5――『交差する真実』
〈14425文字〉
家に帰りつくと、恵介はスリープさせていたパソコンを起動させ、一分で部屋着に着替えるや、すぐさま机に向かった。『にやけるのは就寝前でいい』――帰り道、そう決めたのだった――『おれにはこれしかないんだから』。シナリオはできあがっているのだが、何かが足りない。どうしても物語が浮薄に思えるのだった。登場人物の足音が、彼にはまだ聞こえてこないのだった。
画面と三十分にらめっこし、あきらめてベッドに身を投げ出した。枕をはしっこに払いのけ、両手を頭の下に組んで、遠い目で天井を見つめながら、彼はつぶやいた。
「『きみには文学の才能がある』――本当かよ、柊一」
中学二年のこと。恵介は部活の練習中に、右足の付け根に違和感を覚え、翌朝を迎えると、パンパンに膨れたコブができあがっていた。歩けないほどのことはなかったのだが、心配した母親がわざわざ総合病院に連絡を入れ、症状を伝え、予約をし、担当医の診察を受けたところ、リンパ節が腫れているとのことで、短期の入院をすることになった。原因はストレスだった。前回の試合で凡打が続き、監督にレギュラー落ちを告げられ、三日経っての発病だった。さすがに、責任を感じたのだろう。監督より『野球のことはいっさい忘れろ』とのお達しがあった。野球漬けだったこともあり、部活仲間以外となると、労を惜しんで見舞いに来てくれる友人など一人もいなかった。
三人部屋の真ん中が、恵介のベッドだった。イヤホンを音漏れさせながらテレビばかり見ている腰椎コルセットを巻いたじいさんと、足を折った青年だったが、新婚らしく毎日のように新妻が来て、いちゃついていた。そんな部屋に多感な少年がじっとしていられるはずがなかった。注射の投与で腫れが引いたため、看護師の『安静にしていなさいね』の指示も聞かず、恵介は暇を持て余し、病院内を歩き回った。
小児病室にある貸し出し自由の漫画を自分の階に持ち込み、階段そばの長椅子に寝転んで読んでいたときであった。スロープを登るのに苦労している車椅子の少年を見かけた。恵介は、その少年が自分と同世代に思えたので、見栄もあり、しばらく無視を決め込んでいたが、亀にも追い抜かれそうなスピードで、しかもここは病棟でも人気のない離れに位置していたこともあり(だからこそ恵介はこの場所を選んだのであるが)通りがかる人もおらず、仕方なく漫画を開いたまま伏せて、少年のそばに行き、声をかけた。
「ちぇっ、どこに行くんだよ」
「う、うん。二○二号室まで戻る途中なんだ」
「じゃあ、押してやるよ」
「ありがとう」
「ったく、何やってたんだよ、こんなところで」
「車椅子に慣れようと練習してたんだけど」
「道を間違えたのか?」
「いや、間違えたのは車椅子のほうなんだ」
「は? だってこれ病院のだろ」
「うん」
「じゃあ、間違えようなんてないじゃんか」
「きみ、知らないんだね。車椅子には、自走用と介助用とがあるんだよ」
「ふ~ん」
「重心の位置が違って、自走用は手前側、介助用は後ろ側に重心があるんだ」
「へ~ん」
「それで今乗ってるのが、介助用だったんで、リムが回しにくかったんだよ」
「ほ~ん……で、さっき、おれのことを『きみ』って言ったよな。そんなきみこそ、年はいくつなんだい?」
「ははぁ~ん」車椅子の少年は、恵介の調子をまねて言った。「結構根に持つタイプなんだね、市崎恵介君は」
「なんで知ってんだよ、おれの名前!」
「ほ、ほら、壁! お願いだから、下りで持ち手を離さないでよ」
「悪い、悪い。で、なんで、知ってやがんだ?」
「『お行儀が悪い、同級生が入院してるわよ』って知り合いの看護師さんが教えてくれてね。この前、ネームプレートで名前を確認したんだ」
「ちぇっ、あの小うるさいネェちゃんだな。彼氏がいないもんだから、おれの部屋に来るとピリピリしてやがるんだ。それよか、おまえ、同学年なんだ。どこチュウ?」
「古小烏中学校」
「フルコガラス? どこだよ、それ?」
「新しい学校でね、郊外にあるんだ。だから今は、院内教室にお世話になってる」
「へぇ、よくは知らないけど、なんだかんだ大変だな。さっさとよくなしちまえよ。それよか、えらく奥まった場所だな、二〇二って。さぁ着いたぜ、小笹……これなんて読むんだ?」
「シュウイチだよ」
「さぁ、着いたぜ、小笹柊一君よ。あっ、いいな、個室かよ」
「誰もいないから、中に入りなよ」
