6――『交差する真実』
〈9587文字〉
寝入りばな、突然目を見開くと、恵介はベッドの上でガバッとばかり上体を起こした。廊下の先、暗闇の中で鈍く光るドアノブを見つめながら、彼は声に出してつぶやいた。
「あれは――、彼女があそこまで、あんな人気のないところまで見送ってくれたのは、『キスしてもいい』って合図だったんじゃあ……。そ、そうじゃなきゃ、あんなところまで、彼女が先導する形で見送るだろうか? いや、おかしい。わざわざ見送る必要性がない。男女が逆ならまだしも。結局おれは、彼女が駅に入るところまで、ひっそり見送ることになったし。それに、なにより、『さようなら』を告げたときの間が――うっ……ちょっと待て! も、もしかして、おれが、おれが誘いさえすれば、彼女は家まで来てくれるつもりだったんじゃあ、ないだろうか? だ、だとすれば、今頃は、このベッドで――ば、バカ、この破廉恥漢め。彼女が、長田真実がそんな女性のはずがないじゃないか。手を握られるのですら、異常なまでに恥じらったのに。案外、本当に、ただ単に、見送りに来てくれただけかもしれないな。天真爛漫な女性って、そういうとこあるからな。へたに唇を突き出さなくてよかった……。『あのときとは事情が違うでしょ!』って横っ面張られてたかもしれないし……まぁ張られてもいいけど。で、でも、おれ、彼女と付き合ってるんだよな……。本当かな、今でも信じられないや。いま電話しても、怒られないんだもんな。いや、それは怒るか? 当たり前だな、午前二時だもん。それにしても、今夜の電話で彼女に言ってもらえてよかった――『無理しないで、これまでのようなお付き合いを続けましょうね』。そうさ、まさにおれも、何よりソコをいの一番にお願いしたかったのさ、真実ちゃん、いや、真実さん。ン、この場合、どっちなんだろ? まぁそれは後々ゆっくり考えるとして、ともかく、おれが彼女を束縛するのはもってのほかで、休みの日として現在彼女に割り振られている週末のどちらかの半日を除いて、きみを一分一秒邪魔だてしたくはないからね。それにおれのほうもちょっとは忙しくなるだろうし、執筆に関しては気分屋の面が否めないけど……(ベッドに仰向けになりながらも、省察は続いた)……で、でもさ、話を蒸し返すようだけど、おれ、やっぱり、一応、彼氏になったんだし、部屋を見せるくらいは、逆にしておいたほうがいいんじゃないかな。部屋を見れば、その人の人間性がわかるって言うし。いや、誰の言葉かは知らないけど……。ただね、おれってほら、変な趣味持ってそうに思われるからな。いや、別に誰かにそう言われたわけじゃないけど……。すれ違う女子高生の視線がたまにちょっと……。もちろん何もしないさ。より一層紳士的に振る舞ってみせる、うん。でさ、そういうときって、どう切り出すんだろ。『おれの部屋に来ない? 絶対なにもしないからさ』――ゲスの極みだな。まず、おれって人間をアピールして、そして、そして……なに言おうか考えとこう。そういや、今日――じゃなく昨日は、記念日ってやつになるんだろうか? 覚えておいて損はないな……むにゃむにゃ」
翌週末、デート帰り――。
「わたし、こんなに身体を動かしたの、久しぶり」
「卓球があんなに上手だなんて思わなかったよ。ぼくはごめん、バッティングセンターでちょっと本気になっちゃった」
「ううん、すごくカッコよかった。みんなも恵介さんのスイング見てたよ。わたしも彼女として、鼻高々だった」
「へへ――真実さんは、卓球部だったの?」
「いいえ。高校一、二年の頃は、友達に誘われて色んな部活動を見に行きましたけど、結局は入らなかったんです。早いうちに決めちゃえばよかったんでしょうけど、誘ってくれた友人たちに申し訳なくなって。そんななか、卓球部だけは顧問がいないも同然で、部員でもないのに、よくお邪魔してたんです」
