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4――『交差する真実』

〈9121文字〉

 それは魔法としか思えなかった。心を覆っていた暗雲が、一陣の風にさらわれ、一気に取り払われたかのようだった。心の状態はお日様の照る快晴とは言わないまでも、星の瞬く夜だった。その夜と次の朝で、彼は何度鏡を見たかしれない。顎を下げても上げても、斜に構えるように頬骨を片方ずつ突き出してみても、大したことのない十人並みの顔である。痩せていた小学生の頃は、少しだけもてた経験もあるが、それも低学年までだった。高校の頃、それまで日常会話を一度も交わしたことがなかった女子に、「市崎君って、横顔がタレントの誰某に似ているよね」と声をかけられたが、机に頬杖をついた状態で、グループでの話題が途切れたついでに言われただけだった。「そう? あ、こっちを向かないでよ。あ~、ほんとだ~」と、数人の女子が追随したが、その話題は二分と続かなかった。そのタレント――俳優とは、若かりし頃、国民的人気を博し、高視聴率を収めた警察ドラマの一刑事役を務めた伊達男だったが(それとて彼らが生まれる前――つまりその時点でも、中年男の話である)、その当時は丸々と太り、バラエティ番組専門のタレントになり変わった役者であった。しかし、顔そのものは、いまだ端正であることは確かである。ところで、揶揄した彼女たちが、その俳優を二枚目どころか、役者とみなしていたかどうかも怪しいものである。
 話を戻そう。あのとき、恵介も、長田真実から電話番号を教えられたわけだが、とてもじゃないが、彼のほうからかけられなかった。
 『きっと今にも死にそうな顔をしていたんだろうな』家に帰りついたあと、しばらくして彼はこう考えた。『あのときは、同等の兵力だったのに、相手の予期しない戦略で、壊滅的打撃を受けた敗軍の将のように、頭が混乱して、死というものにさえ考えが及ばなかった。もうしばらくあの場にたたずんでいたら、はたと気づき、どういう死に方が無様で、あるいはそうでないか、思い巡らせたに違いない。あの体勢に、この概念が抜け落ちていたのが不思議なくらいだったからな。あの姿そのものが生き恥で、彼女はきっと、おれより早くそのことを察したのだろう。だからこその、あの口づけだった――に違いない。おれは今日、奈落に突き落とされ、泥まみれになって打ちのめされた。にもかかわらず、今はこうして人生を賛美しかけている。しかし、きみは一体どうして……。そういえば、大学生の頃にいたな、どうしようもなくボランティアが好きな女性が。おそらく過去、テストに名前を書き忘れ、単位を取り損ねた彼氏を同じように元気づけたことでもあったんだろう……フン』恵介はベッドに座っていた姿勢から、腕枕をして横になった。うつらうつらしながらも、その口元には笑みが浮かんでいた。「『深く考えないで』か……妖精の世界から来たのかい、きみは?」
 彼女からの贈り物――彼は当然それを非公式に受けとめた。秘した宝石のように、いつか別のガラクタの記憶とともに引っ張り出されたとき、ひそかに楽しむものとして、心の奥底に埋没させた。なぜなら、さすがに妖精と人間とは言わないまでも、今までとは違い、彼女とはもう完全に、住む世界が隔たってしまったのだから……。彼はあの小説に全人生をかけていた。そういっても過言ではなかった。彼女と出会い、その思いは一層強まった。あの小説に未来を託し、過去は捨てる所存だった。そう、勝算があった分、打ちのめされ方もひどかった。つまり、その戦いに敗れた今、その手には何も、何ひとつも残されてはいなかった……。
 何かが鳴っている……けたたましい目覚まし時計ほどではないが、リズムのあるやかましい電子音……それが電話の音と気づいたとき、ベッドの上で寝ていた彼は、ビーチフラッグスのスタートさながらの勢いで跳ね起きた。
