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【短編小説】「ジャズの旅」

序章 ニューオリンズ

雨だった。 日本のじめじめとした雨とは違う、粘着質で熱を帯びた、ニューオーリンズの夕暮れの雨。六三郎は、ホテルの部屋の窓から路面電車が濡れた線路を滑るように走っていくのをぼんやりと眺めていた。

閉塞感に窒息しそうになり、彼は傘もささずに街へと飛び出した。フレンチ・クオーターのレンガ造りの建物が並ぶ通りには、ジャズの音が溢れていた。店から店へと、異なるトランペットの音色がぶつかり合い、混ざり合い、一つの大きな渦となって六三郎を包み込む。

彼はその音の渦に吸い込まれるように、ひときわ熱気のあふれるジャズバーのドアを開けた。それは、ルイ・アームストロングもかつて演奏したとされる、老舗の**「メゾン・デュ・リオ」**だった。薄暗い店内は、酒の匂いとタバコの煙、そして熱気で満ちていた。

彼はカウンターに腰を下ろすと、グラスに注がれた琥珀色の液体をゆっくりと回した。それは、バーボンだった。

バーボンは、ケンタッキー州で生まれたアメリカを代表する酒だ。トウモロコシを主原料とし、内側を焦がした新樽で熟成させることで、あの独特の琥珀色と芳醇な香りが生まれる。スコッチのような洗練された透明感はない。だが、その不器用で荒々しい味わいの奥には、開拓者たちの魂と、アメリカの歴史そのものが溶け込んでいる。六三郎は、そんなバーボンを少しずつ喉に流し込みながら、グラスの向こうで揺れるジャズの音色に耳を傾けていた。

なぜ、彼はこんな遠い場所にいるのか?

ゼミで提出した小説を前に、教授はこう言った。 「君の文章は、ソウルがないね」 それは、六三郎がこれまで耳にしたどんな酷評よりも、深く、鋭く彼の心を貫いた。彼は、ソウルを探しに、ジャズ発祥の地であるニューオーリンズまで単身やってきたのだ。

ステージでは、老いた黒人トランペッターが、まるで魂を絞り出すかのように音を奏でている。その音は、完璧なハーモニーとは程遠く、時折かすれ、震え、しかし聴く者の心の奥底を揺さぶる力を持っていた。六三郎は、クラシック音楽を聴くと、まるで美術館の絵画を鑑賞するかのように、静かに眠たくなってしまう自分を思い出す。しかし、このジャズは違う。不完全で、粗削りで、予測不能な音の塊が、彼の身体の奥底に直接響き、内側から熱を帯びさせていく。それは、まるで魂を揺さぶられているような感覚だった。

教授の言葉の本当の意味に、この時、彼は気づかされる。

「君の文章は、どっちを目指すんだ?」

教授が本当に言いたかったのは、そういうことだったのかもしれない。

彼は、グラスに残ったバーボンを一気に飲み干すと、カウンターに深々と頭を下げた。熱気で満ちた店内を抜け、雨上がりのブールバードへと歩み出そうとした、そのときだった。

ふと背後から声が聞こえた。 「おい、そこの日本人。そんな顔で酒を飲んでたら、バーボンが泣くぜ」

振り返ると、そこには、ステージで魂を絞り出すような音を奏でていた老いたトランペッターが、ひっそりとバーの入り口に立っていた。彼は六三郎の手に持っていたグラスを指差すと、穏やかな笑みを浮かべた。

「昔、日本で演奏したことがあってな。あの国の酒は静かだが、お前さんのグラスは賑やかすぎる。…よかったら、もう一杯付き合わねぇか?」

六三郎は、迷うことなく頷いた。彼の表情には、どこか希望に満ちた光が宿っていた。

「喜んで。」

そう言い、彼は歩き出そうとする老トランペッターの背を追いかけ、もう一度バーのドアをくぐった。

つづく


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