第二章 ボローニャ留学記②
第二章 エスプレッソの時間
翌朝、透子は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
まだ外は薄く青く、窓の向こうの通りには人の気配がほとんどなかったが、遠くのどこかで金属のシャッターが上がる音がして、それだけでこの街がもう朝を始めているのだとわかった。
布団の中でしばらく天井を見上げ、彼女は自分がここで暮らしていることを、毎朝のように少し遅れて思い出す。
思い出す、というより、身体のどこかにようやく追いつかれるような感じだった。
台所で水を沸かし、少し迷ってから小さな鍋でオートミールを温める。
日本にいるころは、朝食をこんなふうに気にしたことはほとんどなかった。
だがボローニャでは、朝に何を食べるかが、その日の輪郭を決めるように思える。
パン屋の甘い香りに引かれて外へ出る日もあれば、部屋で静かに済ませてしまう日もある。
どちらにしても、朝は彼女にとって、この街と最初に言葉を交わす時間だった。
大学へ向かう途中、いつものバールの前で透子は足を止めた。
店の中には、すでに何人かの客が立っていて、カウンター越しに店主が手早くカップを動かしている。
彼女はまだその場で注文を言うことに少し緊張していたが、それでも、何度か通ううちに顔を覚えられたのか、店主は彼女を見ると軽く顎を上げた。
「Buongiorno.」
「Buongiorno」と透子も返す。
たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥に小さな熱が残る。
彼女はカウンターに近づき、慣れない発音でエスプレッソを頼んだ。
短く、濃く、苦い液体が小さなカップに注がれる。
それを受け取ってひと口飲むと、舌の上に鋭い苦みが走り、そのあとに驚くほどすっきりした余韻が残った。
この味を、最初はただ強すぎるとしか思えなかったのに、最近ではむしろ、それが朝の空気の一部であるように思えてきた。
苦みのあとに来る静けさ。
彼女はそれを、少しずつ信じるようになっていた。
その日、大学では担当教員との初めての個別面談があった。
年配の教授で、眼鏡の奥の目はやや鋭かったが、話し方には妙な急ぎがなかった。
透子の研究計画はまだ粗く、調査したい資料の範囲も広すぎたが、教授はページをめくるように彼女の書類に目を通し、いくつかの箇所に赤いペンで短いメモを書き込んだ。
何を言われても、彼女はその場で完全には理解できないことが多かったが、それでもこの人は自分を急かさない、と感じられた。
急かされないことは、異国では想像以上に大きい。
とくに透子のように、まだ自分がこの土地にいていいのかどうかをどこかで確かめ続けている人間にとっては。
面談のあと、彼女は図書館へ行く代わりに、少し遠回りして市場のほうへ歩いた。
目的があったわけではない。
ただ、午前のうちに街をもう少し見ておきたかった。
市場には野菜や果物、チーズやハムや花が並び、店員たちは大きな声で客を呼び込み、買い物袋を手にした人々が細い通路のあいだを行き来していた。
その喧騒の中でも、透子は不思議と落ち着いていた。
日本の市場とは違う匂いがしたが、知らないことに圧倒されるというより、むしろ、ここにはまだ自分の知らない生活が無数にあるのだと感じることのほうが、彼女には慰めに近かった。
果物売りの若い男が、彼女の前でオレンジをひとつ手に取り、笑って何か言った。
透子は一瞬反応できず、聞き取れた単語だけを拾って、曖昧に微笑む。
相手もそれ以上を求めず、オレンジを秤に乗せた。
そうした些細なやり取りのあとには、いつも少しだけ疲れる。
けれど、その疲れは日本にいたころのものとは違った。
あの頃は、仕事のための疲れだった。
ここでは、言葉の海を小さく泳いだあとの疲れだった。
どちらが良いということではない。
ただ、透子はその違いを、身体で覚えつつあった。
午後、研究室に戻ると、同じ留学生のひとりがコピー機の前で立ち尽くしていた。
名前はエレナといった。
南イタリア出身で、笑うと目尻が大きく下がる。
透子とエレナはまだ親しいというほどではなかったが、顔を合わせれば短く会話を交わすようになっていた。
エレナは機械の表示を見て眉をひそめ、透子に助けを求めるような視線を送った。
透子は一緒にボタンを確認し、紙の向きを直し、ようやく一枚目が出てくるのを見届けた。
それだけのことなのに、エレナはまるで救われたかのように肩の力を抜き、大げさなくらい感謝の言葉を繰り返した。
「ここでは、何でもちょっとだけ難しいね」
そう言って笑ったエレナの言葉が、透子の中で妙に長く残った。
何でもちょっとだけ難しい。
たしかにそうかもしれない。
だが、その「ちょっとだけ」が積み重なると、暮らしはいつのまにか別の形になる。
透子はそのとき、ほんの少しだけ、この街で人と助け合うことの重さを知った。
孤独は一人で抱えているあいだは硬いが、誰かに触れられると、思いのほか脆くなる。
それを彼女はまだ言葉にできなかったが、感じることだけはできた。
夕方、部屋に戻ると、窓の外が薄い金色に染まっていた。
下の階の中庭では、誰かが干していたシーツを取り込んでいる。
遠くで教会の鐘が鳴り、車のクラクションが一度だけ短く響いた。
透子は机に座り、その日もらった資料を広げたが、しばらくは読まずに、ただページの上に落ちる光を見ていた。
ボローニャの朝はエスプレッソの苦みから始まり、昼は人の声に満ち、夕方には静かな金色に変わる。
その変化の中に身を置いていると、彼女は、自分の中の時間もまた少しずつこの街の速度に合わせていくのを感じた。
まだ、何も大きなことは起きていない。
けれど、何も起きていないように見える日々のほうが、あとから振り返ると、いちばん深く人を変えているのかもしれない。
透子は窓を少しだけ開け、夕方の空気を部屋に入れた。
それは石の匂いと、遠い料理の匂いと、乾いた紙の匂いが混ざった、たしかにこの街のものだった。
彼女はその匂いを吸い込みながら、まだ名前のない親しさのようなものが、自分の内側に静かに根を下ろし始めていることを、ぼんやりと感じていた。

いいなと思ったら応援しよう!
はぁ、はぁ……っ! お願い、です……!
『怪獣の腹の中で』を……どうしても、私の手で「紙の本」にしたいんです……っ!
あなたの、そのサポートが……本の、一ページに、なります……っ。
はぁ……応援、してくれませんか……っ?