「でも、驚いたな。由緒ある天満宮を参拝したあとに、『行きたいところがあるの』って言うからついて行くと、アミューズメントパークなんだもん」
「だって、行きたかったんだもん」
「いや、ぼくのほうこそ、厳粛なスポットが続くより、あんなところが好きで、ありがたかったくらいなんだ」
「じゃあ、今度は、恵介さんがプランを立ててください。どこでもいいですよ。わたし、自分のところのレンタカーを用意して待ってますから」
「ぼくが? わ、わかった、死ぬ気で考えてみるよ……」
「あのね、恵介さん。前もって断っておきますけど、わたし、死ぬ気で考えたコースなんて行きたくありませんからね。適当な、前に恵介さんが行ってみたかった、見てみたかったところで構いませんよ。巨石パークとか――これはさっき看板が見えただけで、わたしはあんまり行きたくないですけど」
二人は笑い合った。
「うん、そうだね。思い出してみる」
「お仕事に支障をきたさない範囲で」
「うん――あ、あのね、火曜日から執筆に入ったんだよ。一応、ご報告までにと思って」
「がんばってられるんですね。……あの、わたし、過去の作品で構わないから、恵介さんの書いた小説、一度読んでみたいな」
「うん……そうだよね。当然思うことだよね。でも、過去の作品はやっぱり未熟なんだ。もちろんいつかは見せてもいい。でも、最初にそれを見せるわけにはいかない。アレは今のぼくより、だいぶ劣った人間が書いたやつだから。だから――その、今回の小説ができあがったあかつきには、きみに最初に読んでもらいたいと思ってるんだ」
「うれしい! きっとですよ」
「オホン……(第三章にて、満を持して登場予定の、身近すぎるヒロインに驚かなきゃいいけど)」
「どうかしました、恵介さん?」
「ううん、きみのことを想いながら、きみが楽しめるようにがんばるよ」
「エッ――、ありがとう……」
その夜、執筆を切り上げた恵介は床に就いた。
「読んでみたい――そうだよな。部屋を見るより、はるかに書いた人物の人柄・嗜好・性癖にいたるまで物語っているものな、小説ってやつは。その他の一般人、つまり小説なんてのに手を染めない人との違いは、臆病者であるか否かに尽きる。臆病者は言いたいことを抱え込む。そのはけ口がものを書くことにつながり、ひいては小説になる。比喩や誇張や潤色は、作者の性格を如実に表す拡大鏡のようなものだ。ちなみに、好んでテレビに出る小説家は例外だ。いくら斯界に名を馳せようが、どのくらい連載を持ってようが、あいつらは所詮、小説家を上がっちまった人間なんだ。そんなことをしたって、邪魔な仕事が増えるだけなんだから。あんなやつを見て、小説家になりたいと思う若者が出るわけでもなし。小説家を漫画家に代えたって同じことさ。いかん、話がだいぶ逸れちまった。要するに、そんな分不相応な嫉妬心も、小説家の素質があるゆえんなのだけど。ほら、よせと言ってるだろ!……たとえばその人が、目の前で他人の落とした小銭を拾ってあげる人かどうか――、たとえばその人が、三回連続の間違い電話にも怒鳴らずにいられる人かどうか――、たとえばその人が、友達だからお金の貸し借りをありとする人か、なしとする人かどうか――、たとえばその人が、愛する人を失ったとき、身も世もなく泣き崩れる人か、言葉少なく忍従する人かどうか――、たとえばその人が死ぬ間際、恵まれぬ人生を呪って死ぬ人か、惨めな人生すら賛美しながら死ぬ人かどうか――が、読むほどにあけすけに見えてくる。それは初期衝動に駆られた、稚拙な作品ほど顕著に読み取れるものだが、安心立命となった大家の境地こそ、実は油断ならない――政治家の失言なんてのもそうだ。当人はそんなことを言ったことも、書いたことも全然気づかない。自分がそのとき、どんな行動をするかなんて、考えたこともなければ知りもしない。でも、小説を読んだ人にはわかるのだ。