 部屋が明るい。目には電気がついたままの蛍光灯が飛び込んできたが、それ以前にカーテンを半分開けたベランダ窓から、燦々とした日光が差しこんでいた。朝になったのだ。昨夜は風呂に入らず、着替えもせず、ベッドに身を投げ出したまま、眠りに落ちてしまったらしい。テーブルで鳴っている携帯電話を取り上げるとともに、恵介は時計で時刻を確認した。カーテンが明けっぱなしだったため、机の上の液晶時計の時刻が読み取れた。それは、ちょうど午前七時になったところであった。正確には九秒過ぎていた。
 彼はろくに相手先の番号も見ずに、通話ボタンを押した。着信音を長々と流しているのは、好まなかったのだ。ことに最近は聞き慣れていなかった。ただし相手が携帯電話からであることくらいは確認した。親からの電話であれば、固定電話からだから、十中八九間違い電話であろうことは、すぐさま憶測が働いた。彼の番号は最後の桁が揃い目になっているため、よく間違い電話がかかってくるのである。ちょっと前まで、震える手で通話ボタンを押すこともあったが、今やその期待もなくなっていた。
「はい、もしもし」
「あっ、市崎さんですか?」
 早くも予想が外れた。しかし、彼はまったく動じなかった。となれば、何かしらの勧誘の電話に決まっている。ついこの前も、いかにも怪しい繁華街の夜の集まりに誘われたばかりだ。当然そのときも若い女性からだった。彼はぞんざいに返した。一瞬ではあるが、会話に神経が向いたことで(予期せぬ起床という理解力に乏しい状態も手を貸し)、彼の頭から朝の七時という時間の感覚が喪失していた。
「はい、そうですけど、おたくさんは?」
「あの、わたし、長田です。長田真実ですけど、わかります?」
 恵介は思わず、電話機を取りこぼしそうになって、片手で左耳に当てていたものを、両手持ちにした上に、わざわざ右耳に当て替えた。
「お、長田さんって、あの●●長田さん?」
 彼女はクスクスと笑った。
「ええ、あの●●長田です。おはようございます」
 彼は無意識に、画面を見るなりして、手に持つ携帯電話が本当に自分のものか、確かめたい衝動に駆られたが、新たな別の強い衝動が、その電話を耳から離すのを許さなかった。
「お、おはよう、ございます……それで、あの、どうしたの、かな?」
「いえ、ちゃんと、お元気になられたかと思いまして――つまりはその、確認です」
「か、『確認』?」
「ええ、市崎さんもするでしょう? 外出前に、忘れ物や失念していることがないかを確かめること」
「うん、する……いや、会社員の頃はしていたけど……」
 恵介が会社勤めの頃は、すべての用意をし終え、靴を履き終えても、すぐに玄関を出ることはせず、その場に立って、部屋を見返しながら、必ず一分間は、昨日の仕事と今日の予定を振り返ったものである。むろん、今に関していえば、そんなことに一分どころか一秒とかける必要性もなかったが。
「お元気そうでよかったです。昨日は別れたあとも、ちょっと、その、変な気を起こされないかと心配になっていましたので」
「ありがとう」恵介は心より感謝を述べた、眠る間際の取りとめのない想念が頭に蘇ったので。「あのとき、きみがいなけりゃあ、今だって本当にどうしていたことやら」
「あのう……」真実は決意を固めたように呼びかけた。「市崎さん。一つご相談があるんですけど」
「うん、なんだい? おれにできることだったら、なんでもするけど」
「今夜、ご予定あります?」
「いや、ないよ。昨日を機に、今のところ永遠に予定はなくなっちまったからね、はは」
「あの、よかったら……モツ鍋、食べません?」
「ヘッ?」予期せぬワードに、恵介は声を裏返らせ、聞き返した。「モ、モツ鍋?」
「実はわたし、常々食べたいと思っていたんですけど、さすがに一人じゃ食べに行けなくて」
「か、構わないけど……でも――」
 彼がつぶやきかけた言葉は、彼女の歓喜の声にかき消された。
「よかった! わたし、一度でいいから食べてみたかったんです。ついでにもう一つ、市崎さん、おいしいモツ鍋が食べられるお店、ご存じありません?」
 彼は会社員時代、上司に連れて行ってもらった店を紹介した。彼はそれがどの辺りにあるかを伝え、何時にどこで合流するかが決まり、すべてはベルトコンベアーに乗せられたように進んだ。箱詰めにされ、結束バンドをかけられ、倉庫に収められて、しばらくして、電話が切れていることに気づいた恵介だった。

