渇き ―信頼が数値化された街で―「創作大賞2026ファンタジー小説部門」TALESにて応募中②
第5章 清らかさという異常
翌日、同じ時間に広場へ行くと、リナはもう来ていた。
配給機の近くではなく、広場の外れ、給水塔の影になった場所に立っていた。人目につかない場所を選んでいる、と気づくのに、少しかかった。彼女は、自分がどこから見られているかを、いつも計算している人間だった。
「来たんだ」
リナは言った。意外そうではなかった。来ると、わかっていた顔だった。
「信じる理由はない、って言われたけど」と、僕は言った。「来た」
「理由がなくても来る。それが、あなたの困ったところ」
彼女は笑わなかった。批評だった。
「いい? 最初に言っておく。私はあなたを助けたいわけじゃない。あなたみたいな人間が、何も学ばずに審査で消えていくのを、もう何回も見た。見るのが、嫌なだけ。だから教える。感謝はいらない。感謝されると、貸しになる。貸しは、いつか取り立てたくなる。それが、いちばん人を駄目にする」
淡々としていた。優しさを、彼女は注意深く、優しさに見えないように扱っていた。
「まず、あなたの何が問題か」
リナは、僕の容器を指さした。
「あなたは、困ってる人を見ると渡す。渡すこと自体は、悪くない。問題は、渡し方。あなたは、自分の取り分から、まっすぐ渡す。だから、まっすぐ減る。記録に残る。指数が落ちる。——昨日のおじいさんに、私がどう渡したか、見てた?」
「機械を、操作してた」
「そう。私が減ったように見せて、実際は機械から出させた。私の取り分は、減ってない。記録上は『譲渡』だけど、減ったぶんは、システムの余剰在庫から補填される穴を突いてる。指数は六点落ちた。でも、水は減ってない。六点は、明日、別のやり方で取り返せる。差し引き、私は損してない。それでも、おじいさんには栄養体が渡った」
僕は、その仕組みを、頭の中で何度かなぞった。
「それは……ずるい、んじゃないか」
言ってしまってから、また、と思った。せっかく教わっているのに、僕は相手を責めるようなことを言っている。
でも、リナは、怒らなかった。むしろ、待っていた質問のようだった。
「ずるい。その通り。私はずるいことをしてる。機械を騙して、システムの穴を突いて、人を助けてる。あなたが知りたいのは、たぶんこうでしょ。——善意のためなら、ずるをしてもいいのか」
図星だった。
「答えはない」と、リナは言った。「私は、いいことにしてる。でも、いいかどうかは、私が決めたことで、正しいわけじゃない。あなたは、自分で決めるしかない。まっすぐ渡して、まっすぐ死ぬか。ずるをして、誰かを助けながら、自分も生き残るか。——私は後者を選んだ。きれいごとじゃないよ。後者を選んだとき、私は、自分の中の何かを、ひとつ捨てた」
何を、とは訊かなかった。訊いてはいけない気がした。
その日、リナは僕に、いくつかの「技術」を教えた。
配給機の操作の癖。指数の照合が一瞬遅れる時間帯。譲渡を「貸与」に書き換えて記録上は回収予定にしておく方法。困っている人を助けながら、自分の指数を守る、こまかな手口。一つひとつは、小さなずるだった。法に触れるかどうかは、わからない。法という言葉が、もうこの街区に意味を持つのかも、わからなかった。
覚えながら、僕は、不思議な感覚に襲われた。
これを覚えれば、僕は、誰かを助けながら、生き延びられる。優しさを、捨てずに済む。それは、ずっと欲しかったものだ。なのに、覚えるたびに、胸の奥が、少しずつ重くなっていく。
なぜだろう、と考えて、わかった。
ずるをして人を助けるとき、その「助け」は、もう、まっすぐな善意ではなくなる。計算が入る。技術が入る。減らない方法を選ぶ、という時点で、僕は、自分の損を勘定に入れている。損をしてでも渡す——あの、馬鹿みたいに無防備な善意は、ここにはもうない。