……ちぇ、くだらないこと考えるから、眠れなくなっちまった……。ン? そういや、いくらそういう流れになったとしても、出来過ぎてなかったかな。『わたし、過去の作品で構わないから、恵介さんの小説、一度見てみたい』――もしこの言葉の裏に、別の意味があったとしたら? しかも今回も、おれが降りる駅が先にあり、もうまもなく着く頃合いだった。『あなたの家に行ってみたいわ、これから。行けない?』――そういう意図の発言だったんじゃないだろうか。いやいや、待て待て、そうであろうとなかろうと、彼女はおれという人間が知りたいだけなんだ。部屋に来たって、ましてや彼女の部屋に行ったとしても、おれは四つどころか、二十歳は違うジェントルマンであり続けるぞ。う~ん、そうか、いつかはおれも、彼女の部屋に行くことになるんだろうな。一人暮らしって言ってたし、どんな部屋かな、甘い香りがするのかな……。そうだ、今度消臭剤買っておかなきゃ……むにゃむにゃ」
翌週末、デート帰り、車中――。
「『しっかり歩ける靴でお願い』って、昨夜電話があったときは、どこの山に連れて行くんだろうと思っていましたよ。まさか、天神を渡辺通りに沿って一周するなんて思ってもみませんでした」
「ごめん、後半はオフィスビルばかりで、休めるところもなく、疲れちゃったね」
「いいえ。それに、わたし、あんなところに画材屋さんがあるなんてまったく知りませんでしたし」
「入り口で中を覗くだけじゃなく、入ったらよかったのに。絵に、興味があるの?」
「いいえ、描くほうも観るほうもさっぱり。でも、画材屋さんって色んなものが置いてあるんですよ。クラフトアートに使うものだったり、量販店では見かけない変わった雑貨品だったり。見ているだけで楽しいんです。でも、よかったんですよ、恵介さん。さすがにカップルで入ると、冷やかしとしか思えませんから」
「そ、そうだね。真実さん、ぼくのほうはまったく逆でね。古本なんかを見に、天神の裏通りにはよく行くんだけど、幹線道路沿いにあるファッション関係のビルは、前を通るばかりで一度も足を踏み入れたことがなかったんだ。デパートに関しても、行ったことがあるのは、デパ地下なんて言われる食品街だけだった。昔、テレビで紹介されたクロワッサンを買いにね。味以上に、高すぎて、口に合わなかったけど。だからさ、今回はすごくいい経験をさせてもらったんだ。ぼくの知っている天神は、まったくのところ天神とは呼べなかったよ」
「どこの、古本屋さん? そこも今日、行ってみたかったな」
「真実さん、そここそカップルで行くような場所じゃないよ」
「そうなんですか? そうなんですよね。わたし、そういうことにうとくて」
「よかった。非の打ちどころのないきみに、ぼくで補えるところがあって」
「そんな……わたし、欠点だらけですから……」
「運転だって、二種免許が取れるほど上手だし」
「もうっ、からかわないでください。今日はこのまま、マンション前までお送りしますね」
恵介の住むエレベーターなしのアパートは、よく言えばマンションと言えなくもない造りだった。
「ありがとう。お店に返す前に、ガソリンを満タンにしなきゃいけないんだよね?」
「いいえ、今日は一目盛も減っていないので、大丈夫です。今度貸し出すときに、事務所にあるタンクから継ぎ足しておきますから。それより今日は、あんなに高いランチをごちそうしていただき、ありがとうございました」
「んもう、あれは言ったろう、ごちそうしたんじゃないって!」
「でも、わたし、この車、タダで使わせてもらってるんですよ」
「いいんだって。もし借りてたら、そんな値段では済まないんだから。そんなことより、あのさ――今度、ぼくのマンションの近くの花屋の隣に、ドーナツ屋さんができたんだ。地元産の小麦だけを使っていてね。若い女性に人気なんだよ。前を通るたびに、すごくいい匂いがするんだ。よかったらだけど、寄ってみない?」
