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教育に「安全策」を求めすぎていないか - すべての道を残すことより、道を作り直せる力を育てるということ

子どもの教育を考えると、親はどうしても「安全策」を求めたくなります。

  • 日本でも生きていけるようにしておきたい。

  • 海外にも出られるようにしておきたい。

  • 日本語も英語も、できれば高い水準で残したい。

  • 国内進学にも海外進学にも対応できるようにしたい。

  • 途中で子どもの興味が変わっても、困らないようにしておきたい。

その気持ちは、とてもよく分かります。

  • 子どもの将来は分からない。

  • 何に興味を持つかも分からない。

  • どの国で学び、どの国で働きたいと思うかも分からない。

だから親としては、できるだけ多くの選択肢を残しておきたいと思います。

ただ最近、この発想自体に少し無理があるのではないかと感じるようになりました。
なぜなら、教育は全方向に保険をかけられるほど軽くないからです。

「逃げ道がある教育」は理想としては美しい

最近、「撤退できる教育」や「学び直せる教育」という言葉をよく見かけます。

この考え方自体は、とても大事だと思います。

  • 一度選んだ学校や進路に合わなければ、方向転換できる。

  • 子どもが苦しんでいるなら、親のプライドよりも子どもの状態を優先する。

  • 一度の選択で人生が決まるような教育ではなく、あとからやり直せる余地を残す。

これは、とても健全な考え方です。

親が選んだ道に子どもを縛りつける必要はありません。
子どもの特性や興味は変わります。
環境との相性も、実際に入ってみないと分からない部分があります。

だから、撤退できること。
学び直せること。
親が一度決めた方針に固執しすぎないこと。

これは間違いなく大切です。

ただ、ここで難しいのは、
「撤退できる教育」と「実際に撤退しやすい教育」は違う
ということです。

すべての進路に保険をかけることはできない

たとえば、日本の義務教育にずっと乗っていた子が、高校生になって突然「海外大学に行きたい」と言い出したとします。

もちろん、不可能ではありません。
本人が本気で英語を学び直し、必要な準備を重ねれば、道は開けるかもしれません。

ただ、英語がほとんどできない状態から海外大学を目指すのは、相当厳しいはずです。
英語の読解、論述、授業理解、試験、出願書類、面接。
どれも短期間でどうにかなるものではありません。

