【第一章】 梅林で出会った少女 連載小説 『華恋、海へ還る 〜穂高を愛したマーメイドストーリー〜』
2020年6月末。福井県若狭町成出。
その年の梅の収穫はすでに終わり、梅林には静かな風が流れていた。
目の前には三方湖。
さらにその向こうには梅丈岳を主峰とするレインボーラインの稜線が見える。
僕は古民家から道路を渡り、湖畔の梅林に腰を下ろし、そこからの景色をぼんやり眺めていた。
「ええ場所やな・・・」
誰に言うでもなく、そう呟く。
僕の名前は東堂大地・・・45歳。
旅行会社勤務などを経て、今は神戸で自転車店を営んでいる。
ただの店ではない。
自転車を売るだけではなく、地域を変えるための活動にも力を入れていた。
「若狭を変えたい!」
関西から車で2〜3時間の距離にあるこの場所を、ただの通過点ではなく、滞在したくなるリゾートにしたい。
サイクリストが集まり、人が笑い、地域にもう一度血が通うような場所に。
そのための拠点として、この古民家を借りた。
「まあ、まずは草刈りからやけどな」
苦笑いしながら立ち上がる。
現実は理想ほど綺麗ではない。
古民家は想像以上に傷んでいて、やることは山ほどあった。
その時だった。
遠くで空気が変わる。
「ん・・・?」
空が急に暗くなる。
風が一段階強くなり、遠くで雷鳴が響いた。
「あ、これアカンやつやな。」
言った直後、雨が降ってきた。
それはすぐに勢いを増し、梅林を叩きつけるような豪雨になる。
「うわっ、マジか〜!」
慌てて草刈りのグラインダーを中へ運び込む。
その夜は降り続いた。
古民家の屋根を叩く雨音だけが、やけに大きく響いていた。
「今日の作業はもうええか・・・。」
そう言って、早めに床についた。
そして翌朝。
雨は止んでいた。
曇り空の隙間から、薄い光が差している。
空気は湿っているが、妙に澄んでいた。
「ちょっと歩くかぁ〜。」
梅林の様子を見に行くことにした。
湖畔の方へと足を向ける。
ぬかるんだ地面を踏みしめながら歩いていると、違和感に気づいた。
「誰か倒れてる?」
最初は木の影かと思った。
だが近づくにつれ、それが“人”だと分かる。
足が止まった。
「・・・え?」
全裸でうつ伏せに倒れた少女だった。
長い黒髪は雨で濡れ、地面に広がっている。
身体には無数の擦り傷や切り傷。
傷口には鱗のようなものが食い込んでいた。
「なんやこれ・・・?」
思考が一瞬止まる。
慌てて持っていたタオルをかけて声をかける。
生きているのか死んでいるのか分からない。
だが身体はかすかに上下していた。
「息はあるな?良かった〜。」
その時、少女がゆっくりと頭を起こす。
大きな瞳が、まっすぐ僕を見た。
「気が付いたんか?」
思わずホッとした。
少女は何か言おうとするが、声にならない。
僕は自分のジャケットを脱ぎ、そっと彼女の身体にかけた。
「すぐに救急車を呼ぶから待っててな!」
そう言った瞬間だった。
少女の顔が強く歪む。
「だ、だめです!」
「え?」
「・・・お願いです。」
かすれた声だったが、必死だった。
「誰も呼ばないでください。」
「いや、酷い怪我やで?」
「だめ・・・です。」
「病院もあかんのか?」
少女は首を振る。
「警察は?」
さらに強く首を振った。
理由は分からない。
だが明らかに、困った表情をしている。
「なんでや?」
問いかけても、少女は答えられない。
「わかりません・・・。でも他に人を呼ばれるのは怖いんです。」
その言葉だけが、やけに真っ直ぐだった。
僕はしばらく黙った。
普通ならあり得ない状況や。
でも、この子の目だけは嘘をついていなかった。
「・・・しゃあないな。」
小さく息を吐く。
「とりあえず、歩けるか?」
少女はゆっくりと頷いた。
「とりあえず、その格好で外はアレやから、家の中に入ろう!」
その時、少女の視線が地面に落ちる。
そこには、光る鱗の破片。
一瞬だけ、少女の表情が曇った。
「どうした?」
「いえ・・・。」
そう言ったきり、少女は何も言わなかった。
ただ、その目には説明できない悲しさが宿っていた。
その理由を知るのは、まだ先のことになる。
僕はこの時、まだ何も知らなかった。
この少女が“人間ではない、別の何か”かもしれないということも。
そして、この出会いが、若狭という土地そのものを巻き込んでいくことになるということも。
(第一章 了)
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