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3(回想)――『交差する真実』

〈4884文字〉

「ああ、もう! なんで忘れちゃうかなぁ」愛莉は足を踏み鳴らすようにしながら、通学路の真ん中を闊歩していた。内省は、ときに声となって口から漏れ出たが、大通りの広い歩道、運よく近くに人はいなかった。「ちゃんと玄関の靴箱の上に、折りたたみ傘を置いてたのにぃ。そうよ、お母さんがいけないんだわ。自分じゃ聞こえない台所にいるくせに、いちいち呼びつけるから。『いよいよ美容院の予約しなきゃね』なんて知らないわよ。んもう、さんざん言ったのに――参観日は再来週の木曜日だって! あっ、もう降ってきた。今は小振りだからいいけど、帰りどうしよう? ま、いっか、紗弥香に相傘お願いして、送ってもらおう。…………あ~あ、降ってきちゃった。本降りは十時からのはずだったのに。もうっ、降るんだったら最初から降ってほしかったわ。そうしたら傘を持って出たのに。どうせパパもママも傘を持って追いかけてきてはくれないわよね」愛莉は背後を振り返ったが、ろくに見もせず、すぐに向き直った。「バカね、愛莉。来るはずがないじゃない。最初の出がけに、ちょうど天気予報を見ていたお父さんが口を開いて振り返るのと同時に、折りたたみ傘を掲げて見せたばかりなんだから。二人とも、わたしが折りたたみ傘を持って出たと思ってるに決まってる。以前のようにお父さんと一緒に家を出ていたら、きっとこんなことにはならなかったのにな。いつからだろう、わざと時間をずらすようになったの? 小学校低学年までは一緒に出て、点滅信号のある交差点で別れて、高学年に入ってからは呼ばれて一緒に靴をはいたものの、玄関で別れを告げて、自分だけいつもの交差点まで無駄に走るようになった。六年生のときには、もう今と同じ、だいぶ早めに家を出るようになった……。どうしよう、引き返そうかな。昨日のドラマの話がしたくて、いつも以上に早く出たから、間に合うはずだけど――いや、ここまで来たんだもの、多少雨にやられても、行くべきだわ。…………んもう、なによ、あの七三おやじ。うそばっか。もう完全に本降りになってきたじゃないの。登校中のみんな、傘さしてる。さしてないのは、大口を開けて雨水飲もうとしているバカな男子どもと、女子ではわたしだけ……。あ~あ、せっかく整えた髪がまたはねるわ。降るほうも降るほうよ、もうちょっと待っててくれれば、学校に着いたのに! アッ、一層強く振ってきちゃった。今のうそ、神様、ごめんなさい、今のなし……。この辺りじゃあ、顔見知りを待って雨宿りするところもないし、びしょ濡れになるのだけは避けたいなぁ。タオルもないし、この天気じゃいつまでも乾きそうにないから。きっと男子にからかわれるだろうなぁ……」
 愛莉は教科書類を濡らさないため、背中にからっていたカバンを胸に抱え直した。途中から雨が目に入らぬよう、下を向いて早足で歩くようになった。歩道のほぼ真ん中を歩いていたのは、雨に対するあきらめと(なぜならば壁沿いのほうが、若干雨がしのげることを彼女もわかっていたからだ)、そのほうが自転車にせよ歩行者にせよ、向かって来る相手と衝突することもなく、また道を譲りやすいだろうと考えたためだ。だから、寸前まで正面で待ち受けている人物がいることに、愛莉はまったく気がつかなかった。視界が一層暗くなり、ほとんど男の懐に飛び込んだ段階で、ようやく、人と――男性と、真正面からぶつかりそうになったことに愛莉は気づいた。ちょうど早足で歩くことのみ集中して、頭を真っ白にしていた瞬間でもあった。
「アッ、ごめんなさい」
 彼女はあわてて道を譲ろうとしたが、相手も同じように動いたので、前に進めなかった。距離だけが詰まる形となった。そのときになって雨滴が頭を弾かないことに、愛莉は気づいた。彼女は顔を上げた。面前には、背の高い男が壁のようにそびえたっていた。部屋着のような軽装をした、おじさんというにはまだ若い、無精髭のある三十手前の男性で、骨組みのあいだに日焼け跡のある十年選手になろう紺の雨傘をさしていた。その雨傘は今、彼女を覆うように差し出されていた。