「んじゃ、ま、おじゃまするぜい」
「どうぞ、なんにもない部屋だけど」
「ちぇっ、ホントに漫画の一冊もねぇじゃねぇかよ。あっ、本、めっけ――って、これ、小説じゃねぇか」
「面白いよ。夜が明けるまでに、殺人罪で捕まった恋人の無実を証明しなければならない話なんだ」
「おれは、暇つぶし同然の三流高校野球部に、利き手を怪我して、選手生命が絶たれたと思われた中学時代全国制覇した野球部のキャプテンだった生徒が入部し、一から選手として奮闘しながら、野球部全体が強くなっていくさまを描いた漫画が好きだね」
「確かに、面白そうだね。ところで、もしかして、市崎君は野球部なのかな?」
恵介はイガグリ頭を自慢げに撫で回した。
「もちさ」
「じゃあ、その練習中に、怪我したんだね、かばっている右足」
「まぁ、そういうことだな。おうっと、そろそろ、帰るとするかな。回診の時間だ。先生がそばに居やがるときだけ、真面目くさった顔しやがるんだぜ、あのネェちゃん」
柊一はクスッと笑った。
「きみたち案外気が合うのかもしれないね。『その子、先生がいるときだけ、いい子ぶるんだから』って相手も言ってたよ」
「ちぇっ」
「また来るといいよ、市崎君」
「いいのかよ、毎日のように来るぜ。おれ、暇だからな」
「かまわないよ、ぼくもどうせ暇だから」
「んじゃ、また来るぜ、小笹柊一」
次の日、柊一の病室――。
「んでよ、おれがバスター決めたら、相手は度肝抜かれて、ランニングホームランになりかけたんだぜ」
「すごいな、市崎君はいつから野球を始めたの?」
「小学四年からさ。といっても小学校の部活じゃなく、校区にあるチームに入ることになったのがきっかけなんだ」
「ぼくもね、ちょうどその時期からテニスを始めて……ずっとやってたんだよ」
「ふ~ん、そうだったのかよ。そんじゃ、おれと一緒、やりたくてうずうずしてるだろ」
「うん……」
「ところでよ、オホン、そのテニスに関して一つ聞きたいんだが、女子のはいてるアンダースコ――」
「ア、ごめん、誰か来たみたいだ。どうぞ。なぁんだ、麻美か」
ノックがあり、重そうに両手でドアを開けながら一人の少女が入ってきた。
「お着替え持ってきた。……誰、この人?」
「お兄ちゃんのお友達さ。ちゃんと挨拶なさい」
「……こんにちは」
「お、おう、こんちは」
「……あたし、お母さんとこ行くね。また来る」
少女は紙袋をベッドの脇に置くと、すぐさま出て行った。
「すまない、人見知りでね」
「まさか、お母さんも入院してるのか?」
「ハハ、それこそまさかだよ。一緒に車で来たんだよ。きっとアイツだけ先に降りたんだ」
「そうか、家から遠いんだもんな。おれなんかチャリで来られる距離なのに、誰も見舞いに来やしねぇ。親も共働きだから、必ず来るのは週末のどっちかだけさ。んじゃ、つまんない部屋に帰るとすっかな」
「居てくれても構わないよ」
「いや、帰る。そして、また来る」
「あ、そうそう、さっきの質問って何だったの?」
「な、なかったことにしてくれ」
「よう、今日はいたな」
「ごめん、言っておけばよかったね。昨日は検査だったんだ」
「おかげで昨日は、暇でしかたなかったぜ。隣のカップルが『何やってる、早く出て行け』って視線を送るから、やることもないのに『ここがおれの居場所だ』って居座ってやったよ。で、今、何してたんだ、窓を見上げて?」
「うん、雲を見てたんだ」
「クモ? 蜘蛛の巣でもあるのか?」
「いや、水蒸気が固まったほうの雲だよ」
「ああ、空に浮かんでるやつな。どれ? 一緒に見てやる」恵介は目線を合わせるため、自分の顔を柊一の真横につけて、一緒に窓越しの空を見上げた。「なぁんだ普通じゃねぇか。な、なんだよ。風呂に入ってないから、臭うか? ちゃんと濡らしたタオルで拭いてるんだけどな」
恵介とは違い、たとえば、男子同士で円陣を組むなどしたことがない柊一は、含羞の色を浮かべ、思わず下を向いた。
「い、いや、そんなんじゃないから。それより、ほら、あそこのビルの避雷針の上にある雲だけどさ、下側だけ猛スピードで流れて、さながら走る雪だるまのようだね」
「違うな、あれはしょげかえった猿さ。うつむき加減と、尻尾の垂れ下がり具合からしてな。尾の長さからいって、子猿だろう。あんまり甘えるんで母親に叱られたのさ」
「! ほ、本当だ。じゃあ、その左隣の伸びあがった雲だけど、あれは間違いなくしゃちほこだよね」
