずに挑戦を続けた結果、のべ15,000件以上の施術を行い、誰もいなかった領域で自分の道を切り開きました


矯正屋(きょうせいや)

〒583-0024 大阪府藤井寺市藤井寺1丁目21−8
電話番号: 072-931-2515

公式サイトでは美容に関する記事を書いていますので興味がある方はご覧になってください。

矯正屋公式サイト

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