 親しみのこもった眼差しが、愛莉に注がれていた。
「これを使いなよ、お嬢さん」
 愛莉はその申し出を理解する以前に、男性の容姿と違和感のある『お嬢さん』という言葉に戸惑いを覚えた。男の立場になって補足しておくと、どうやら彼は、彼女くらいの年頃の少女と、近年めっきり会話したことがなく、読んでいた小説の影響を受け、われ知らずそんな言葉が出てしまったらしい。
 見上げた際、思わずカバンを抱きしめた愛莉の腕の力がわずかに緩んだ。雨の降りしきる傘の中という閉ざされた空間で、無意識に抱いた不安や危惧が、少しだけ解消されたようだ。とはいえ、心を無にして歩いていた愛莉には、それがどういう意味で投げかけられたか、にわかにはわかりえなかった。愛莉は目をみはって男性を見上げた。男性と距離を取りたかったが、ずっと傘を差し出された状態だったので、身を引くにも引けない状況だった。
「あ、あの……」
「いや、すまない。いきなり不審者然としたやつから声をかけられたんで、面食らってるんだね。よかったら、この傘をどうぞお使いよ、と思ってね」
 この男性が愛莉の記憶にないのは明白であった。好き嫌いは別にして、これくらいの年代の女の子は、下は同級生(決して下級生は含まない)から上は婚期にある男性(アイドル・俳優を含む)に限って、一度目にした相手は絶対にその存在を記憶のどこかしらに留めているものだからである。ところで、どうしてもこの距離では、男性を直視し続けることができなかった。
「ど、どこかでお会いしたことが?」
 男にとって、それは思いもよらぬ切り返しだったらしい。
「おれと?」
 それに関してだけは、『他に誰がいるんです?』という目で、愛莉は返事してやった。主に母親に対して、よくやる手だった――学校の話をしているのに相槌ばかりうって、成績の話になると急に『その子、誰?』と問いただしたときなど。
「あはは、いや、ごめんごめん。まったく、全然。きみもそうだろう? もっとも、この辺ですれ違うことくらいあったかもしれないけどね」
 このとき、はからずも二人の心中に去来した想いは、右手と左手のように重なり合っていた――『おれに妹でもいれば、こんなに手間取ることもないだろうに』『わたしにお兄ちゃんがいれば、ここまで当惑しないで済むのに』。
 愛莉は上目づかいに、あらためて男性の全身像を見返した。男性はその傘以外に、何も持っていなかった。サンダルの濡れ具合からしても、ついさっき家を出てきたといった趣である。彼女はいよいよ考え込んでしまった。唯一頭に残った、何かの目的があって、こういう行為に及んでいるわけではなさそうだと思いいたって。
「でも……だったら……」
「まぁ、こんなボロ傘、嫌がる気持ちはわかるけど、濡れるよりましだろう?」
 遠慮は無用であることを強調すべく、男は気安く話しかけた。
「そ、そんなことじゃなく!」愛莉は男の思い違いを訂正するため思わず声を荒らげたが、その一瞬後には、なぜ声を荒らげたのか自分でも不思議に思った。彼女は気恥ずかしさと心ならずも傘への執着心から、下を向いた。やはり現状、喉から手が出るほどに傘が欲しかったのだ。この傘に入ってから、雨はまた勢いを増していた。「……そんなことをして、あなたはどうされるんですか?」
「へ、おれ?」またも思いがけぬ質問に見舞われ、彼は声を裏返らせた。男は口元をほころばせ、無精ひげをさすった。「おれは走って家に帰るよ。大した用もなく家を出たばかりでね。この格好を見れば、わかるかな。家はすぐ近くなんだ。おれは引き返せるけど、きみはどうしても学校に向かわなくちゃいけない。まさかこのまま学校まで送っていくわけにも行かないからね。きみの立場からしても、おれの立場からしてもさ。ともかく、行きと帰りじゃ、傘の有益性が断然異なる。まぁこのじいさん――いや傘だって、もうすぐ寿命だろうけど、最後くらい真に困った人の役に立てることができたほうがうれしいはずさ」