「これからですか?」
「うん。よ、よければ、コーヒーくらいぼくの部屋で用意――」
「あ、あの、今日はごめんなさい。家で、営業先の資料整理と、イベントに向けた準備もしなくちゃならないので」
「そ、そうなんだ。いや、そんな、気にしないで。今度買ってきてあげるから」
翌週末、デートの待ち合わせ場所――。
「ワッ!」
「オワァー、び、びっくりした。お、おはよう。車で来たの? 立体駐車場から出てきたりして」
「おはようございます。ごめんなさい、笑っちゃって――そんなに驚くんですね。すみません、あまりに無警戒だったんで、やっちゃいました。ええ、おかげで早く着いたので、探偵さながらに見張ってましたよ、恵介さんが来るところ」
「まいったな……アッ、これ、この前、話したドーナツ。袋の中には三つあったんだけど、来がけに一つ食っちゃった。家で食べてよ。焼きドーナツだってさ、おいしかったよ。けど、正直言えば、ぼくは揚げたほうが好きだね」
「残る二つは同じものですか?」
「いや、お勧めのやつを三種類買ったんだ。順位は知らないけどね」
「じゃあ、食後にでも、その二つを半分こにして食べましょう」
「あ、うん……。で、今日はこの大型スーパーから、どこに行くの?」
「どこにも行きませんよ。なかに入るんです」
「へ?」
「この最上階にある映画館で、今日は一日中、映画を観る予定なんです。以前のところより、こっちのほうがゆったりできる映画館のようでしたので。一本目のチケットは購入済みですから、あとはその都度二人で選びましょう」
ショッピングセンターに入り、エスカレーターを前に後ろに上がって、最上階のチケットコーナーに行き着くと、真実はにわかにあわて始めた。
「エッ……うそ……あれ?……ない!」
「どうしたの?」
「ごめんなさい、前売りで購入したチケットを部屋に置き忘れてきたみたいで」
「そう。じゃあ今日は、ソレを外した違うのを観て、またの機会にその映画を観たらいいよ」
「いえ……でも……やっぱりわたし、その映画が観たかったんで、取りに戻りますね。車ですから、大した時間もかからないと思いますし」
「『取りに戻る』って、きみの部屋まで?」
「ええ――それで、あの、待っていてもつまらないと思いますので、一緒に来られませんか? よければですけど……」
「『一緒に』って、おれが? そ、そうだよね。ほかに誰が行くんだって話だよね。うん、行く。その、こっちもよければだけど……。いや、そんな意味じゃなくて、車の番をしておくから、大丈夫」
真実は自分のマンション前に行き着くも、正面を素通りして、コインパーキングに車を乗り入れた。
「あ、いいよ、停めないで。路上駐車で待ってるから。戻って、チケット取っておいでよ。おれ、免許証持ってきてるし、運転席に座って待ってるから。万が一警察が見周りに来ても、動かしてまた戻って来るから」
「いえ、いいんです。せっかく来ていただいたんですし。お茶でもいれますから。恵介さんが買ってきてくれたドーナツを食べてから、あっちに戻りましょう」
こうして、恵介は生まれて初めて、女性の一人暮らしの部屋に入った。彼の部屋とは違い、清潔感と清涼感の塊だった。あり得ない話だが、一千メートルは標高が高いみたいに一息目の空気が澄んでいた。機能性とインテリア性を折衷させたような部屋で、飾り立てた感じはなく、乙女らしさは幾分控え目であった。彼が思い浮かべる女性の部屋には欠かせない、ぬいぐるみがなければ、観葉植物もなかった。もっともこれは彼の学生時代から変わらぬまま既成概念化された先入観に過ぎないが。