リナの教える技術は、僕を生かす。でも、生かす代わりに、僕の中の、いちばん馬鹿で、いちばん無防備な部分を、削っていく。
「浮かない顔だね」
リナが言った。手を止めずに。
「……これを覚えたら、僕は、たぶん、今までの僕じゃなくなる」
「そうだよ」
彼女は、あっさり認めた。
「今までのあなたは、死ぬ。三日後に。だから、別のあなたになるしかない。それが嫌なら、教わらなければいい。私は止めない」
冷たい言い方だった。でも、嘘がなかった。彼女は、僕を慰めなかった。慰めれば、それは貸しになる。彼女は、貸しを作らないように、徹底して、本当のことだけを言っていた。
その徹底ぶりが、僕には、いちばん優しく見えた。
日が傾いて、リナは技術の伝授を切り上げた。
「明日が、最後だよ。明日教えることを覚えれば、審査は、たぶん通る。指数の低下に、ちゃんとした『理由』をつけられるようになるから。——審査は、低下そのものを罰してるんじゃない。低下を説明できない個体を、危険とみなしてるだけ。説明さえできれば、消されない」
帰り際、僕は、ずっと気になっていたことを訊いた。
「なんで、僕に教えてくれるんだ。本当に」
見るのが嫌なだけ、と昨日彼女は言った。でも、それだけでは、説明がつかない気がした。この街区で、見返りもなく二日も人に時間を使うのは、リナ自身が教えた「技術」に、真っ向から反する行為だった。彼女は、自分の指数を守るために生きている。なのに、僕に時間を使えば、その時間ぶん、彼女は何も得ていない。
彼女は、すぐには答えなかった。
給水塔の影の中で、しばらく、黙っていた。
「昔、私が教わるべきだった人がいた」と、彼女は言った。「その人は、あなたと同じだった。まっすぐ渡して、まっすぐ減って、誰も技術を教えなかった。私も、教えなかった。教える技術を、まだ持ってなかったから」
彼女は、僕を見なかった。
「その人は、消えた。審査で。私が技術を覚えたのは、その後。——間に合わなかった」
それ以上は、言わなかった。
でも、わかった。彼女が僕に教えているのは、僕のためではなかった。間に合わなかった、その誰かのためだった。僕は、その人の、代わりだった。
それは、見返りのない善意では、なかった。彼女は、過去の自分の後悔を、僕で埋めようとしている。僕を助けることで、助けられなかった誰かに、遅れて手を伸ばしている。
純粋な善意ではない。むしろ、ひどく利己的な動機だ。自分の後悔のために、他人を使っている。
なのに僕は、その利己を知って、彼女を、もっと信じたくなった。
純粋な善意より、傷から出てきた利己のほうが、ずっと、本当のものに見えたからだ。
「明日、来る」と、僕は言った。
「理由がなくても?」
「理由が、できた」
リナは、初めて、少しだけ笑った。さっきまでの批評の顔ではなかった。給水塔の影が、その表情を半分隠していて、だから、よけいに、本物に見えた。
その夜、端末に通知が来た。
[第7街区/統合審査 補足通知] 審査対象個体の 審査同行者について: 対象個体は 審査時に 保証人1名を同伴できる 保証人は 信頼指数500以上の個体に限る 保証人の指数は 審査結果により 連動して変動する
保証人。
指数500以上の人間が、僕の審査に同行できる。ただし、その人間の指数は、審査結果と連動して変動する。つまり、僕が審査に落ちれば、保証人の指数も、一緒に落ちる。
僕のために、自分の指数を賭けてくれる人間が、いるだろうか。
リナの指数を、僕は知らない。でも、彼女が500を超えているとは、思えなかった。彼女は、生き延びるために、指数を削って人を助け続けている人間だ。高い指数を、持っているはずがなかった。
500以上で、僕のために指数を賭けてくれる人間。
