📖 キリスト者はだれでもアーティスト? (Artists, Citizens, Philosophers: Seeking the Peace of the City)
*本記事は、以前に投稿した「『内』から文化を浸透させてゆくキリスト者」の続編にあたる。その記事は一冊の本を紹介したもので、著者Duane K. Friesenの主張は「キリスト者は芸術家として、市民として、また哲学者として、批判的かつ独創的に文化に働きかけてゆくよう期待されている」というものであった (詳しくは本記事末尾のリンクを参照されたい)。本記事はそのうち「芸術家」(artist) の側面に光を当てたものである。
さて、本記事が取り組む問いは「キリスト者が芸術家であるとはどういうことか」というものである。
先に断っておくと、著者のFriesenはキリスト者が職業としての "芸術家" になるべきだとか、芸術作品を発表するべきだなどと言っているのではない。キリスト者はだれでもアーティストになることができる、というのが著者の主眼である。
*本記事では文体上の理由から「芸術/芸術家」と「アート/アーティスト」とを言い換え可能なものとして、同じ意味で用いることとする。
著者の考えの前提には「神がつくった世界は美しい」という確信がある。そのうえで、神が散りばめた美しさに感動し、その美しさを味わい、そして世に伝えてゆくこと、それこそがアーティストたるキリスト者の使命であると語るのだ。
独創性と「日常的な芸術」
芸術ということばを聞けば、詩、音楽、絵、建築などが思い浮かぶ。しかし著者は「日常的な芸術」の大切さを重視する。著者の言うアートとは、美術館やコンサートに行かなければ味わえないというものではないのだ。
この「日常的な芸術」には、部屋をどのように飾るか、料理をどのように盛るか、食器をどのように並べるか、などが含まれる。少しの独創性 (creativity) を働かせることで、平凡に見える日常生活にさえアートをもたらすことができるというのだ。
「無責任な芸術」への批判
さて、著者の主張には「独創的」だけでなく「批判的」(critical) な視点の重要性も含まれていた。 芸術を味わいまた表現するときにもこの批判的な視点は欠かせない。なぜなら芸術は悪いかたちでも用いられうるからだ。
たとえば、あのナチスが芸術作品を "収集" していたことはよく知られている (ヒトラー自身も若い頃は芸術家を志していたらしい)。しかしその手段と目的は決して容認できないものであった。
彼らは芸術品を手に入れるために略奪を繰り返し、また党のイデオロギーに合わないと見なした絵画や彫刻を「退廃芸術」と呼んで破壊もしていた。そのような芸術の "味わい方" には徹底して批判的になる必要があるのだ。
著者は「芸術であれば、美しければ何でもいい」という無責任なアートを良しとしない。神がつくった美しい世界また人間を汚すことなく、責任をもって芸術を楽しみまた表現すること、それこそが「批判的」に芸術を味わううえで大切な心構えであるというのだ。
利便性主義 vs. アート
また、アートを一切不要とするような考えにも抵抗しなければならない。「使えるのであれば、便利であれば何でもいい」と考える利便性あるいは機能性主義 (functionalism) などがその代表例である。
もちろん、利便性を追求するなかで機能美を得たものもあるだろう。しかし、機能性・便利さだけを追い求めたアイテムはえてして見た目も凡庸で、美しさに目が奪われるということも少ない。大量生産されたものであることが多く、使えなくなればすぐ捨てられてしまうだろう。
一方、芸術的につくられたもの、美しくデザインされたものには心を奪われやすく、大事に使おうという意識がより働くかもしれない。愛着が湧くことで、もし壊れてしまっても他のかたちで再利用できないかと思わせてくれるかもしれない。そのように考えると、広い意味でのアートには神がつくったこの美しい世界を守ってゆく力があるとも考えられるのだ。
*著者はアートがいわゆるサステナブルであること、環境にやさしいものであることの大切さも強調している。分かりやすい具体例としては、廃材を用いてつくるアート作品などを挙げることができるだろう。
キリスト教的ではないアートについて
最後に、「キリスト教的ではないアートについてどう考えればよいか」という問いにも触れておきたい。
このいわゆる世俗的 (secular) な芸術について、著者は肯定的な立場に立っている。なぜならアートは、それがいかなる源泉をもつものであれ、キリストの光に照らされ、神の美のうちに招かれうるからだ。
そのような神への信頼にもとづいて、著者はキリスト者がキリスト教以外のアートから学ぶようにと勧める。非キリスト教的な芸術であったとしても、あるいは宗教的ですらないアートであったとしても、それらは真なるもの、善なるもの、美なるもの、あるいは、美が損なわれてしまったこの世界の現実を表現しているかもしれないのだ。
一例として著者が挙げているのは、ピカソの『ゲルニカ』である。ドイツによる無差別爆撃への抗議として描かれた作品だ。

この作品にははっきりとした宗教的モチーフは描かれておらず、その意味で非宗教的な、世俗的な絵画であると言える。にもかかわらず、この絵は戦争の悲惨さ、戦争を生み出した人間の愚かさ、美が失われてしまった世界の残酷さを暴き出し、「この世界には神も仏もないのか。いるとしたら神はどこにいるのか。人間はもう変わることができないのか」などのような宗教的な問いを抱かせる。
あるいは、『ゲルニカ』は暴力が日常となってしまったこの世界のゆがみを思い出させ、批判し、そうではない世界があり得るはずだと思わせる預言的な想像力 (prophetic imagination) を与えてもくれる。このように、キリスト者は非宗教的なアートに動かされ、宗教的な「神の平和」(シャローム) の回復にむけて歩んでゆくということがあり得るのだ。
*この「預言的な想像力」は昨年亡くなった旧約学者ウォルター・ブルッゲマンが提唱した概念で、代表的な著書のタイトルにもなっている。
ところで、日本の文脈におけるキリスト教的でないアート (とくにJ-Pop) については友人とラジオで話したことがある。もしよければお聞きください。
少し長くなってしまったが、まとめよう。
キリスト者はアーティストとして、神のつくった世界の美しさに感動し、味わい、それを表現してゆくという使命を任されている。必ずしもたいそうな作品を生み出す必要はない。神にあたえられた想像力と独創性を働かせ、部屋を美しく飾ったり、料理をきれいに盛ったり、環境にやさしいものを選んだりすること。あるいは、幅広い背景のアートからこの世界の美しさを教えてもらうこと。あるいは、この世界の美しさを汚そうとする制度や主義を批判的に見極め、アートをもってその力に抵抗すること。私たちは色々なかたちで、残酷ながらも美しいこの世界に感動しながら、アーティストとしての使命を果たしてゆくことができるのだ。
*残りの二つ「市民」と「哲学者」についてはまた気が向けば、ということにしたい。