室内はダイニングとの間仕切りから左回りに、最初の部屋角に背の高い円柱のシェードがついたフロアランプ、姿見、天板が五センチはあろうかという無垢材の重たく頑丈な作業用とおぼしきデスク――今は電源の落ちたノートパソコンがあるだけだった――、半開き状態の濃いベージュのカーテン、九つの引き手のある洋タンス、二連式のハンガーラック、天井突っ張り型の鞄掛け用ポール、カーテンと同系色のシングルベッド――部屋のアクセントで淡いブルーのクッションが乗っていた――、そして部屋の中央には円形のムートンの上に四角いガラステーブルが置かれてあった。ガラステーブルの上にはリモコンが二つあり、女性誌も乗っているように見えたが、下の棚に置かれてあるだけだった。壁に関しては、彼女の会社のカレンダーが張られてあるだけで、あとはノッペラボーだった。のちに気づくことになるのだが、テレビがなかった。もっとも、テレビ番組は今、パソコンや携帯電話でも見られる時代である。
ダイニングに彼女が留まり、うながされて私室に入った瞬間、恵介が覚えた何か引っかかる感覚は、間髪入れず襲いかかった怒涛の緊張感によって一飲みにさらわれたが、自分の家に帰ったとき、その違和感の存在を思い出し、それが何であったかに気づいた――彼女の部屋は、たまさか帰ってきたにしては、整然としすぎていたのである。
ダイニングから声が聞こえた。
「お湯を沸かしますから、そっちの部屋で座って待っててください。あんまり見ないでくださいね、恥ずかしいから」
「あ、うん……」
しかし、目でもつぶらぬかぎり、見ないわけにはいかなかった。とはいえ、そのときに限っていえば、彼の記憶に残った家具や収納といったものはほとんどなかった。確かにあると覚えていたのは、スカイブルーのクッションと、のちにわかるが、蹴つまずいたときに落ちたエアコンのリモコンくらいであった。
ハッと気づき、彼は立ちあがった。
「おれ、いや、ぼくもそっちで手伝うよ」
手前のダイニングでは、すでに準備を整えた彼女が待ち構えていた。
「もう済んじゃいました。それに、前から言おうと思っていたことですけど、わたし、恵介さんには『ぼく』じゃなく、『おれ』のほうが似合う気がします」
「そ、そうだな。『おれ』だと、たまに言葉遣いが荒っぽく聞こえちゃうんだけど……。じゃあ、おれのほうにしよう。……ん、なに?」
彼女は返事もせず、まっすぐ立ったまま、彼をしばし見続けたあとで、やおら口を開いた。
「この前はごめんなさい」
「へ、なんのこと?」
「誘ってくれたのに、恵介さんの部屋に行けなくて」
「なぁんだ、そんなことを気にして、ここに連れてきてくれたのか。きみって人は、優しいうえに、律儀なんだから。さ、チケット探しなよ。おれは、こっちでドーナツの準備でもしていよう」
「チケット……ないんです」
「もう探したの? いやいや、案外、思わぬところにあるものだよ。あっちの部屋もちゃんと探したほうがいいよ」
「あるはずがないんです、買ってないんだから」
目を合わせると、時局を大観するように彼女は微笑んでいた。彼は、なぜか返事を求められた気がして、あわてて声を張り上げた。
「……なぁんだ、よくある、よくある。おれも夢で買ったものが現実にないんで、腹を立てたことがあるよ。ふとした瞬間、思い出すんだ――『バカだな、あれは夢じゃないか』って。あれほど気持ちのこもった『バカだな』も、そうないよね」
「じゃあ、わたしを慰めてください」
さすがに彼も心配になって、彼女を見つめた。
「……か、会社で何かあったの?」
「なんにも、順風満帆です、わたしたちの関係以外は」
『わたしたちの関係がうまくいっていない』――つながりに関係なく、その一文だけを抜き出して理解した恵介の頭には、『デートが楽しくなくなった』つまりは『もう別れたい』――そういう経路ができあがった。乾きかけていたとはいえ、その経路には呼び水が伝っていたのだ。彼には、今日会ったときに彼女が何気なく明かした『(彼のことを)見張っていた』との言葉が思い出された。彼女を待つあいだ、恵介は着ていたサマージャケットを脱いではたき、体臭もそれとなく確かめ、財布の中身を細かく点検していたのである。