心当たりは、一人しかいなかった。
カイト。
僕が水を貸し、五百ミリリットルを几帳面に量り取った、あの友人だけが、この街区で、500を超えていた。
第6章 値段のつく頭
カイトの部屋は、僕の二つ上の階にあった。
階段を上がりながら、僕は、リナに教わったことを、頭の中で並べていた。人に何かを頼むとき、まっすぐ頼んではいけない。まっすぐ頼めば、相手は、頼みの価値を自由に値付けできる。足元を見られる。だから、頼みごとは、取引の形にして持っていく。相手にも得がある、と思わせる。そうすれば、対等に近づく。
わかっていた。頭では、わかっていた。
でも、カイトの扉の前に立った瞬間、その全部が、どこかへ消えた。
扉を叩くと、カイトはすぐに出てきた。僕の顔を見て、一瞬、表情が固まった。それから、いつもの笑みを作った。作るのに、ほんの少し、時間がかかった。その時間に、彼が何を計算したのか、今の僕には、少しだけ見えた。
審査対象の人間が、訪ねてきた。何の用か。たかられるのか。それとも——使えるのか。
「よお。どうした、珍しいな」
「頼みがある」と、僕は言った。
まっすぐ、言ってしまった。リナの教えと、正反対に。
カイトの笑みが、深くなった。深くなる、というのは、たぶん、安心したということだ。僕がまっすぐ頼みごとを持ってきた。つまり、足元を見られる側だと、確定したから。
「入れよ」
部屋に入ると、カイトの棚には、容器が並んでいた。水も、栄養体も、僕の何倍もあった。貸して、回収して、また貸して。そうやって増やした備蓄だった。几帳面に量り取られた、あちこちの誰かの、五百ミリリットルの集まりだった。
「保証人が要るんだ」と、僕は言った。「審査に。指数500以上の人間が、同行できる。心当たりが、お前しかいない」
カイトは、座って、僕を見上げた。さっき僕が見上げられていたのと、立場が逆だった。
「保証人ね」と、彼は言った。「それ、保証人の指数も連動するやつだろ。お前が落ちたら、俺も落ちる」
「知ってる」
「知ってて、頼みに来たのか」
彼は、笑っていた。けれど、その目は、笑っていなかった。計算していた。僕を保証して、得るものと、失うものを。
「正直に言うわ」と、カイトは言った。「無理だ。俺、いま500ちょいなんだよ。お前みたいに低下傾向の個体を保証して、もし審査に落ちたら、俺も巻き添えで落ちる。下手したら、俺まで審査対象だ。十何年の付き合いだけどさ、それは——」
彼は、言葉を切った。それから、いつもの、筋の通った理屈を続けた。
「それは、お互いのためにならない、と思うんだよな」
お互いのため。
僕の損になることを断るときに、彼は、いつも「お互いのため」と言う。彼の理屈は、いつも僕を含んでいる。僕のためでもあるかのように、僕を切り捨てる。それが、彼の几帳面さだった。
ここで、いつもの僕なら、引き下がった。そうか、すまない、と言って、部屋を出た。出て、階段を降りながら、自分を責めた。頼んだ自分が悪かった、と。
でも、今日は、違った。
リナの声が、頭の中にあった。まっすぐ頼むな。取引にしろ。相手にも得があると思わせろ。
僕は、初めて、それを試した。
「お前、いま、第6街区に渡りをつけようとしてるよな」
カイトの表情が、止まった。
「先週、僕に水を借りたのは、それだろ。第6街区の知り合いに渡して、統合後に融通をきかせる。そのために、こっちで備蓄を増やしてる」
「……それが、なんだ」
「統合審査の記録は、統合後、第6街区にも共有される。審査に同行した保証人の名前も、残る。——もし、お前が僕の保証人になって、僕が審査を通ったら、その記録は、こうなる。『指数の低下した個体を、リスクを取って保証し、通過させた』。それは、第6街区の人間から見て、どう見える?」
