【短編小説】「ジャズの旅」⑦
第四章:日本のジャズ喫茶と教授つづき
六三郎は、マスターの城戸が差し出したグラスを手に取った。琥珀色の液体が、微かに揺れる。彼はそれを一口含むと、熱が喉を通り、全身に広がっていくのを感じた。
それは、ニューオーリンズで飲んだ、荒々しく、どこか土の匂いがするようなバーボンとは違っていた。日本のジャズ喫茶のバーボンは、角が取れて丸く、滑らかな味わいだ。それは、まるで故郷の穏やかな風景を思わせるようだった。
「マスターは……ジャズを、やられていたんですか」
六三郎の問いに、城戸は何も答えず、ただ静かに頷いた。その表情には、多くを語らない、過去の重みが滲んでいた。
夢宮三太が、六三郎と城戸を交互に見ながら、口を開いた。
「城戸さんはね、昔、素晴らしいジャズドラマーだったんだ。彼のドラムは、音そのものよりも、音と音の間にある『無音』を大切にしていた」
六三郎は、その言葉に思わず息をのんだ。ニューオーリンズで、ハーヴェイが教えてくれた「土台」、ルーシーが叩きつけた「衝動」。そして今、城戸が語る「無音」。それは、彼が旅で得たジャズの断片を繋ぎ合わせる、最後のピースのように感じられた。
「…無音?」
六三郎の問いに、城戸は静かにグラスを呷ると、答えた。
「音が多すぎると、何も伝わらない。言葉も同じだ。大事なのは、何を語るかじゃない。何を語らないかだ」
城戸の言葉は、完璧な理論を教える教授の言葉とは違っていた。それは、実際に音を奏で、その魂を追い求めてきた人間だからこそ語れる、生の哲学だった。
夢宮三太は、六三郎の様子に気づくと、穏やかな表情で言った。
「六三郎くん。君が探しているのは、言葉の『ソウル』だったね。城戸さんの言う通りだよ。君の文章には、言葉の羅列ばかりで、肝心な『無音』が足りていない」
城戸は、グラスの氷を指でゆっくりとかき混ぜながら、静かに言った。
「お前の文章には、リズムがない。音符(言葉)ばかりで、休符(無音)がない。これじゃあ、読者は息が詰まる」
その言葉は、まるで彼のドラムスティックが、六三郎の頭の中を叩くようだった。彼は、自分の文章に欠けていたものが、言葉そのものではなく、その「余白」であったことを、このとき初めて理解した。
六三郎は、マスターの言葉に衝撃を受け、それまで自分が書き溜めてきた文章を頭の中で再生させた。
確かに、そこには情景や感情を説明する言葉で溢れていた。しかし、読者が想像力を働かせるための「間」や「余白」は、ほとんど存在しなかった。まるで、音符がびっしりと書き込まれた、息苦しい楽譜のようだった。
「…僕の文章は、言葉の羅列だったんですね」
六三郎の言葉に、夢宮三太が静かに頷いた。
「君は、ジャズの即興演奏を聴いたことがあるだろう? そこで、最も美しいのは、音そのものじゃない。音と音の間にある、静寂だ。その静寂に、奏者の感情や、次の音への期待が込められている。言葉も同じだ。読者は、書かれた言葉だけでなく、書かれていない部分から、物語の深層を読み取るんだ」
夢宮三太の言葉は、彼の専門である心理学や哲学の視点から、ジャズと文章の共通点を紐解いていく。それは、六三郎がニューオーリンズで感じた「魂」を、論理的に説明してくれるようだった。
六三郎は、この二人の言葉に、頭の中が整理されていくのを感じた。旅の断片が、一本の線となって繋がっていく。城戸が「無音」を、夢宮三太が「静寂」を語る。二人の言葉は、違うようでいて、同じことを指し示していた。
マスターの城戸が、グラスを静かに磨きながら、言った。
「お前は、旅の途中で、多くのジャズプレイヤーに出会ったんだろう。それぞれの音に、それぞれの人生があったはずだ。その音を、お前の人生というドラムで、叩き直してみな」
六三郎は、城戸の言葉にハッとした。彼は、ニューオーリンズのジャズをただ聴いていただけだった。自分の人生というフィルターを通して、その音を奏で直すことを、忘れていたのだ。
その時、喫茶店のドアが再び開き、一人の女性が入ってきた。彼女は明るい茶色の髪と、いつも笑顔を絶やさない、見覚えのある女性だった。
「お父さん、いらっしゃったんですね」
六三郎は、その女性が夢宮光であり、彼女が夢宮三太の娘だと再認識した。光は軽く会釈すると、マスターの城戸に笑顔を向けた。
「城戸さん。いつもの、お願いしてもいいですか?」
城戸は何も言わず、静かに頷くと、六三郎と夢宮三太のグラスにバーボンを注ぎ足した。そして、光に視線を送った。
光は、その視線に応えるように、カウンターの横にある古いピアノにそっと腰を下ろした。
彼女の指が鍵盤に触れると、店内の空気が一変した。彼女が奏で始めたのは、どこか懐かしいメロディだが、その音は、完璧なテクニックに裏打ちされた、一音一音に神経が行き届いたものだった。それは、六三郎がニューオーリンズで出会った孤高の天才ピアニスト、ヴィンセントの演奏と酷似していた。
つづく
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