「ふ~ん、それでいいのか?」
「だって、それ以外にないよ。ぼく、名古屋城で実物大のレプリカを間近に見たことがあるもの。胸ビレのところなんてそっくりだ」
「残念。あれはな、上から紙を入れるタイプの古いファックスさ。待て待て、真横から見るんじゃなく、ちょっと斜めに見るんだ、ファックスをな」
「ウッ……じゃ、じゃあ、残月の下にあるのは?」
「あれは、簡単。二塁手のジャンピングスローさ。ショートじゃないぜ、首の向きが違うからな。セカンドベースよりの速いゴロだが、シフトで読んでたんだろう。足がしなやかに伸びているところを見ると、タイミングはアウトだな」
柊一は真理を喝破したように叫んだ。
「市崎君、きみには文学の才能がある!」
「てへへ、まぁな。それよか、その『市崎君』っての、そろそろやめよーぜ。おれたち同学年なんだしな」
「う、うん。……ア、でも、まだやめておくよ。だって、さっきの言葉、お世辞みたいに思われたらイヤだから」
「へん、なに言ってやがる。おれは前々から小説家になろうと思ってたんだ。もっとも球界を華々しく引退してからな」
「ほんとうかい?」
「ああ、マジさ」
「じゃあ、今から呼んでいいかな、きみのこと――恵介君って」
「だからぁ、君付けするなって」
「そ、そういやさ、柊一の妹って、いくつなの?」
「麻美? え~と小四だから十歳かな」
「へ~、その……か、かわいいよな」
「そうかな。ああ見えて、すごいお転婆なんだぜ。変わったのは、ぼくが入院してからなんだよ。それまで大変だったんだから。近所のガキ大将も真っ青のお嬢様ぶりでね。むろん、育ちはお嬢様じゃないが」
「か、勘違いするなよ。おれがガキが好きとかそういうんじゃないぜ。ただ単に――」
「なんなら、恵介があいつを嫁にもらってくれるかい?」
「バ、バカ、なにを言いやがる! おれは、その――」
「ハハ、赤くなった。赤くなった。……でも、ぼくが知らない人より、知ってた人のほうがいいな」
「はぁ? なに言ってやがる。誰だって結婚する相手は、事前に兄貴に紹介するもんさ」
「そうだね――なんて噂してたら本人が現れたよ。ア、ほら、行くなよ、恵介」
「そんじゃな、柊一。おれは忙しい身の上なんだ。そ、それじゃあね、あ、麻美ちゃん」
「サヨナラ。ねぇお兄ちゃん、見て見て、テストで百点とったのよ」
恵介はその嬉々とした声を背中に浴びながら、病室を出た。
「ああ、すごいな。でも、麻美、挨拶はなおざりにしてはいけないよ」
「だって……だって、あたし、あの人、嫌いだもん」
「どうしてだい?」
「せっかくのお兄ちゃんとの時間を邪魔するし。それに、坊主頭で、おデブだし、お兄ちゃんとは見た目も性格も正反対だから」
「簡単に好き嫌いを判断するのは、愚かな人間のすることだよ。ほら、突っ立ってないで、こっちにおいで、麻美。恵介はね、いいやつだよ、ぼくなんかよりよっぽど純粋だしね。どれ、どの教科で百点をとったんだい、見せてごらん」
このときまでわずかに開いていた病室の引き戸が、音もなく閉まり、悄然とした音を立てながらスリッパが離れていった。
「それにね、あたし、お兄ちゃんの友達、みんな嫌い。最初は担任の先生がクラス全員ひきつれて見舞いに来てくれたのに、そのうち親しい友人だけになり、クラブ仲間だけになり、学年が上がると、もう誰も来なくなった……。あんなにお兄ちゃん、人気者だったのに……。バレンタインのチョコだって、いっぱいもらったのに……うっうっ」
「……みんな、塾やなんやで忙しんだよ、私学なんだから。そういえば、あのとき、麻美、トリュフチョコを立て続けに食べて、鼻血出したよな。原因を問い詰められて、お母さんに大目玉食らったっけ」
「んもう、ヤなことなのに、ぐすん、覚えてるんだから。……ねぇ、お兄ちゃん」
「なんだい?」
「どうして、その眼鏡いっつもかけるようになったの? 前は本を読んだり、テレビを見たりしたときだけだったじゃない」
「麻美の顔をちゃんと見ておきたくてね。父さんも、母さんも、多賀先生も、看護師さんも、恵介も、みんなの顔をさ。それとも、この眼鏡、似合ってないかい? 目立たないように縁なしにしたんだけどなぁ」
「ううん、そんなことない。よく似合ってる、けど……」
「じゃあ、麻美と二人だけのときは外すようにしよう。ただし、今みたいに近くにきて、ちゃんと顔を見せてくれよ」
「うん!」
「柊一、その、おれ――」