カイトは、答えなかった。
「信用だよ」と、僕は言った。「お前が欲しがってる、第6街区での信用。それが、ただで手に入る。リスクを取って人を助けた記録は、向こうの基準だと、たぶん、こっちより高く評価される。第6街区は、指数の基準が違うって、お前、自分で言ってたよな」
言いながら、僕は、自分の声が、自分のものでないように聞こえていた。
これは、嘘ではなかった。統合審査の記録が共有されるのは、本当だ。保証の記録が残るのも、本当だ。第6街区の基準が違うのも、カイト自身が言ったことだ。僕はただ、本当のことを、カイトが得をするように、並べ替えただけだった。
嘘をつかずに、相手を動かす。それが、リナの教えた技術の、本質だった。
カイトは、長いあいだ、黙っていた。
それから、彼は、笑った。今度は、目も笑っていた。けれど、その笑いは、僕の知っているカイトの笑いとは、違う種類のものだった。
「お前さ」と、彼は言った。「変わったな」
「そうかな」
「ああ。前のお前なら、断られたら、そのまま帰った。今日は、帰らなかった。——いつ覚えた、そういうの」
最近だ、とは言わなかった。リナのことは、言わなかった。言えば、リナが、カイトの計算の中に入ってしまう。利用できる情報として。それくらいは、もう、わかっていた。
「考えただけだよ」と、僕は言った。
「考えた、ね」
カイトは立ち上がって、棚から容器を一つ取った。それを、僕のほうへ差し出した。
「保証人、やるよ。お前の言う通り、悪くない取引だ。——それと、これ。前に借りた、五百のぶん。返すわ」
僕は、その容器を見た。
彼は、貸しを返そうとしていた。あれだけ几帳面に量り取って、返済予定すら登録しなかった、あの五百ミリリットルを、今になって、返そうとしている。
なぜか、わかった。
僕が「使える人間」になったからだ。利用される側から、取引できる側に、移ったからだ。だから、彼は、貸しを清算しておこうとしている。対等な相手とは、貸し借りを、きれいにしておきたい。それが、彼の流儀だった。
僕は、その容器を、受け取らなかった。
「いらない」と、僕は言った。「あれは、貸したんじゃない。やったんだ。返さなくていい」
カイトの手が、止まった。
僕は、自分でも、なぜそう言ったのか、わからなかった。取引としては、受け取るべきだった。水は、貴重だ。僕は審査対象で、一滴でも惜しいはずだった。
でも、受け取ったら、何かが、終わる気がした。
あの五百ミリリットルを「取引」にしてしまったら、僕がカイトに水を渡した、あの馬鹿みたいに無防備な瞬間まで、後から取引に書き換わってしまう。僕は、それだけは、したくなかった。あれは、損だった。馬鹿だった。でも、あの馬鹿さだけは、誰にも、書き換えさせたくなかった。
カイトは、僕を、じっと見ていた。
それから、容器を、棚に戻した。
「……変わってないのかもな、お前」と、彼は言った。小さな声だった。「変わったように見えて、いちばん面倒くさいとこ、変わってない」
それは、たぶん、彼なりの、いちばん正直な言葉だった。
部屋を出て、階段を降りながら、僕は、奇妙な気分だった。
僕は、技術を使った。リナに教わった通り、嘘をつかずに、カイトを動かした。保証人を、手に入れた。成功だった。
なのに、いちばん最後に、僕は、技術を捨てた。受け取るべき水を、受け取らなかった。損を、自分から選んだ。
リナなら、なんて言うだろう。馬鹿だ、と言うだろうか。それとも——。
[第7街区/審査通知] 保証人登録を確認しました 保証人:カイト(指数 503 → 連動監視開始) 審査日:明日 14:00 第3ゲート 同行者は 定刻に同伴のこと
明日。
審査は、明日だった。
リナに教わる、最後の一日が、保証人の交渉で、潰れていた。
第7章 審査
第3ゲートは、街区の北のはずれにあった。