「ちょ、ちょっと待って、真実さん。きみ、今、大事な告白をしようとしている?」
「ええ」
「……じゃあ、せめて、あっちの部屋じゃダメかな? ぼくは、その、決して変なまねはしないから」
「望むところです」
がっくり肩を落とす恵介は、うつろな状態でガラステーブルの前に座ったが、すぐさま部屋が暗すぎるのに気づいて立ち上がりかけた。
「アッ、カーテンを開けよう」
「いえ、わたしがしますから」
恵介は、それを『わたしの部屋のものに触らないでください』と受けとめた。彼はただちに正座した。うつむく彼に、背中を通る彼女が声をかけた。
「全然気づいてないので、今日、二回目になりますけど、あまり驚かせるのが好きだなんて思わないでくださいね」
「エッ――」
恵介の頬が、真実の両手を挟まれ、二人の唇が重なった。今回は真実の位置のほうが高く、彼女は首を傾けて、やはり目は閉じていた。
反射的に両膝立ちになった恵介であったが、頬を掴まれた状態の彼に、唇の逃げ場はなかった。恵介はとっさに彼女の両肩を強く掴んで、押し返した。そのとき、唇同士がかすかな音を立てて離れた。二十を予定していた歳の差が、一気に四つまで詰まってしまった。
「どうしたの、真実さ――」
真実が腕に力を込めると、彼女の肩はするりと恵介の手を抜け、再び唇が合わさった。一度目よりも強いキスだった。四つあった歳の差が、本能で消し飛んだ。
彼は彼女を激しく抱きしめると、その真っ白な絹のような光沢を放つ首元に、呼吸荒くむしゃぶりついた。そして、震える手で彼女の身体を――どこということはなくただその全身をまさぐった、その存在が天使なんかではないと確かめるように。それから、耳もとにささやかれた声を聞いた彼は、軽々と彼女をベッドの上に抱え上げると、自分も覆いかぶさるようにベッドに乗った。邪魔なクッションを払いのけ、ひたいを合わせ、今度は彼が首を傾けて上からキスをした。歯が当たって音を立てた――『震えてるのかよ、情けない』。そして、彼女のブラウスのボタンに手をかけた。ブラウスも彼女の一部であるかのように、武骨で大きな手で慎重に、一つ、二つと外していった。刺繍を凝らした胸元の下着が露わになったとき、四つん這いになった彼の右の脇の下から、彼女の左手が親指を中に入れて固く握りしめられているのが、偶然目に入った。逆の手を見た――下に敷かれたタオルケットを五指で手の中に強く巻き込んでいた。彼女の顔を見た。視線が合わさると、彼女は優しくも儚い笑顔を見せた。
瞳に色を取り戻した恵介は、いきなり背後から襟首を引っ張られたかのようにベッドから跳ね退くと、床に尻餅をついて、横たわる彼女を見上げた。
「き、きみ、まさか、初めてなんじゃあ……」
その姿は、姫に化けた老婆の正体に気づいたかのようだった。しかし、ベッドには着衣こそ乱れていたが、心持ち顔を上気させた、姫にも劣らぬ麗しき女性の寝姿があるだけであった。
腕を伸ばして上体を起こすと、彼女はこわばった表情から一変、クスクスと込み上げる笑いを堪えるようにして彼を見つめた。
「どうしたの?」
「答えてくれ! きみは――そうなんだろう?」
「いけない?」
「……おれはきみを抱けない」
「どうして? 喜んでくれると思ったのに」
「おれはそんな人間じゃない」
「どうして?」
「『どうして』もへったくれもない! おれがただ、そんな人間ではないからだ。さよなら……」
振り返りざま、恵介はガラステーブルに蹴つまずき、リモコンが転がり落ちた。そのリモコンを拾い上げるべきか否かで一瞬悩み、愚かしい選択だったことに気づいて、彼はそのままダイニングを一足飛びして玄関を走り出ていった。
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