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【保育士の悩み】進級時、自分の元クラスを否定されたように感じたら?心理学で救われた経験談

4月からは新しい学年、新しいクラス。

子ども達は「お兄ちゃん、お姉ちゃんになるんだ!」と、ちょっぴり背伸びをしながら不安やワクワクを味わう季節ですね。

本来、新たなお友達、保護者、保育士との出会いもあり、とても前向きな気持ちになる…はずなのに、

3月の中旬を超えるころ、保育士間ではこんな会話が聞こえてきます。

「私次、三歳児だって。今、〇〇先生が受け持ってるあのクラスだよ。」
要は、次に自分が受け持つクラスが大変そうだけど、それは今の担任のやり方がよろしくないと言いたい。

4月になると新入園児が入ったり、新クラスの準備をしたり、物理的な忙しさは避けて通れないこの時期だから心の余裕がなくなるのも当然です。

追い打ちをかけるように
「え!これも教えてもらってないの?」
「これくらい自分でやってもらわなきゃ困るなぁ」
と、子どもを介して前のクラスのやり方を否定してかかる。

その度に、子ども達に対して「ごめんなさい」と、
その対抗心メラメラの保育士に対して、
「私ですみませんでした」というやるせない感情と、
「こうなった背景も知らずに」という怒りが
同時に押し寄せます。

今回は、新クラスに移行する時期に起こりがちな、こんなぐちゃぐちゃな心を整理していきましょう。

自分の保育を否定されたと感じるときの葛藤の仕組み

そもそも私は、子ども達に対して、『自立を促す』ということが苦手でした。

だから、新クラスになったとき、
「次はそんなことにならないようにしなきゃ!」
「子ども達自ら活動できる環境にしなくては!」
と、強い意思を持って保育に挑む。

でも何かがちがう。ずっと違和感がある。

今、当時を思い返してみると、
子ども達には、
「一人ひとりの気持ちに寄り添って、その子のペースに合わせて成長を見守りたい」
「甘えたい気持ちも受け止めたい。今、着替えができなくても、靴が履けなくても、大人になったら絶対できるんだから、そんなに焦らなくてもいいじゃない。」

こんな調子で、子どもへの寄り添いが何より大切だと思いながら過ごしていました。

一方で、周囲の保育士には、
「できない人だと思われたくない。」
「流れを乱して迷惑はかけられない。」
「この先生は、こういう言葉かけをするから合わせなきゃ。」

と、表面上頑張る。一生懸命意図を汲もうとする。

子どもに寄り添う自分の意思を優先させると周囲から指摘が入る。
周囲の保育に合わせると、自分のやりたいこととは逆で保育がどんどん苦痛になっていく。

という葛藤状態にあったのです。

当時必要だったのは、子どもでも周囲の保育士でもなく自分への傾聴

葛藤の仕組みを冷静に見てみると、私はまず、周囲の保育士の視線を気にしていることがわかります。

でも本当にしたいことではない。

だから、保育室に保育士が自分一人になったときや、自分が心を許せる保育士との時間は、子どもの言葉を存分に聴きたいという人格に変わっていました。

ただ、不思議なことに、自分が理想としているはずの関わりをしているとき、楽しいか…というと、そうではない。

その違和感について理由を考えたとき、「子どもに寄り添ったり、甘えさせてあげたりしたい」といのは、

子ども達がかわいそう。子ども達に申し訳ない。という感情で、
なりたい私の姿ではなかったからです。

じゃぁ、自分は本当はどうなりたいの?
自問自答を繰り返す。

転機はアドラー心理学との出会い

長い間、答えが出ない中、
アドラー心理学による考え方の中で、物事を選択したり決定したりする際に、好き嫌いではなく、建設的か非建設的かで判断するという言葉に出会います。

建設的な判断とは、自分を含める周囲集団にとって何が最善か?を考えたうえで決定することです。

保育現場で例えると、「あの先生の言葉がけは好きじゃないから、私は使わない」は、好き嫌い。
「あの先生の言葉がけは、子どもや保護者が聴いたらどう感じるのだろう?」と自分が存在する集団にとって建設的であるかを考えて使うか使わないかを決めるのがアドラー心理学的な考えです。