ふだん、人が近づかない場所だ。壁がいちばん高く、監視塔がいちばん密に立っている。そこに、灰色の建物が一つ、埋まるように建っていた。窓はない。入口の上に、端末の表示だけが、青白く光っていた。
統合審査場/第7街区 本日の審査:3件
三件。今日、僕を含めて三人が、ここで裁かれる。
カイトは、先に来ていた。入口の前で、僕を見つけると、軽く手を上げた。笑っていた。けれど、その笑みは、いつもより薄かった。連動監視。彼の指数は、いま、僕と繋がっている。僕が落ちれば、彼も落ちる。彼は、自分の数字が他人に握られている状態を、生まれて初めて、味わっているはずだった。
「来たか」
「来た」
「……なあ」と、カイトは小声で言った。「ちゃんと、説明できるんだろうな。指数が落ちた理由。下手なこと言うなよ。お前が落ちたら、俺も——」
「わかってる」
わかっていた。リナが言っていた。審査は、低下そのものを罰しているのではない。低下を説明できない個体を、危険とみなしている。説明さえできれば、消されない。
でも、その「説明」を、僕は、最後まで教わっていない。
扉が開いた。
中は、思っていたより、ずっと簡素だった。椅子が一つ。その正面に、大きな端末の画面。人は、いなかった。審査官は、人ではなかった。
「対象個体、着席してください」
声は、天井から降ってきた。感情のない、調整された声だった。僕は椅子に座った。カイトは、僕の斜め後ろ、保証人の位置に立った。
画面に、僕の記録が、流れ始めた。
蒲田 カズト/指数 385 30日間の推移:412 → 385(−27) 減算事由の照合を開始します
画面に、この一ヶ月の、僕の「損」が、すべて表示された。
広場の老人への譲渡。マイナス十五。カイトへの貸与、回収なし。ミナへの栄養体。それから、僕が忘れていた、もっと細かい、いくつもの譲渡。誰かに何かを渡すたび、数字が削られていた。その記録が、上から下へ、淡々と流れていった。
自分の一ヶ月が、これだけ「損」でできていたことに、僕は、画面を見て、初めて気づいた。
「対象個体に問う」と、声が言った。「これらの減算事由は、いずれも回収見込みのない譲渡である。継続的な非回収行動は、システムにとって、資源配分の予測を困難にする要因となる。——なぜ、回収できない相手に、資源を譲渡したのか」
なぜ。
審査が訊いているのは、それだった。なぜ、損をしたのか。なぜ、馬鹿なことをしたのか。
僕は、リナの教えを、思い出そうとした。説明をつけろ。低下に、理由を与えろ。たとえば——「将来の関係構築のための投資だった」とか。「情報を得るための対価だった」とか。そういう、システムが理解できる「理由」を、後から貼りつければ、たぶん、通る。損を、損でなかったことにすれば、通る。
口を開いた。
でも、出てきたのは、用意したはずの「理由」ではなかった。
「困ってる人が、いたからです」
斜め後ろで、カイトが、息を呑むのが聞こえた。
「それは、回収を見込んだ行動ではない」と、声が言った。「将来的な見返りを、期待していたのか」
「していません」
「では、なぜ」
「困ってる人がいて、僕の手元に、渡せるものがあったからです。それだけです」
しまった、と思った。これは、いちばん言ってはいけない答えだった。回収見込みのない譲渡を、回収見込みのないまま、肯定している。損を、損のまま、認めている。これでは、審査は通らない。カイトの指数まで、道連れになる。
画面が、一瞬、止まった。
長い、沈黙だった。
声が、再び降ってきた。けれど、その声は、さっきまでと、少しだけ、違っていた。
「……対象個体の回答を、記録した」と、声は言った。「補足を問う。あなたは、これらの譲渡を、後悔しているか」
後悔。