逆に、英語優位で育ってきた子が、あとから日本の制度に深く入ろうとすれば、今度は日本語の読み書きや制度理解が壁になるかもしれません。

つまり、どのルートにもあとから簡単に移れるわけではありません。

教育における「逃げ道」は、完全な選択肢保存ではないのです。

  • 日本語も英語も高いCALPまで持っていく。

  • 国内進学にも海外進学にも対応する。

  • 理系にも文系にも対応する。

  • スポーツや芸術の可能性も残す。

  • 将来どの方向に行きたくなっても困らないようにする。

理想としては分かります。でも、これを本気で全部やろうとすると、子どもの生活はかなり重くなります。

時間も、認知資源も、家庭の運用力も有限です。

すべてに備える教育は、実際にはすべてを中途半端に抱える教育になりかねません。

ただし、日本語を捨てるリスクは軽く見ない

ここで一つ、重要な反論があります。

日本人なら、日本語を捨てるリスクは看過できないのではないか。
この指摘です。

これは、その通りだと思います。

日本語は、単なる教科やスキルではありません。
日本で生活し、制度を理解し、人と信頼関係を築き、家族や文化とつながるための重要な土台です。

将来、日本で進学・就職する可能性を完全に消さないためにも、日本語をゼロにする設計はかなり危うい。

日本語があるからこそ、日本社会に再び深く入る余地が残ります。
日本語があるからこそ、行政、医療、学校、仕事、家族との関係も維持しやすくなります。

だから、日本語を軽く見てよいとは全く思いません。

ただし、ここで考えたいのは、日本語を捨てるかどうかではありません。

日本語をどの水準で残すのか。
そして、どの言語を思考と学びの主戦場にするのか。

この二つを分けて考える必要があるのだと思います。

日本語を生活・制度・再参入の基盤として残すことと、
日本語CALPを最優先で鍛えることは、同じではありません。

英語でCALPを深く育てながら、日本語は日本社会との接続を保つ水準で維持する。
そういう設計もあり得るはずです。

つまり、日本語を軽視するのではなく、日本語の役割を明確にする。
ここが大事なのだと思います。

「あとで学び直せる」は正しい。でも、万能ではない

一方で、私は「あとからでは遅い」とも思っていません。

大人になってから英語を学び直すことはできます。
社会人になってから海外で働きたいと思い、数年かけて準備することもできます。
新しい分野に転向することもできます。

時間はかかります。
苦労もします。
遠回りにもなります。

でも、本人が本気で覚悟を決めて取り組むなら、実現できることはたくさんあります。

だから、「子どものうちに全部決めておかないと詰む」という考え方にも、私は少し違和感があります。

ただし、ここで誤解してはいけないのは、
「学び直せる力があれば、何でも後から簡単に取り返せる」
という話ではないことです。

英語も、数学も、読解力も、書く力も、積み上げには時間がかかります。
大人になってから学び直すことはできますが、当然コストは高い。
仕事や生活と並行して取り戻すのは簡単ではありません。