「おめでとう、退院が明日に決まったんだってね」
「そ、そうなんだ……。つったく、がっかりだよ。隣のじじいのいびきこそうるさいが、まぁまぁのリゾート気分だったのによ。練習と宿題が待ち受ける、あの地獄の日々に舞い戻らなけりゃならないんだからな」
「そこが本当の居場所なんだから仕方ないよ。でも、いきなり無理はさせないんじゃないの、きみの言う鬼監督だけど」
「柊一、おまえはやつの恐ろしさを知らないんだ。あいつは、隠れたものの、くしゃみして居場所が見つかり、殺されたっていう落ち武者の生まれ変わりさ」
「な、なんだいそれ?」
「おれもよくわからないが、とにかく、この世におそろしく恨みを持ったやつなんだ。玉拾いや草むしり、ボール磨きなんて、行ったその日に平然とやらせるだろうな、この八日で三キロ落ちた病み上がりに」
「だ、だけど、もう少し特別扱いしてくれるんじゃないの。恵介はレギュラーなんだし」
「ん? あ、ああ――」
「アッ、ごめん、勝手にそう思っちゃって。そ、そうだよね、ぼくたちまだ二年なんだし」
「お、おれが未来の松井秀喜――いや、松井二世って呼ばれているのを知らないな。三年生を差し置いて、四番打つこともあるんだぜ。守備はセンター。でっかいやつは内野に不向きっていう、やつの浅はかな申し付けでね」
実際は、八番ないし九番バッターで、守備はライト、せっかくたどり着いたレギュラーの座も二試合を経て、降格となっていた。
「あ、あのさ、きみも負けず劣らぬ鬼球児だよ。それはそうと、レギュラーだとは思っていたけど、そこまでとは思わなかったよ。麻美にも『恵介はすごい選手なんだよ』って教えてはいたんだよ」
「お、おうよ」
「すまない、テニスは個人競技的な要素が強いから、野球のような団体競技のことはうとくて」
「いいって、気にするなよ。大体なにに謝ってんだよ。おれはレギュラーだって言ってるだろ。それよか、おれ、退院後も会いに来るつもりだけど、構わないよな?」
「ハハ、きみらしくもない、なに気を遣ってるのさ。いつでもおいでよ。果物くらい出したげる。でも……無理、しないでいいから」
「友達んとこ行くのに、無理するやつがあるか。なぁ、柊一、おまえが退院したら、おれにテニス教えてくれよな。野球でよければ、いくらでも教えてやるからさ」
「きみがそんなにテニス好きだとは思わなかったよ、フフフ。じゃあ、ぼくも頼みがある。いつか……いつか二人でキャッチボールしたいな」
「キャッチボール? そんなことなら、今、済ましちまおうぜ」
「エッ、い、今! でも、どうやって?」
「そこのオレンジをくれ。いや、渡すんじゃなく、そこから投げるんだ、下からな」
「お、おい、離れないでくれよ――はい!」
「じゃあ、今度はおれから――ほい」
「ど、どこまで行くんだよ――はい」
「ドアんとこまでだよ――そら。よし、ここからは上から投げるんだ」
「エエッ、落ちたら、オレンジが潰れちゃうよ」
「搾ってジュースにしたらいいだろ。ほら、投げろよ」
「わ、わかったよ――えい! アッ、ごめ――やっぱり、すごいや、恵介は」
「天井がちょっと汚れちまったがな――ほら」
「おっとっと――それ」
「うまいうまい、ちょっとスピード上げようぜ――そら」
「イタタ――えいっ」
「なるほど、球慣れしているだけのことあるな――それ」
「よし――はいっ」
「これ、最後な――よいっと。柊一、すげぇよ。上半身だけで、それだけ投げられるんだからな」
「あ、ありがとう。夢が……夢が一つ叶ったよ」
「こんなちっちゃなやつ、夢なんて言うなよ。よし、これからはおれが、ドラえもんばりになんでも解決してやっから、やりたいことがあったら、何でも言うんだぜ」
「ありがと……」ジンジンしびれる両手を見下ろしながら、言葉を詰まらせた柊一であった。再び顔を上げたとき、その表情は実に晴れ晴れとしていて、目元だけがかすかにキラキラ光っていた。「でも、見た目は、ジャイアンなのにね」
「あー、言ったなぁ!」
「ヨッ、柊一、来たぜ」
「あ、学ランだ。学校帰りに寄ってくれたの?」
「ああ、軽いランニングも兼ねてな。カバン、入口に置かせてもらうぜ」
「右足の付け根の調子はどう?」
「あの腫れがうそだったみたいだよ」
「学ラン――似合うね。でも、だいぶ背が伸びたみたいだね」
「履きっぱのアンダーストッキングが丸見えだろ。自転車に乗るともっとひどいんだぜ。去年も仕立て直したんだけどなぁ」