審査が、後悔を訊いてきた。たぶん、これは、最後の逃げ道だった。後悔している、と答えれば、僕は「過ちを認識した個体」として扱われる。今後は損をしません、と誓えば、改善の見込みありとして、通るかもしれない。それが、システムの求めている答えだった。
僕は、自分の一ヶ月を、もう一度、画面で見た。
老人。ミナ。それから、カイトに渡した、あの五百ミリリットル。回収できなかった、馬鹿みたいな損の、ぜんぶ。
「後悔は、しています」と、僕は言った。
カイトが、ほっとしたのが、背中で感じられた。
「でも」と、僕は続けた。「もう一度、同じ場面に戻っても、僕は、たぶん、同じことをします。後悔するのに、やめられない。それは、損だと、わかっています。馬鹿だと、わかっています。——でも、それをやめたら、僕は、僕じゃなくなる気がするんです」
言い終えて、僕は、目を閉じた。
落ちる、と思った。これで、落ちる。説明にも、反省にも、なっていない。僕は、システムが求めたどの答えも、出さなかった。出せなかった。最後の最後で、僕は、嘘も、技術も、使えなかった。
画面が、再び、止まった。
今度の沈黙は、さっきより、ずっと長かった。
審査結果を算出中…… 減算事由:継続的非回収行動 改善見込み:対象個体は 行動の継続を明言 ──── 判定基準の再照合を実行
判定基準の、再照合。
そんな表示は、見たことがなかった。審査は、何かを、迷っていた。あるいは、迷っているように、見えた。機械が迷うはずはない。でも、画面の上で、何かの計算が、長く、止まっていた。
やがて、結果が出た。
──── 判定:条件付き通過 分類変更:「予測困難個体」→「低リスク非効率個体」 備考:当該個体の譲渡行動は 一貫性を有し 予測可能性の観点から リスクは限定的と再評価 保証人の連動:解除(指数変動なし) ──── 移動制限:解除 統合後の街区配属:追って通知
通過。
条件付き、だった。でも、通った。
僕は、しばらく、その表示の意味が、わからなかった。
予測可能性。一貫性。——審査は、僕の損を、評価したのではなかった。僕が、いつも同じように損をする、ということを、評価していた。僕は、誰に対しても、困っていれば渡す。それは、計算高い人間より、ずっと、予測しやすい。いつ裏切るか、わからない人間より、いつも損をするとわかっている人間のほうが、システムにとっては、扱いやすい。
僕の「馬鹿さ」は、リスクではなく、一貫性として、記録された。
それは、救いだろうか。それとも、もっと深い、屈辱だろうか。僕にはわからなかった。僕は、自分が人間として通ったのか、それとも、予測しやすい家畜として通ったのか、区別がつかなかった。
審査場を出ると、カイトが、待っていた。
連動は、解除されていた。彼の指数は、もう、僕と繋がっていない。彼は、安全だった。だから、もう、笑う必要も、なかった。
なのに、カイトは、笑っていなかった。
「お前さ」と、彼は言った。「審査で、なんであんなこと言った。後悔してるのに、また同じことするって。——あんなの、落ちる答えだろ。俺まで、道連れにする気だったのか」
「ごめん」と、僕は言った。「でも、嘘は、つけなかった」
カイトは、僕を見た。長く、見た。
それから、彼は、ふいに、目を逸らした。
「……俺さ」と、彼は、小さく言った。「あの場で、お前が嘘ついて通ろうとしてたら、安心したと思うんだよ。ああ、こいつも、こっち側に来たって。——でも、お前、来なかった。最後まで、来なかった」
彼の声は、いつもの、筋の通った声では、なかった。
「なんか、ずるいよな。お前」
それだけ言って、カイトは、先に歩いていった。
僕は、彼の背中を、見送った。ずるい、と彼は言った。損をしてばかりの僕が、ずるい、と。その言葉の意味を、僕は、まだ、うまく掴めなかった。
その夜。