「シメのチャンポン麺まで、すごくおいしかったです。何より驚いたのは、市崎さんの食べっぷりですけど。最初こそ体調悪いのかなと思っていましたら、急に食欲旺盛に食べ始めるんですもの。ご気分よくなりました? 駅まで送っていただきありがとうございます。ところで、市崎さん、今週末のどちらか、午後空いていませんか? あの、わたし最近テレビCMで気になっている映画がありまして。これもその、なかなか一人では観に行きづらいものでして。もしよろしければですけど、一緒に観に行っていただけませんか?」

「まさかの犯人でしたね。市崎さん、気づいていました? ふ~ん、本当かしら? ウフフ、ごめんなさい、言ってみただけです。実はわたし、知ってたんです、犯人が誰か。だって、公開の次の日には、ネットでその情報が出回ってたんですもの。見たくもないのに、目に入っちゃいましたから。いいえ、つまらないことなかったですよ。知っていたぶん、種明かしを見るように面白く観させてもらいましたから。それに、市崎さんが犯人を見抜いていたこともわかっていました。正体が明かされたとき、ニヤリとした横顔をチラリと見させてもらいましたから。それだって、犯人を知っていたからこそです。アッ……その、余計なことを言いました……。もしかして、市崎さんも、そんなような小説をお書きになっているのですか? 『ジャンルで言えば、おそらく違う』ってことでしたら、ちょっとはそういう要素があるんですね。いつか読ませてもらいたいな。『血の滴るホラー小説かもしれない?』望むところですよ。それだとしても、きっと書く人の人柄がでないはずがないですから。アッ……じゃあ、今日はここで結構ですから。また、電話します。さようなら」

「こんばんは、長田です。こんな時間にごめんなさい。かけてすぐ、十一時を過ぎていたことに気づいて。すぐに切ってしまうと、折り返しの電話を求めるみたいで、申し訳なくて。わたし、帰ってきてからも、なんかバタバタしちゃって、さっきお風呂から上がったばかりなんです。起きてました?――って愚問ですよね。今日、楽しかったです。ありがとうございました。あのあと、友達と夕食を共にして、市崎さんのことも話したんですよ。『早めにサインをもらっておいたほうがいいかしら』ですって。えっ? もちろん女の子ですよ。高校の頃からの付き合いなんです。翼っていう、男みたいな名前ですけど。ところで、市崎さん、観たかった映画が他にあったんじゃありませんか? だってチケット売り場で『……コレ? コレが観たかったの?』って、当てが外れたような、残念そうな顔してらしたじゃないですか。ならいいんですけど。……本当は、ご迷惑だったんじゃありませんか。わたしから誘っておいて、結局モツ鍋のときと同様、割り勘になってしまいましたし。――本当に! わたし、いつも自分勝手で、今日も翼に『相手の都合も考えなきゃ駄目よ。あんた接客の仕事をしているんでしょ』って怒られたところなんです。あの……電話、かけてくださって構いませんから。それじゃあ、おやすみなさい」

「やっとかけてくれましたね。こんばんは。だって登録してますから、当然わかりますよ。本当? だとしたら、わたしもうれしいです。今日こそ、どう謝ろうか考えていたくらいなんですよ。『空港に行ってみません?』なんて、よくよく考えたら、おかしな要望ですもの。吹きっさらしの、轟音鳴り響く展望デッキで、一時間ものあいだ、旅客機が離着陸する姿を、柵越しに見ていただけですから。市崎さんが退屈そうになさらなかったのが、唯一の救いで。わたし、飛行機が飛び立つ姿が好きで、何度か搭乗する機会もありましたけど、やっぱりその姿を外側から見ているほうが好きで――って、この話、あそこのレストランでもしましたよね。でも、その途中で、市崎さんがこれまで一度も飛行機に乗られたことがないのを知ったときは驚きました。これからは東京に向かうため、イヤというほど乗らなくちゃならなくなりますよ、きっと。またも自分勝手にお誘いしたことを反省しましたけど、『耳をつんざき、地響きを起こす大迫力――飛行機が飛ぶということがどんなことか、この場所に来て初めて知ったよ』と言ってもらえたときは、うれしかったです。あんなにやかましいのに、わたし、あそこに立つと不思議と心が洗われるような気がするんです。これはお笑い草なんですけど、半年くらい前に思い立って、初めて一人であそこに行ったとき、そこでどのくらい経ったか覚えていませんけど、ふいに係員さんに声をかけられたんです――『何かあったんですか? 相談に乗りましょうか?』って。カメラか双眼鏡でも持っていればよかったんですけど、わたしはあの場の空気感を味わいたいだけだったから、まったくの手ぶらだったんです。おかしいでしょう? エエッ、『新たなものを書く気力が出た』んですか。うれしい! ぜひ頑張ってください。わたしのおかげ? とんでもありません。そんな『埋め合わせ』だなんて。『今度の土曜日』、『午前九時』、『マリンワールド』ですね。わかりました。いえ、行ったことはありません。はい、では、楽しみにしています」