要は、自分軸で決断するのではなく、集団にとってどうなのか?を問い続けながら判断するということです。

子どもに対してできること

自分が受け持ったことによって、子ども達が次の担任から怒られる…
保育士として、こんなに悲しいことはありません。

私は保育士になりたての頃、前クラス否定に遭遇したとき、子ども達に対して
「ごめんなさい。申し訳ない。」
という感情がまずでてきました。

だからそうならないように、当時の私は心とは裏腹に子どもに厳しくしてしまう。

確かに厳しくすることによって、子ども達は自分で服を着ようとする。
保育士の圧力によって子どもが行動している。
でもこれは建設的ではない。

じゃぁ、保育士が手取り足取り援助するのが好ましいのか?
「え〜ん!」と泣く子どもをヨシヨシと膝の上に座らせておくことで、本当にその子は心から生き生きと健康に過ごせるのか?

あれ?私が望んでいたことも、子ども達にとって本当に建設的ではないかもしれないと気付きます。

じゃぁ、子ども達にとって建設的な保育って何だろう?子ども達と私にとって建設的な関係性ってどんなだろう?

  • 保育士の圧力でもなく、キラキラポジティブな勢い任せではなく、子ども達自身がやってみよう!と思える保育

  • できたときだけ褒められるクラスではなく、ここにいること自体が認められる空間

  • 本当に困ったときに助けを求められる関係性

私にとって建設的だと思えた保育の考え方です。

アドラー心理学に出会う前の、私がやりたいと思っていた子どもに寄り添う保育は、
「子どもにやってあげることによって、自分の罪悪感を消す」
「子どもを全受け止めすることによって、グズグズ言われない」
と、ちょっとした依存関係的になっていたことで、しんどい思いをしてきたと腑に落ちました。

もちろん、これはダメだと伝える厳しさも、甘えを受け止めることもダメなことではなく、むしろ必要なこと。

ただ、子ども達が自分の足で立って歩いていく本当の意味で自立するための通過点として取り入れることが大切だと気が付きました。

周囲の保育士に対してできること

「この先生は明らかに自分とは考え方がちがう…」
そう感じたときも、この建設的か非建設的かでの決定軸はとても有効的だと思っています。

カウンセリングを学ぶ前の私は、合わないと考える先生にも全力で寄せに行くか、心を無にしてやり過ごすか。

アドラー心理学に触れた私は、「この先生の保育は、子どもにとって、保護者にとって、他の先生にとってどうなんだろう?
こういうタイプの子は楽しそうだけど、この子にとってはしんどいかもしれない。
じゃぁ、しんどい子に対して私にできることは何だろう?」
と、自分に正直になったうえで他の保育士のサポートができるようになったと思っています。

いつでも、しっくりくる考えが瞬時に浮かぶ訳ではないけれど、少なくとも無理して他人に合わせたり、自分の息を潜めたりすることはなくなりました。

保育士である自分にできること

自分のクラスを否定されたと感じたとき、
自分の保育がダメだと言われた気がしたとき、
自分のメンタルをどう保てばいいのでしょう。

ここでは、自分に起こっている問題を2つに仕訳するというのが、私にはとても有効的でした。

問題を受け入れる部分と、
自分の力じゃどうにもならないと考える部分
に仕訳をします。

例えば、「このクラスの子どもは、全然お片付けをしないじゃない」
と否定的と捉えられる言葉を耳にしたとします。

まず、お片付けをしないという事実からは逃れられません。「あぁ…片付けができないんだ」と受け入れたうえで、子ども達に対して、もっと建設的な言葉掛けがあったんじゃないか、違う方法はなかったかと考えます。

ちょっとしんどいですがここを放棄してしまうと、改善は見込めないということを痛いほど学びました。

ただ、「全部自分が悪い」と責め続けるのも違うのです。

もっと高い視点から見れば、そうやって否定的な言葉を言った保育士だって、もっと建設的な伝え方があったはずなんです。

ただ、そうやって嫌味のようにしか伝えられなかった理由が、その保育士にもあるんです。園長からのプレッシャーかもしれないし、自分が保育すればもっとできるのよ!という優越感かもしれない。

理由はどうあれ、その保育士の在り方を変えることは、私には不可能なのです。

「こんな風に伝えなければいけない程に、あなたも一杯いっぱいなのね。」

心の中でそう一言つぶやくだけで、切り替えられることも経験してきたし、これからも、自分がやるべき課題に集中して取り組んでいける気がします。

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