【短編小説】「ジャズの旅」⑥
第四章:日本のジャズ喫茶と教授
東京の空は、ニューオーリンズとは違う、鈍色の鉛を流したような色をしていた。六三郎は、使い古したジーンズと、くたびれたインディゴブルーのワークシャツを身にまとい、肩にかけられた使い込んだリュックサックの重みを確かめるように歩いていた。
彼は、ニューオーリンズを旅立つ時に老トランペッターがくれたレコードを、今も毎日聴いていた。その音は、完璧とは程遠い、不器用で、しかし、深い悲しみと人生の重みに満ちた音だった。その音を聴くたびに、彼の胸には、ハーヴェイの静かなるコントラバス、ルーシーの衝動的なドラム、そしてレオンの孤高なサックスの音が蘇る。
帰国して数週間が経ったが、六三郎の心は、未だに旅の途中だった。大学のキャンパスに戻っても、友人の声や、街の喧騒が、まるで遠い異国の言語のように聞こえる。教授に言われた「ソウルがない」という言葉は、彼の心の中で、レオンの言葉「魂は言葉の外にある」と重なり合い、彼の創作意欲を麻痺させていた。
「結局、僕は何も掴めなかったのかもしれない」
彼はそう思い、自分の部屋でパソコンを開くことすらできずにいた。ノートパソコンの画面に広がる真っ白なページは、彼の心の中にある、空白のままの「魂」を嘲笑っているように感じられた。
ある日の午後、六三郎は目的もなく、薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。そこには、観光客が入り込むこともない、ひっそりとした時間が流れていた。ふと、彼は一軒の古びた店に目が止まった。看板はかすれていて、店の名前はほとんど読めない。しかし、店の入り口には、数枚のジャズのLPレコードが無造作に立てかけられていた。
彼の心臓が、微かに音を立てて鼓動した。
店内に足を踏み入れると、レコード特有の微かなスクラッチノイズと、深いコーヒーの香りが迎えてくれる。壁一面を覆うレコード棚には、数えきれないほどのLPがぎっしりと並べられていた。照明は控えめで、都会の喧騒から隔絶された、時間がゆっくりと流れるような空間がそこにあった。
カウンターの奥には、小柄で、白髪混じりの無精髭を蓄えた男が、少し猫背で立っていた。よれた白いTシャツの上に、擦り切れたデニムのエプロンを身につけ、静かにコーヒーを淹れている。
「いらっしゃい」
男は、六三郎の顔を一瞥すると、静かに言った。その声は、店の雰囲気によく馴染み、六三郎の心に安らぎを与えた。
六三郎は、カウンターに腰を下ろし、マスターに尋ねた。
「あの、このお店...」
マスターは、六三郎の言葉を遮るように、静かに言った。
「マイルス。ジャズ喫茶『マイルス』だ」
六三郎は、マスターの静かな眼差しに、ニューオーリンズで出会ったハーヴェイを思い出した。彼は、言葉よりも多くを語る、静かなる魂をその目に宿していた。
六三郎は、マスターの静かな眼差しに、ニューオーリンズで出会ったハーヴェイを思い出した。彼は、言葉よりも多くを語る、静かなる魂をその目に宿していた。
「ご注文は?」
マスターの問いに、六三郎は思わず聞き返した。 「...このお店の、一番古いジャズのレコードをかけてもらえませんか?」
マスターは何も言わず、無精髭に手をやりながら、ゆっくりとレコード棚へと歩いていく。そして、埃をかぶった一枚のレコードを手に取ると、ターンテーブルに乗せた。針が盤に落ちると、スピーカーからは、古く、しかし力強いトランペットの音が流れ出した。その音は、まるで遠い異国の地で、人生を謳歌する男の魂の叫びのようだった。
六三郎は、その音に耳を傾けながら、ニューオーリンズでの旅を思い返していた。彼が求めていた「ソウル」は、完璧な音でも、緻密な理論でもなく、人々の人生そのものにあると気づいた。しかし、その「魂」をどう自分の文章に落とし込めばいいのか、答えは見つからない。
「……何か、探しているようですね」
マスターは、六三郎の前にコーヒーを置きながら、静かに言った。六三郎は、ニューオーリンズで出会った人々のこと、そして教授から言われた「ソウルがない」という言葉について、正直に語り始めた。
マスターは、六三郎の話をただ静かに聞いていた。そして、全てを語り終えた六三郎に、彼は何も言わず、ただ静かにコーヒーカップを差し出した。
「それは、あなた自身の問題ですよ。他人のジャズを聴いているだけでは、あなたの魂は見つかりません」
マスターの言葉は、完璧な理論でも、哲学でもなかった。それは、まるでドラムのシンバルを叩くかのように、六三郎の心に直接響いた。彼は、このマスターもまた、自分と同じように、言葉の外にある「魂」を、音を通じて探求してきた人間なのではないかと感じた。
その瞬間、店のドアが静かに開き、一人の男性が入ってきた。
六三郎は、その男性を見て、思わず息をのんだ。彼が着ていた高級なツイードジャケットと、知的な佇まいは見覚えがあった。その男性は、六三郎の大学の教授である夢宮三太だった。
「やあ、城戸さん。いつものやつを頼む」
夢宮三太は、マスターに向かってそう言い、六三郎の隣に腰を下ろした。
「あれ、君は……六三郎くんじゃないか。こんな場所で会うとは、奇遇だね」
六三郎は驚きを隠せないまま、言葉を失った。夢宮三太は、六三郎の服装が以前のIVYスタイルから大きく変わっていることに気づき、興味深そうに目を細めた。
「どうしたんだい、その格好は。何かあったのか」
六三郎は、言葉に詰まりながらも、ニューオーリンズでの旅のすべてを語り始めた。彼は、そこで出会った人々、音楽、そして自分が見つけられなかった「魂」について、夢宮三太に打ち明けた。
夢宮三太は、六三郎の話を静かに聞いていた。彼の穏やかな表情は、ジャズの音色のように、六三郎の心に安らぎを与えた。
そのとき、マスターの城戸が、六三郎と夢宮三太の間に、静かにグラスを二つ置いた。
「三太。お前の生徒は、随分と遠回りをしてきたようだな」
城戸は、夢宮三太に向かってそう言った。彼の声は、マスターとしての静けさとは違い、どこか遠い過去の情熱を感じさせる、かすれた音だった。
夢宮三太は、城戸の言葉に静かに頷いた。
「ああ。だが、彼は探求をやめなかった。それは素晴らしいことだ」
城戸は、グラスにウイスキーを注ぎ、六三郎の前に差し出した。
「探し物は、自分の中にある。他人の言葉や音に、答えはない。あなたが探すべきは、あなたの自身の魂の音だ」
その言葉は、まるでニューオーリンズで出会ったルーシーの衝動的なドラムのようだった。六三郎は、目の前にいるマスターが、ただのジャズ好きのおじさんではないことを確信した。彼は、自らも楽器を奏で、言葉の外にある「魂」を追い求めてきた、一人のジャズプレイヤーなのだと。
つづく
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