 なぜ『マリンワールド』を選んだかといえば、恵介はそこしか、行楽地として思い浮かぶ場所がなかったためであった。実のところ、そこは一度訪れたことのある、いわば経験済みの場所でもあった。埋め合わせに誘う――恩返しに接待するには、必須の条件といえよう。とはいえ、訪れたのは、かれこれ十年以上も前の話であった。彼が高校二年生のとき、自分たちの男子グループが、修学旅行先で親しくなった同じ高校の女子グループを誘って、集団デートを敢行した場所だった。グループはイベント開催時間に合流することを条件にペアを形成するようになり、当時イガグリ頭だった彼の前にも、気づけばおさげ髪でうつむきがちな女子が留まることとなった。お互い居残り組だった……と、その先は、またの機会にということにして――、ともかく、電車を降りた段階で、恵介が気づいたのは、『マリンワールド』は、これまでと異なり、明らかなデートスポットだということで、見渡すかぎりがカップルもしくは家族連れであった。はからずも彼は、長田真実をデートに誘ったことになってしまったのだった。
 しかし、真実はつゆとためらうことなく、他のカップルと一緒になって、展示会場で珍しい海の生き物の説明を聞いたり、パノラマやトンネルの巨大水槽をはしゃぎながら見渡したり、アシカやイルカのショーといったものまで、ほとんどデート形式で楽しんだ。イルカが水しぶきを飛ばしたときなど、恵介の腕にすがりついて、しばらくは腕を組みっぱなしだった。恵介が感じるかぎり、彼女はなんら警戒心を抱くことなく、心から楽しんでくれたようだった。
 恵介が先導する形でメイン施設のスタート地点からテーマごとに区切られたコースを巡り、ゴールが近くなったときである。あるいは心理効果として、最後にそういう演出もあったのかもしれない。進路が突然、海底洞窟を思わせるエメラルド色の、幅が狭く細長い通路になり、周囲に人気が途絶え、騒ぎ声も聞こえなくなった。聞こえるのは、安らぎを感じる気泡が浮かび上がる音だけである。
 横並びで、歩みがまったく同じになった刹那であった。恵介の左手が真実の右手に触れた。『もう耐えられなくなった』との表現が正しいのかもしれない。恵介はそのときのことを今でも、いや生涯忘れることなく覚えているだろう。次の瞬間、天井の照明がカーテンのように降り注ぐさまを見上げていた真実は、まるで電気でも走ったかのように、壁側に飛び退き、触れられた右手は胸の中央に引き込まれると、すかさず左手が覆った。まるで、蛇がいると教えられた場所で、得体のしれない何かに触れたときのようだった。あんなに楽しそうだった彼女の表情が、一変、無表情に凍りつき、顔は斜め下を向き、場所柄真っ暗になった。
 恵介はサッとその場から身を引くと――背中が壁にぶつかった――、思わず両手を上げて謝った。
「ご、ごめん!」言い訳はしなかった。すべてを認めた上での謝罪だった。「今日は、そんなんじゃないのにね。ごめん」
 どちらかと言えば、立場を明白にしてくれたことへの感謝すらあった――『馬鹿野郎。おまえってやつは。あれほど住む世界が違うと言ったろうに! 何だと? 〈これまで、一緒に出かけたり、食事をしたから、そろそろ……〉だとう? それが何だって言うんだ。すべては、おまえを励ますためにやってくれてることくらい、おまえだってわかっていたろうに。現におまえは、彼女をヒロインのモデルとして新たな小説の構想を練り始めたじゃないか。それをなんだ、今度は逆手にとって、デートになんか誘いやがって。〈そんなつもりはなかった……〉だと? 言い訳するんじゃねぇよ。それこそ彼女のセリフだ!』。
 猛省を促す、そんな声が聞こえた。うつむく顔を上げると、相手もバツが悪そうに上目遣いで彼を見つめていた。
「わたしのほうこそ、ごめんなさい。これは、市崎さん、いえ、恵介さんが言う意味の『ごめんなさい』じゃないの」彼女はゆっくりと通路を横断し、彼と靴先がぶつかるくらいの場所に立った。必然彼女の顔は上を向いた。「驚かせたことへのごめんなさい。わたし、こう見えて怖がりなんですよ。今後もちゃんと覚えておいてくださいね」
 真実の両手が恵介の左手を包み込み、右手と左手の指同士がしっかり組み合わされた。余った手が離れると、一本につながった腕が引っ張られた。
「ほら、もう出口はそこですよ。さ、行きましょう。早く出ないと、窒息するかもしれませんよ!」