「今度はきっちりじゃなく、長めにしてもらったらいいよ」
「まったくだ。覚えていよう。悪りぃ、柊一。今日は帰って、借りたノートを写さなきゃならないんだ。明日、また来るからよ」
「……恵介」
「オ――なんだ?」
「明日は、検査なんだ……」
「そっか。でも、午前だろ?」
「いや、明日は午後遅くからなんだ」
「なんだよ、そうなのか。じゃあ、明後日来るからよ。んじゃな」
――――
「あーこの扉、重い。ねぇねぇ、聞いて、お兄ちゃん。お母さんたらね――アレ? なにこれ?」
「どうした?」
「学校で配るプリント用紙が落ちてる」
「どれ、見せてごらん」
「待って……」背中を向けた麻美が、凱歌を上げるように叫んだ。「アーッ、やっぱりそうだ!」
「何がだい? 早く持っておいで」
「あいつ、やっぱり、うそついてた。レギュラーとか、見栄張っちゃって。あたし、この字知ってるもん。『ホケツ』って読むのよね。その欄にあいつの名前が書いてあるもの」
柊一は滅多に見せない厳しい口調で、妹を急き立てた。
「麻美! いいから、持って来るんだ」
「ごめんなさい。はい、これ」
柊一はプリントを一読すると、反応をうかがう麻美に視線を向けた。
「……もし、恵介に会っても、このことは言ってはいけないよ。プリントが落ちてたこともね」
麻美はすっかり鼻白んで、唇を尖らせた。嫌いな男の弱みを自らの手で掴んだ麻美は、鬼の首でも取った気でいたのだ。
「だって、だって……それに、そのプリント、大事なものかもしれないでしょ」
「書いてあるのはすべて苗字だけだし、確認事項のようなもので、特に大事な書類でもないよ。だから、カバンの外側のポケットにでも入れておいたんだろう」
「アアッ」
麻美が不本意そうに声を上げたのは、柊一がプリント用紙を両手でくしゃくしゃに丸め、自分しか手の届かないゴミ箱に捨てたからであった。
「なかったんだよ。いいね、麻美」
「……どうして?」
「恵介はね、つきたくてうそをついたんじゃないんだから」
「あんちゃんが先かと思ったら、じいさんが退院してらあ。いよう、柊一。ところでさ、おれ、この前来たとき、この辺になんか落とさなかったか?」
「よく来たね、恵介。『なんか』ってなんだい? それがわからないと、答えようがないよ」
「いや、なけりゃあ、それでいいんだ。どうせ、風で飛ばされちまったんだろう」
「グローブかい」
「おいおい、そんなもん風で飛ばされるわけねぇじゃねぇか。いや、いいんだ。忘れてくれ。オッ、なんだ、そいつは。ほら、窓辺にいる小鳥さ」
「ハクセキレイだよ。ご飯粒を置いておくと、たまにこうしてやってくるんだ」
「へ~、尻振って歩いてやがる。こんなに近づいてるのに、案外逃げないもんだな」
「ぼくはね、恵介、たまにコイツと入れ替われたらと思うよ」
ふとノスタルジーに浸る柊一の横顔を眺めたあとで、恵介は突然、自分でも興奮を抑えきれぬまま声を荒らげた。
「……バ、バカ言うな! ソイツだって――いま飛び立っちまったアイツだって、一生懸命生きてるんだぞ。大きな鳥に襲われる恐怖や、カラスにつつかれたり、雨に打たれたり、風に流されたり、寒さに震えたりしながらな。そう簡単に替わりたいなんて言うんじゃねぇよ。替わっちまったら、一大事じゃねぇかよ。麻美ちゃんはどうするんだよ」
「……うん、そうだね。軽率なことを言った、ごめん」
「お、おれにじゃなく、ハクセキレイに言えよ」
「うん、今度会ったら言おう。ときに、恵介――麻美をよろしく頼む」
何の脈絡もない申し出に、恵介は不満そうな上目遣いで、柊一を見つめ返した。
「『よろしく頼む』ってなんだよ」
「よろしく頼むのさ」
「へ、おあいにく様、おれは、あの子に嫌われてるよ」
「じゃあ、好かれる努力をしてくれ」
「ナ、なんだよ、そりゃあ。笑っちまったじゃねぇか。『ぼくがあいだに立つから』とか言うんならまだしも。それに、おれが嫌われてるのは、織り込み済みなんだな」
「あの子は思ったことを包み隠さずしゃべるたちでね。それにぼくもそこまで構っていられないよ」
「ちょ、冷たい兄貴だな」
「それに友達甲斐もない?」
「し、柊一。おまえ、勘違いしてるぞ。おれ、別に麻美ちゃんに気があるとか、恋人にしたいとか言った覚えはないぞ。事実そんなつもりもないしな。そもそも十歳児だぞ。おれは『かわいいな』って言っただけだろ」