部屋に戻ると、扉の前に、容器が一つ、置いてあった。
水だった。五百ミリリットル、きっちり。
返済予定の登録は、なかった。誰が置いたのか、記録には、残っていなかった。
第8章 統合前夜
統合は、十日後に決まった。
[第7街区/統合通知] 第6街区との統合を 10日後に実施 統合後 全個体の指数を 新基準で再算定 再算定の詳細は 非公開 個体は 統合日まで 現配属にて待機
再算定の詳細は、非公開。
その一行が、街区中を、静かな恐慌に陥れた。
誰も、自分の指数が、統合後にどうなるか、わからない。今の385が、新基準で、いくつになるのか。上がるのか、下がるのか。基準が変わるだけで、人の価値は、一夜にして書き換わる。昨日まで安全だった人間が、明日には審査対象になるかもしれない。その逆も、あるかもしれない。
わからない、というのは、いちばん人を不安にさせる。人は、不安になると、二つのことをする。溜め込むか、群れるか。
街区の人間の多くは、溜め込んだ。配給を、限界まで貯めた。誰にも貸さず、誰からも借りず、自分の容器を抱えて、扉を閉ざした。統合という嵐が来る前に、自分の備蓄だけを、守ろうとした。
でも、何人かは、群れた。
その何人かが、リナのところに、集まり始めていた。
審査の翌々日、僕がいつもの給水塔の影に行くと、リナのまわりに、見知った顔が、いくつかあった。ミナがいた。それから、審査の日に僕が見かけた、寡黙な大男のタケ。もう一人、若い女の子がいた。エミ、とミナが呼んでいた。ミナが、栄養体を分けたがっていた、あの子だ。
「来たね」と、リナが言った。
「これは……何?」
「集まり、かな」と、リナは言った。「統合まで、十日。一人で乗り切れる人は、それでいい。でも、無理な人もいる。指数が低くて、再算定で消えそうな人。——一人ずつバラバラに溜め込むより、何人かで、配給を融通し合ったほうが、生き延びる確率は上がる。計算上は」
計算上は、とリナは言った。彼女は、決して、助け合おう、とは言わなかった。生き延びる確率が上がる、と言った。善意ではなく、戦略として、それを提示した。
でも、集まっている顔ぶれを見れば、わかった。
ここにいるのは、みんな、損をしてきた側の人間だった。ミナは、エミに栄養体を分け続けて、指数を削っていた。タケは——理由はわからないが、高い指数を持ちながら、誰とも関わらずにいた。エミは、若くて、楽観的で、たぶん、自分の数字をちゃんと管理できていない。
溜め込める人間は、ここには、来ない。来るのは、溜め込めない人間ばかりだった。
リナは、戦略だと言った。でも、彼女が集めたのは、戦略的に価値のある人間ではなかった。彼女が集めたのは、放っておいたら消えそうな人間ばかりだった。
彼女は、また、やっている。善意を、戦略の顔をさせて、配っている。
「ルールは、ひとつ」と、リナが言った。「貸し借りは、記録する。誰が、誰に、何を渡したか。返せないなら、返せないと、最初に言う。——いちばん駄目なのは、黙って溜め込むことと、黙って借り逃げすること。この二つだけは、無し。あとは、自由」
黙ること。
彼女は、嘘ではなく、沈黙を、いちばんの禁忌に置いた。語らないことも、裏切りだと。それは、この街区の流儀とは、正反対だった。この街区では、黙っていることが、いちばん安全で、いちばん賢い。リナは、その安全を、禁じた。
「カズトは」と、リナが僕を見た。「審査、通ったんでしょ。条件付きだけど。——なら、あなたは、もう、ここのいちばん弱い個体じゃない。だから、入れる。入りたければ」
いちばん弱い個体じゃない。
奇妙な入会条件だった。普通、弱い人間ほど、助けが要る。でも、リナの集まりは、弱すぎる人間を、入れなかった。いや、違う。リナは、僕を試していた。審査を通った僕が、もう一段、降りてくるかどうかを。せっかく「予測しやすい個体」として安全になったのに、また、損をする側に、自分から戻ってくるかどうかを。
