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【短編小説】「ジャズの旅」②


第一章:老トランペッターの魂


バーボンを飲み干した六三郎は、老トランペッターに導かれるように再びジャズバーのドアをくぐった。店内は先ほどの熱気が嘘のように静まり返り、ステージの照明だけがぼんやりと光っていた。老人はカウンターの隅を指差し、もう一杯のバーボンを注文した。

「さっきはいい音だったな」

六三郎がそう言うと、老人はくしゃっと顔をくしゃくしゃにして笑った。 「良い音は、魂が乗ってる音だよ。楽譜通りに吹いたって、ただの飾りだ」

六三郎は、教授に言われた「ソウルがない」という言葉が、遠いニューオーリンズの地で、まるで自分自身に語りかけられているかのように感じた。彼は、ジャズの音に込められたその「魂」を、自分の文章にどう乗せればいいのかわからなかった。

老トランペッターは、六三郎の様子をじっと見ていた。 「お前のその顔、昔の俺にそっくりだ。何かを求め、何かから逃げているような、そんな顔だ」

老人は、自身の若き日を語り始めた。若い頃、彼は完璧な音色を求め、クラシック音楽に傾倒していたという。しかし、楽譜に縛られることに息苦しさを感じ、ジャズの世界へと足を踏み入れた。

「ジャズは、不器用な奴らの音楽なんだ。俺は完璧な音は出せねぇ。だが、その不器用な音にこそ、俺の人生が詰まっている。そう思えるようになってから、俺のトランペットは泣くのをやめたんだ」

彼は、ジャズが生まれた歴史を語った。それは、奴隷としてこの地に連れてこられたアフリカの人々が、自分たちの悲しみや喜びを表現するために音を紡いだ場所だった。彼らは、ヨーロッパの楽器と自分たちのリズムを融合させ、自由を歌うための新しい音楽を生み出した。

「お前の文章は、誰かの真似じゃないか? 自分の言葉で、自分の魂をぶつけろ。それがソウルだ」

その言葉は、まるでトランペットの音色のように、六三郎の心に深く響いた。

彼は、老トランペッターとの出会いを、自分の人生を変える転機だと感じた。彼は、ニューオーリンズの街で、ジャズの魂を学ぶ旅を続けることを決意した。

ピアニストのヴィンセントとの出会い


老トランペッターは、六三郎の真剣な眼差しに満足そうに頷いた。

「いい顔になったな。さっきまでのは、まるで死んだ魚みてぇな顔だったぜ」

そう言って、彼はグラスに残ったバーボンを一気に飲み干すと、カウンターから立ち上がった。六三郎が戸惑っていると、老人は彼の肩をポンと叩いた。

「行こうぜ。あんたに会わせたい男がいる」

老人の行き先は、薄暗い路地裏にある、古びた楽器店だった。店の中には埃をかぶった古いピアノやギターが所狭しと並んでいる。店の奥から聞こえる、正確で流れるようなピアノの音色に、六三郎は思わず足を止めた。

「ヴィンセントだ」

老人がそう言うと、ピアノを弾いていた男が振り返った。彼は、年の頃は老トランペッターよりは若いが、白髪が混じり始めている。指先まで手入れが行き届いた清潔感のある身なりで、穏やかな顔立ちをしていた。

「この若者は、日本から来た小説家志望の男だ。お前の言う『ジャズの魂』を探しに来たらしい」

老人の言葉に、ヴィンセントは微笑んだ。彼のピアノの音色のように、理知的で洗練された笑みだった。ヴィンセントは、六三郎にジャズの歴史や理論について、まるで大学の講義のように丁寧に説明した。

「ジャズは最初、ディキシーランド・ジャズから始まった。集団での即興演奏だ。トランペットがメロディーを吹き、クラリネットやトロンボーンがそれぞれに自由に絡み合う。まるで、皆が同時に話しているようだ」

そう言って、彼はレコードをプレイヤーにかけ、六三郎にその音を聞かせた。音は、確かに混沌としているが、その中に確かな高揚感と生命力が宿っていた。

「その後、ルイ・アームストロングのような天才が現れて、ソロ演奏が重要視されるようになった。さらに時代は進んで、ビバップ、クール・ジャズ、ハード・バップ…と、ジャズはどんどん複雑なハーモニーや速いリズムを追求していった」

ヴィンセントは、再び鍵盤に指を置いた。先ほどの流れるような音色とは違い、不協和音を意図的に含んだ、難解なコードを弾き始めた。

「この音は、聴く人を選ぶ。まるで、難解な小説のようだ。作者の意図がわからなければ、ただの騒音に聞こえる。だが、この音の裏側には、緻密な理論と、新しい表現への探求心がある。感情の赴くままに音を出すだけじゃない。この複雑なハーモニーを理解し、その上で、自分の魂をぶつけるんだ。それは、自分の内面を深く掘り下げて、それを音にする作業だ。君の小説も同じじゃないか?」

六三郎は、ヴィンセントの話を聞きながら、ジャズという音楽が、感情の赴くままの衝動と、それを支える確固たる理論と歴史によって成り立っていることを知った。

彼の話を聞きながら、六三郎の脳裏には、自分が書いてきた小説の原稿が次々と浮かび上がっては、消えていった。教授に言われた「ソウルがない」という言葉。それは、ただ文章が下手だという指摘ではなかった。

「僕は、僕自身の魂を、文章に込めていなかった。」

ヴィンセントが弾く難解な和音が、六三郎の頭の中で、バラバラだった小説の断片を繋ぎ合わせていく。彼がこれまで書いてきた物語は、どれも誰かの小説を模倣したものだった。登場人物の感情も、情景描写も、全てが借り物で、自分自身の内面から生まれたものではなかった。

しかし、ヴィンセントのピアノの音は違った。それは、六三郎の心臓の奥に直接響き、内側から熱を帯びさせていく。彼は、ジャズの即興が、完璧なハーモニーを求めるクラシックとは違い、あえて不協和音を鳴らすことで生まれる、独特の美しさを持っていることを理解した。そして、それは、彼の文章に欠けていたものだと確信した。


そのときだった。店のドアが開き、長身の男が中に入ってきた。口髭を蓄え、温厚な表情をしている。彼は、六三郎と老トランペッター、そしてヴィンセントに静かに頷き、店の奥に置かれたコントラバスを手に取った。

「ハーヴェイだ」と老トランペッターが静かに言った。

ハーヴェイは無口だった。多くを語らないが、その指がコントラバスの弦に触れた瞬間、六三郎はまるで彼と楽器が一体になったかのような錯覚を覚えた。その静かな佇まいから、言葉にならない、しかし確かな何かが放たれていた。それは、老トランペッターの情熱とも、ヴィンセントの知性とも違う、すべてを包み込むような深い魂だった。

ハーヴェイは、コントラバスを抱えたまま、静かに六三郎の方を向いた。そして、ほんの一瞬、六三郎の瞳の奥を覗き込むように見つめると、口を開いた。

「…君の目は、とても騒がしいな」

それは、静かな水面に石を投げ入れたかのような、深く、しかし穏やかな言葉だった。六三郎は、ただその言葉の重みに、息をのんだ。

彼の旅は、まだ始まったばかりだった。

つづく


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