「あの子が十六、きみが二十歳になっても同じセリフが言えるかな?」
「おい、柊一。おまえ、どうしたんだ? 今日おかしいぞ。昨日の検査で何か言われたのか?」
「いや、昨日の検査は中止になったんだよ。しかし、今日のぼくは、確かにおかしいね」
「ははぁ~ん、わかったぞ。もうしゃべるな。みなまで言うな。今度、おれのクラスの写真を持ってきてやる。性格は悪いが、きれいどころがいるぞ。それにな、これは大きな声では言えないんだが、水着写真もあるんだ、全身のやつだぞ。撮られた女子たちが買った男子全員に返せって迫ってるんだが、おれは持ってるんだ。おれだってピンボケの横顔が小さく写ってるんだぜ。買ってしかるべきだし、学校で販売され、正規に買ったものを、どうしてタダで渡さなくちゃならないってんだ。どうだ、柊一、今度持ってきてやろうか?」
「うん、見てみたい。お願いするよ」
「へへ、いい子だ。素直は美徳って言うからな。い、いや、おれが勝手に思いついただけだけどさ」
「ねぇ恵介、いま代表のメンバー選出で騒がれている、サッカーはやったことある?」
「もちさ。野球部のくせに、昼休みはそればっかやってるよ。先輩の目が気が気でなかったら、同じグラウンドで先輩もやってんだもんな」
「あれってさ、どうして、ペナルティーキックになったとき、別の選手が蹴るんだろうね。ファウルを受けた人が蹴ったらいいのに。そうじゃなきゃおかしいよ。それに、そのほうがきっと盛り上がるはずなのに」
「ねぇ恵介、スポーツでも格闘技でも、高見に登りつめた人の引退時期って、いつがいいと思う? ぼくが絶対に許せないのが、チャンピオンのまま引退するやつだよ。自分勝手すぎるよ。後進のことは何も考えちゃいないんだ。ぼくがそういった立場になったら、ズタボロになるまで戦うね。一回り以上年の離れた若手選手に、どうあがいても勝てないと気づいたとき、引退するよ」
帰りのホームルームが終わるとすぐ、恵介は担任教師に呼び出された。
「さっき――といっても、五時間目が始まる前なんだが、きみのお母さんから電話があってね。授業が終わり次第、家に電話をかけてきてほしいそうだ。きみの家族になにかあったわけじゃないから、その点は安心していいとのことだ。では、カバンを持って、一緒に職員室に来なさい」
職員室に入り、担任教師の隣席に座って恵介は家に電話をかけた。
「あっ、恵介。実はさっき、あんたが入院していた病院の看護婦さんから電話があってね。小笹柊一君って子の容態が急変したんで、連絡をしてきてくださったんだよ。あんたが、最近よく話題にしていた、お友達のことじゃないかと思ってね。なに、この音? ねぇ、恵介、聞いてる?」
カバンはそのまま、担任が呼び止めるのも聞かず、恵介は学校を飛び出していった。
階段を駆け上がってきた恵介を見つけるや、ナースステーションの受付にいた看護師が即座に立ち上がったが、恵介は視界におさめることなく、柊一の病室へと駆けつけた。
「おい!……」
ドアを開くと同時に呼びかけたが、室内には誰もおらず、配置ごと乱れたベッドがあるだけだった――なぜかそのとき見たリボンの巻かれた巨峰とオレンジの果物カゴだけは、今も彼の目に色鮮やかに焼き付いている――。背後に気配を感じ、振り返ると、顔なじみの看護師が立っていた。彼はいきり立って、彼女に詰め寄った。
「し、柊一はどこ? 手術? 手術しているの?」
三週間前、生まれて初めて入院し、十四年間、およそ病魔というものと関わりを持たなかった恵介に思い浮かぶ治療法といったら、それくらいであった。
「血は、血はいらない? おれのだったらいくらでもあげるから」
「市崎君……」噛んだ唇を解き放って、看護師は告げた。「会いたいよね。小笹君は、別棟の臨床病理、いえ、特別室にいます。でも、もしかしたら――」
病院の敷地内なら探検し尽くした恵介は、当然その場所も心得ていた。そのときは看板一つなく、放射線マークの入り口に恐れをなして、素通りした施設だった。今度はそのドアに、ためらうことなく飛び込んだ。目の前、三十メートルはある一直線の廊下の中ほどに、スーツ姿と白衣姿の大人の一団が見えた。そのあいだに、青リンゴ色のフリルのワンピースを着た女の子も垣間見えた――麻美であった。彼は一目散に駆けつけた。麻美は恐ろしい顔で、彼を睨みつけていた。初めて見る父親の横に立つ母親に向かって、恵介は激しく息巻いた。
「柊一はどこ? ここ? それともあっち? どこにいるの!」