 もうひと駅先に彼女の家はあるのだが、真実はわざわざ駅を出てまで、見送ってくれた。駅前だが、マンション街の細い道をちょっと入っただけで、人通りはなくなった。先導していた彼女が、靴を揃えて振り返った。
「この辺りでいいですよね。今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「う、うん」
「もちろん、電話くれますよね。あ、今夜はわたしからおかけしますから」
「あ、あのさ……」
「どうしたんです? 帰りの車中もずっと考えごとされてるみたいでしたけど」
「回りくどい言い方が苦手だから、正直に言うよ。おれ、今日で、きみと一旦サヨナラしようと思っていたんだ。それがきみのためであり、おれのためでもあると信じていたから。慈悲深い神様より遣わされた天使としての、きみの役目は終わった。これ以上、きみを自分だけのために束縛してはならないってね。しかし、そんなおれの信念はきみの笑顔ひとつで、もろくも崩れ去った……。きみを忘れることなんてできない――そのことを今日になって思い知らされた。そしたら、そうしたら、きみも天には帰らず、居残ってあげると言ってくれた。しかし、それはそれとして、どうしてもわからないことがあるんだ。どうか、今ここで、それだけは教えてほしい。なんで……なんで、おれなんかに、こんなに優しくしてくれるんだい? おれにはもう何もないんだよ」
「『何もない』? 恵介さん、あなたには輝ける未来があるじゃないですか。それにわたしが天使だなんて――」
 恵介は話を逸らすまいと、前のめりになって真実に迫った。
「その未来だって、全然保証されたものじゃない。なんなら宝くじを買うようなものなんだよ。それに……おれをよく見ろよ、長田さん。きみのような美人と釣り合いのとれるような男じゃない」
「……じゃあ、わたしも、正直に言います。だって、ほうっておけないじゃないですか。ふふふ、笑ってごめんなさい。わたし、あなたみたいな性格や容姿の人、好きですよ。わたし、チビだし、恵介さんみたいな背の高い人には、ずっと憧れを抱いていたくらいですから」
「ほんとうに?」
「本当です!」
「でも、あの海底洞窟のところで――」
「ねぇ恵介さん。手を握るって、女にとっては一大事なんですよ。大切なことを承諾した証でもあるんですから。もう、その瞬間から友達としての関係ではなくなるんですからね」
「……『友達でなくなる』……長田さん、怒らないで聞いてほしい。おれ、きみの呼び方替えるべきかな?」
「ウフフ、替えるべきでしょうね」
「ま、真実さん」
「なぁに、恵介さん?」
「おれは――ぼくは、絶対にうそはつかない。だから、きみも正直に何でも打ち明けてほしい。苗字で呼びたくなったら、苗字で呼んでかまわない」
「ねぇ恵介さん。実は、わたしも今日ずっと聞きたいことがあったの」
「な、なんだろう?」
「どうして、恵介さんは、施設の複雑なコースやトイレの場所まで熟知してるのかなーってこと」
「あ、あの、それは、高校時代に同学年のグ、グループ同士で一緒に来たことがあって。ショーの空き時間だけ強制的にカ、カップルを作らされて。一人の女子生徒と親しくなったんだけど。な、なにするわけでもなく五日後には振られちゃって。それ以降は女性と付き合った経験もなく。だから……」
「ププッ、本当に正直なんですね」
「そうなんだ。まったく、自分が呪いたくなるよ、バカ正直をね」
「呪う必要なんてありませんよ。わたし、今日聞いた天使って言葉、わすれません。案外、堕天使じゃなきゃいいんですけど」
 恵介は声を上ずらせてまで、これまでのことを含める形で、彼女を擁護した。
「そ、そんなことはない! 真実さん、今のきみはぼくにとって天使以外のなにものでもない。それだけで十分だよ」
「うれしい。うれしけど、今のは、恵介さんが褒めすぎるから、言ってみたまで、だったりします」
「アッ……ごめん……」
「じゃあ――わたし、帰りますね」
「うん……」
「さようなら」
「さようなら……あっ、あの」
「エッ、なんですか?」
「い、いや、何でもないんだ。そ、そうだ、少し、いや、だいぶ早いけど、おやすみ。あ、いや、まだ寝ないで……電話待ってる」
「はい。必ずします」


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