「入る」と、僕は言った。
リナは、何も言わなかった。ただ、少しだけ、場所を空けた。給水塔の影の中に、僕が立てるぶんの、場所を。
それが、たぶん、僕が生まれて初めて手に入れた、居場所だった。
損をしないと、入れない居場所。
その夜から、僕たちは、配給を融通し合った。
仕組みは、単純だった。それぞれの配給を、いったん持ち寄って、その日いちばん足りない人間に、回す。回したぶんは、記録する。誰かが余裕のある日に、返す。返せない日は、返せないと言う。
最初の数日は、うまくいった。
ミナは、毎日、誰かのために何かを差し出した。エミは、若いだけあって、配給の割当が比較的多く、よく回す側に回った。タケは、ほとんど口をきかなかったが、自分の取り分を、きっちり、共同体に出した。出したぶんを、決して回収しようとしなかった。
そして、わかったことが、あった。
タケの指数が、なぜ高いのか。
彼は、誰とも関わらないことで、指数を保っていたのではなかった。逆だった。彼は、ずっと、こうやって、誰かに何かを与え続けてきた人間だった。ただ、与えた相手が、いなくなった。だから、一人でいた。与える相手を、失った人間が、与える先を持たないまま、高い指数を抱えて、ただ、固まっていた。
「あんた、元は、何してた人?」
ある夜、僕は、タケに訊いた。
タケは、長いあいだ、答えなかった。それから、低い声で、ぽつりと言った。
「守る側だった」
それだけだった。何を守っていたのか、誰を守っていたのか、彼は言わなかった。でも、その「だった」の過去形に、僕は、自分と同じ匂いを、嗅いだ。守るべきものを、もう、失ってしまった人間の、過去形だった。
居場所は、できた。
ミナの優しさと、エミの若さと、タケの過去と、リナの戦略と、僕の——僕の、何だろう。僕が、この共同体に出せるものは、何だろう。
考えて、ひとつ、思い当たった。
僕は、いちばん損をする。だから、いちばん信用されている。審査が、僕を「予測しやすい個体」と呼んだように、この共同体でも、僕は、いちばん予測しやすい人間だった。カズトは、必ず差し出す。カズトは、回収しない。だから、みんな、僕には、安心して、足りないと言えた。
僕の馬鹿さは、ここでは、信用の土台になっていた。
それが、嬉しかった。生まれて初めて、自分の損が、誰かの安心になっていることが。
でも——。
僕は、リナの、最初の言葉を、忘れていなかった。
彼女は、共同体を作るとき、こう言った。いちばん駄目なのは、黙って溜め込むことと、黙って借り逃げすること。
わざわざ、それを禁じた。
ということは、リナは、知っていたのだ。こういう共同体は、必ず、その二つで、壊れる。溜め込む人間か、借り逃げする人間が、必ず出る。それを、彼女は、過去に、経験していた。だから、最初に、禁じた。
禁じれば、防げると、思っているのだろうか。
それとも、禁じても、防げないと、知っていて、それでも、禁じたのだろうか。
給水塔の影で、配給を分け合う、五つの顔を見ながら、僕は、ふと、寒気がした。
この中の、誰かが。
いつか、黙って、溜め込むか、借り逃げする。
リナの言葉は、そう、言っているように、聞こえた。
[第7街区/統合まで残り7日] 本日 飲料水の配給を さらに −10% 理由:統合準備に伴う 在庫の事前再配分
配給が、また、減った。
居場所ができた、ちょうどそのときに、分け合うものが、減り始めた。
分けるものが豊かなうちは、誰でも、優しくいられる。試されるのは、これからだった。



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