表情をこわばらせる母親に代わって、父親が彼の前に立った。
「そうか、きみが市崎恵介君だね。ここを出る直前まで、家内は『きみを待ちたい』と言ったんだが、本人の意向を尊重してね。市崎君、柊一はね、もうここには居ないんだ」
「じゃあ、どこの、どこの病院に移ったの?」
割って入ろうとする、医師を制して、父親が答えた。
「大学病院に移送されたが、治療のためじゃない。研究のためなんだ。柊一はね、十四時十六分、筋疾患性の病で亡くなったんだよ」
学ランを着て家を出たまま、学校をさぼり、自転車で十キロもの道をこいで、恵介は柊一の実家にたどり着いた。
しめやかな葬儀が執りおこなわれるなか、ずかずかと廊下を突き進み、和室の引き戸に手をかけ、力任せに引いた。式はまだ読経の最中であり、正座をした参列者が全員振り返って、彼を見上げた。そこに恵介と同年代の中学生らの姿はなく、彼らは放課後、教師にともなわれ弔問に来る予定だった。そのときの恵介の顔つきを見て、柊一の父親だけが、すばやく膝立ちの状態になったが、すぐにそれ以上の行動に出ようとはしなかった。恵介は、念仏を唱える金色の袈裟をかけた僧侶の横に立つと、しばらく白木の位牌と遺影を睨みつけ、突然大粒の涙を流すと、大声でわめき散らした。
「なんだよっ、勝手に死にやがって。おれに死んだって証拠も見せないで、それっきりかよ、バカ野郎。ハクセキレイにでもなりかわったつもりか……。『ねぇ恵介』――そんな空耳で、いきなしおれを怖がらせるつもりか。親友じゃなかったのかよ、おれたち……。おまえのせいで、おれは永遠にうそつきになっちまったじゃねぇか。もう一生、もう一生うそなんてつくもんか……チクショウ」
何を思ったか、恵介は僧侶が立てたばかりの火のついた線香を右手で握りしめるや、足元の畳に向かって投げつけた。彼は猛然と振り返り、大股で玄関へと突き進んだ。靴の踵を踏んだまま、玄関を出ようとしたとき、柊一の父親に呼び止められた。
「市崎君、柊一はね、誰よりもきみを親友だと思っていたよ。突発的に病状が悪化したときだって、口にしたのはきみのことばかりだった。うめきながら『あいつは怒るだろうな』って漏らしていたよ。それでも最後のときは、気丈に振る舞い、わたしたちに別れを告げた。『ぼくの死は無駄じゃない。無駄になんて死ぬものか。麻美、こっちへ……。かわいい泣き顔だ。その顔が、何もない無への――死への恐れをなくす』。そういって、自分が亡くなり次第、肉体のすべてを検体に出してくれるよう、多賀先生とわたしたちに約束を求めたんだ。だから、どうか、あいつを責めないでやってほしい」
視界の端に両親の姿が入るだけ、首を回して振り返った恵介であったが、その目に飛び込んだのは、母親にすがりつきながらも、この世の悪を非難するような目で恵介を睨みつける麻美の姿であった。
高校二年時、マリンワールド――。
「……わたしたちだけになっちゃったね」
「お、おう」
「行く?」
「ど、どこへ?」
「別に決めてないけど……また集まるまで一時間半はあるんだし」
「お、おう、行こう!」
「どこに?」
「さ、さぁ……」
「プッ、市崎君って、おもしろい。待ってて、あそこにパンフレットがあるから、もらってくる」
「お、おれが行こうか?」
「どうして? すぐそこだよ」
「いや、『どうして』ってことないけどさ」
「ふ~ん、市崎君って、やさしいんだ」
「し、知らねぇのか。おれ、こう見えて、バントに失敗したことないんだぜ。スクイズもな」
「ばんと? すくいず?」
「ゴク……もしかして、野球、詳しくない?」
「全然知らない」
「そ、そう……でも、おれ、野球部なの知ってる?」
「知ってる。学校で坊主頭なの、野球部の人だけだし。ごめん、とりあえず、行くね」
「……まいったな。野球ネタはご法度かよ。どうしよう?……」
「はい、取ってきたよ」
「ありがとう。ん、あれ? もう一枚ないの?」
「えっ? うん、なかったの……」
「ゴマフアザラシ、かわいかったね」
「あ、ああ」
「近くにくればよかったのに、遠巻きに見てるんですもの」
「お、おれはそれほどでもなかったもんでね」
「約束の時間なのに、みんな全然来ないね」
「チッ、あいつら――呼び出してやろう」
「やめなよ。そのうち来るから」
「ああ、そうだな……」
「ごめんね、つまんなかったでしょ、わたしなんかといっしょで」