だからこそ、全方向に保険をかけるのではなく、後から取り返しにくい基盤には早めに投資しておく必要があります。

  • 読む力。

  • 考える力。

  • 調べる力。

  • 書く力。

  • 基礎的な英語力。

  • 数理的な感覚。

  • 学習習慣。

  • 体力やメンタルの土台。

こうした基盤があるからこそ、将来の学び直しが現実の選択肢になるのだと思います。

本当の保険は、選択肢を全部残すことではない

親はつい、外側の選択肢を残そうとします。

  • この学校なら安心。

  • このカリキュラムなら潰しがきく。

  • この言語を残しておけば困らない。

  • この進路ならあとから動きやすい。

もちろん、そうした制度上の選択肢も大切です。
でも、本当の保険はそこだけではないと思います。

本当の保険は、本人があとから学び直せることです。

  • 自分で問いを立てられる。

  • 分からないことを調べられる。

  • 情報を比較できる。

  • 必要な本を読める。

  • 人に聞ける。

  • 考えを言葉にできる。

  • 失敗を振り返って、次の行動に変えられる。

こうした力があれば、子どもは将来、思いがけない方向に進みたくなったときにも、自分で道を作り直せます。

逆に、これらが育っていなければ、親がどれだけ選択肢を残しても、その選択肢を本人が使いこなせないかもしれません。

つまり、教育の本質は、すべての道を残すことではなく、道を作り直せる人間に育てることなのだと思います。

「思考OS」を育てる教育には意味がある

この意味で、IB的な教育が目指している方向性には、かなり本質的な価値があると感じます。

もちろん、IBが万能だと言いたいわけではありません。
学校によって運用の質には差がありますし、探究が浅ければ、単なる調べ学習で終わることもあります。

また、思考OSはIBでなければ育たないものでもありません。
公立校でも、家庭でも、良い先生との出会いでも、質の高い読書でも、深い対話でも育てることはできます。

大事なのは、カリキュラムの名前ではありません。
問いを立て、考え、調べ、表現し、振り返る経験が日常的にあるかどうかです。

その意味で、IBが重視する

  1. 問いを立てる

  2. 仮説を持つ

  3. 調べる

  4. 比較する

  5. 説明する

  6. 振り返る

  7. 次の行動につなげる

という学び方は、将来の不確実性にかなり強い。

子どもが将来どの道に進むかは分かりません。

海外大学に行きたいと言うかもしれない。
日本で働きたいと言うかもしれない。
ITに進むかもしれない。
法学、医療、研究、芸術、起業に関心を持つかもしれない。

そのすべてを親が先回りして用意することはできません。

でも、子ども自身が問いを立て、調べ、考え、学び直せるなら、あとから進路を組み替える余地が生まれます。

これが、いわば思考OSです。

特定の進路に最適化する前に、どの進路でも使える学び方を育てる。
正解が分からない状況で、考え続けられる力を育てる。
自分で道を作り直せる力を育てる。

そこに、教育のかなり本質的な意味があるのではないかと思います。

ただし、基礎学力なしに「問い」は深まらない

もう一つ、反論としてあり得るのは、
「問いを立てる力や思考OSが大事なのは分かる。でも、基礎学力が弱ければ深い探究にはならないのではないか」
という点です。

これはその通りだと思います。

問いを立てるには、前提となる知識が必要です。
考えるには、読む力が必要です。
説明するには、語彙や論理が必要です。
比較するには、複数の情報を扱える力が必要です。

基礎学力がないまま探究だけをやっても、浅い調べ学習で終わる可能性があります。

だから、思考OSを育てることは、基礎を軽視することではありません。
むしろ逆です。

  • 読む。

  • 計算する。

  • 書く。

  • 語彙を増やす。

  • 知識を蓄える。

  • 集中して取り組む。

こうした基礎があるからこそ、問いが深くなります。

つまり、教育の本質は「基礎か探究か」の二択ではなく、基礎を積みながら、その基礎を使って問いを立て、考え、学び直せるようにすることなのだと思います。

親が将来の正解を当てることはできない

  • 子どもが将来どの国で学ぶか。

  • どの言語を主戦場にするか。

  • どの職業に向かうか。

  • どのタイミングで方向転換するか。

親には、完全には分かりません。

だからこそ、親は安全策を求めたくなります。
でも、すべての安全策を積み上げることはできません。

むしろ大事なのは、親が将来の正解を当てようとしすぎないことなのかもしれません。

親にできるのは、未来を確定することではない。
子どもが未来を選び直せるだけの土台を育てることです。

  • 読む力。

  • 考える力。

  • 問いを立てる力。

  • 調べる力。

  • 書く力。

  • 人と議論する力。

  • 自分で学び直す力。

  • 失敗しても立て直す力。

これらは、どの進路に進んでも効きやすい基盤です。

もちろん、これだけで全部が解決するわけではありません。
英語が必要なら英語を学ぶ必要があります。
日本語が必要なら日本語を鍛える必要があります。
数学や専門知識が必要なら、それも積み上げる必要があります。

でも、それらをあとから積み上げられるかどうかを支えるのが、思考OSなのだと思います。

おわりに

教育に安全策を求めたくなる気持ちは、とてもよく分かります。

  • 日本でも困らないようにしたい。

  • 海外にも出られるようにしたい。

  • 日本語も英語も残したい。

  • 途中で進路変更しても困らないようにしたい。

でも、すべての道を完全に残すことはできません。

教育は、全方向に保険をかけられるほど軽くありません。

だからこそ、本当に大事なのは、すべての進路を安全に残すことではなく、子ども自身があとから学び直し、選び直し、道を作り直せるようにすることなのだと思います。

ただし、それは「後から何でも取り返せる」という楽観論ではありません。
学び直しにもコストがあります。
日本語を捨てるリスクも軽く見るべきではありません。
だからこそ、後から取り返しにくい基盤には、早めに投資しておく必要があります。

逃げ道を用意することも大切です。
でも、それ以上に大切なのは、逃げた先でまた学び始められる力です。

「撤退できる教育」、「学び直せる教育」、その言葉を本当に意味あるものにするには、制度や進路の逃げ道だけでは足りません。

本人が、自分で問いを立て、自分で学び直し、自分で道を作り直せること。

教育の本質は、そこにあるのではないかと思います。

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