 傘を『じいさん』と呼んだことに目をパチクリさせた愛莉であったが、自分まで話を横道にそらすわけにいかないことくらいは自覚していた。
「だけど、わたし……その、やっぱりあなたを全然知らないわけですし」
 男は少女の慎み深さに敬意を払う一方、その用心深さに閉口した。どう推し量っても、傘が必要な状況にもかかわらず、少女は自らを律し、彼が差し出した傘の柄を一度見たきり、二度と見ようとしなかった。彼は当初、すぐさま少女が受け取ってくれると思い込んでいたのである。
 考えあぐねた結果、彼は話の切り口を変えることにした。
「まいったな。きみだって、あんまり時間がないだろうに……じゃあ、こう思うといい。別にきみが濡れないためじゃなく、教科書やノートを濡らさないために、この傘をあげるんだってさ。知ってるかい? 大人には三大義務ってのがあってね。その一つが、子供に教育を受けさせるって義務なんだ」
 知ってるどころか、つい先日公民の授業で習ったばかりであった。愛莉は言葉を羅列するようにつぶやいた。
「……勤労・納税・教育を受けさせる義務」
 ただし、教育を受けさせる義務は、保護する子女が対象で――つまりは親など養う者に限ったことであることも、愛莉は記憶していた。
「ああ、そうか、きみのほうが詳しいに決まってるな。まぁそういうわけだから、きみが気にすることはない。大人が国民の義務を果たすだけだからね」
 こんなときに、わざわざ細かな差異――『保護する子女』なんて文言を持ち出すほど、空気の読めぬ愛莉ではなかった。相手だって、そのことくらい承知の上で話しているはずだから。
「……名前を、名前を教えていただけますか?」
「おれの? いや、いいよ。そんなの」
 愛莉は下を向いたまま繰り返した。
「教えてください」
 一回りも年齢の違う少女に二度もそう求められては、答えないわけにいかなかった。
「うん……い、市崎っていうけど」
 愛莉はまなじりを決して、市崎を見上げた。
「市崎さん」
 なぜか視線を逸らすことを許さない凄みのようなものを感じて、市崎は気後れしながらも、少女を見つめ返した。
「な、なんだい?」
「この傘は、あなたの言う『大人』からなんかじゃなく、市崎さんからお借りします。わたしに傘を貸していただけますか?」
 身がまえた市崎にしてみれば、拍子抜けしたようなものであった。ずっとそう言い続けてきたのは彼のほうだったから。この男、鈍感につき、突然の承諾と少女の前置きが意味するところを半分も理解できていなかったのだ。
「ああ、うん、どうぞ」
 少女はカバンを背中にからい直し、市崎がずっと差し出したままの傘を、両手でもらい受けた。
 状況が変化したことで、別の感慨が生まれ、愛莉がおもはゆそうに下を向くと、すでに踵からびしょびしょになったサンダル履きの素足が目にとまった。ちなみに、ずっと前から男の背中は、シャツが貼りついたずぶ濡れ状態だった。
 愛莉が見上げると同時に、男が別れを告げた。
「それじゃあ」
 いきなり雨の中に飛び出した市崎に向かって、愛莉は思わず手を差し伸べて、悲痛を思わせる声で思いきり呼びかけた。
「風邪、引かないでくださいね!」
 土砂降りの中でバックステップを踏みながら、市崎も大声を返した。
「へっちゃらさ。よくこんな日に野球の練習をしたもんだ。それから、それ、返さないでいいからな!」
 その場に取り残された愛莉は、傘の内側にある錆びついた受骨に向かって話しかけた。
「おじいさん、わたしね、昨日のドラマの話なんてどうでもよくなっちゃった。これから今のことを友達に話すけど、どうか、容姿と服装に関してちょこっと色付けすることを許してね。わたしの印象は何一つ変わらないんだから」


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