「な、何を言うんだ! おれこそ、悪い、つまんなくさせちまって。きっと、ショー見て、飯食ったら、色々変わるはずだから」
「……市崎君は、変わりたいの?」
「ん、なに? 悪い、館内放送が邪魔して」
「ううん、なんでもない……」
そのとき、待ち合わせ場所のインフォメーションにあるチラシや広告が差し込まれたラックが二人の目の前で整理され、パンフレットも追加された。
背を向けた恵介が、唐突に口を開いた。
「さて、あとはどこがあるんだっけ。パンフレット、見せてもらえるかな」
「ラッコ、かわいかったね」
「ああ、殻を割ったハマグリを引きちぎって食うさまがだろ」
「んもう。あそこは例外」
「だけどさ、おれ、本当にあのシーンに感動したんだぜ、真の野性の姿を垣間見た気がして」
「ここは水族館であって、サファリパークじゃありません」
「ああ、ごめんごめん」
「みんなで集まる前に、わたし、一つ、聞きたいことがあるの」
「なに?」
「館内マップはあとで――。ご飯を食べたあと、男女のグループに別れて、シャッフルか現状維持かの投票をしたでしょう? 市崎君、どっちに投票したのかなと思って……」
「そ、そりゃ決まってるさ。五対五だし、一人違うのを上げるわけにもいかないから、同じにしたさ」
「ふ~ん、でも、わたしたち、シャッフルの子、一人いたよ。もちろん、誰かは言えないけどね」
「そ、そうなんだ……」
「最初に『ラッコ、かわいい』って言ったでしょ。でも、実はわたし、ほかにもっとかわいいものを見つけたんだ。あっ、もう、二組来てる。行こ、市崎君」
後日、放課後の校舎――。
「市崎君!」
「オ――おお、どうした? こんなところで」
「びっくりし過ぎ……だって全然連絡くれないから……電話番号教えたのに……」
「あ、いや、ごめん。県大会が迫ってて」
「夜でも構わないけど」
「そ、そうだね。しかし、まぁその、先日はどうもありがとう……」
「じゃあ、夜にでもかけてくれますね」
「お、おう……」
「それじゃあ、さよなら。練習で怪我しないでくださいね」
「あ、ああ、さよなら…………けど、なに話すんだろう?」
日曜日、夕方、ファミリーレストラン――。
「まったく。市崎君って、とことん野球好きなんですね。今日もこの時間まで部活するんですから。大学も続ける気なんですか?」
「いや、続ける気はないよ。高校できっぱりやめるつもりだから。オッ、来た来た、宇治金時」
「おじいさんみたい……」
「ん、なに?」
「ううん、食べ方が子供みたいって言ったの」
「ア、イテ――頭ヤラレタ」
「ねぇ、市崎君、今日、呼び出して迷惑じゃなかった?」
「全然、だって、学校帰り、いっつもここのかき氷食べたいなって思ってたもん。安いし」
「そういうことじゃなくて!」
「い、いや、全然。こっちこそ、折り返しの電話が遅れてごめん」
「そんなことはいいんです。どうぞ、食べてください」
「うん……あ、そうだ、今日、何してたの?」
「エエ、はい。友達に、ちょっと相談を――」
「そう、なんだ……」
「――市崎君」
「な、なに?」
「わたしのこと、どう思ってる? こんなこと言って、積極的な女だって勘繰られるのは嫌だけど、わたしね、男子が市崎君を含めた残り二人になったとき、つまり男女合わせて四人になったとき、もう一人の女の子と、咳する真似をしながら言い合ったの――『コレ無理、四人にしない?』これはもう一人の女子の意見です。『わたし……市崎君がいい』『ゲッ、まじ。じゃあ、わたし、あの全然似合ってないラルフローレンってことになるのね』『ごめん』『いい。あいつは手ぶらでも、わたしは土産に何か買ってもらうから。じゃあ、先行くね』って。だから、わたし――」
「おれは――」恵介はスプーンを受け皿の上に置いた。「きみに選ばれる値打ちもない男だよ」
「エッ、どういうこと?」
「事前に言っておくよ。ここの代金、おれ、払うから。……きみのことは当然一年時に同じクラスだったから、ある程度は知っていたけど、言うなれば、好きでも嫌いでもなかった。でも、今はきみのことが好きといって過言じゃない。だけど、あのときおれは、きみじゃなく、もう一人の子に当たればいいなと、心ん中で願ってたんだ」
「そう……わかった。正直に話してくれてありがとう。じゃあ……さよなら」
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