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渇きの果てに…禁断のコンダクター   第28話

数日後。
 
工場の休憩時間。
 
 
まゆは自動販売機で買った、缶コーヒーを飲みながら空を見上げていた。
 
スマホには、アダムスからのメッセージが残っている。
 
 
《もしご都合が合うなら、お会いできますか?》
 
以前なら何日も悩んだだろう。
 
会いたい気持ちと罪悪感の間で揺れ続けていたはずだ。
 
 
けれど今は違う。
 
会いたい。
 
そう思う。
 

だが、会えなければ生きていけないわけではない。
 
その違いを、まゆははっきり感じていた。
 
 
アダムスはもう渇きを埋めるための存在ではない。
 
人生の途中で出会った、大切な一人の男性だった。
 
 
まゆはゆっくりと返信する。
 
《ありがとうございます。私もお会いしたいです》
 
 
数分後。
 
《嬉しいです。では大阪で》
 
 
短い返事だった。
 
それを見ても、心は穏やかなままだった。
 
 
休憩時間が終わる。
 
まゆは立ち上がった。
 
その足取りは、誰かに救いを求める女のものではなく、自分で選び、自分で歩いていく女性の足取りだった。
 
 
 
約束の日。
 
大阪駅近くのホテルラウンジ。
 
 
窓際の席で待つまゆの前に、アダムスが現れた。
 
ネイビーのジャケットに、穏やかな笑顔。
 
 
その姿を見ても、以前のように心は大きく揺れない。
 
それは気持ちが冷めたからではなかった。
 
彼を特別な存在としてではなく、一人の人間として見られるようになったからだ。
 
 
「お久しぶりです」
 
「久しぶりですね」
 
二人は向かい合い、コーヒーを飲みながら近況を語り合った。
 
仕事のこと。
 
鹿児島のこと。
 
最近読んだ本のこと。
 
どこにでもある大人同士の会話だった。
 
 
それなのに不思議と心地よい。
 
以前のように相手の言葉の裏を探す必要がない。
 
ただ会話を楽しめばよかった。
 
 
しばらくしてアダムスが言った。
 
「まゆさん、変わりましたね」
 
まゆは苦笑する。
 
 
「頑張るのを少しやめました」
 
「頑張るのを?」
 
「いい妻でいようとか、ちゃんとした人でいようとか」
 
そう言うと、自分でも少し可笑しかった。
 
 
アダムスも笑った。
 
「僕も同じですよ」
 
意外そうな顔をするまゆに、彼は続ける。
 

「僕はずっと、女性を満たせる男でいたかったんです」
 
優しくて、頼れて、安心させられる男。
 
 
アダムスは、そんな男でいることで、自分の価値を確かめていたのかもしれない。
 
その言葉に、まゆは共感を込めて頷いた。
 
 
必要とされることで自分を認めようとしていた。
 
それは自分も同じだったからだ。
 
 
「私たち、似ていますね」
 
「そうかもしれません」
 
 
窓の外では人々が絶えず行き交っている。
 
それぞれの人生へ向かいながら・・・・。
 
 
 
まゆは落ち着いた声で言った。
 
「私、本当はありのままの自分でいてもいいと思いたかったんです」
 
強くなくてもいい。
 
完璧じゃなくてもいい。
 
そんな自分でも受け入れたかった。
 
 
アダムスは理解を示すように頷いた。
 
「まゆさんらしい願いですね」
 
まゆは微笑んだ。
 
その言葉を特別な意味で受け取ることもなく、ただ素直にそうだと思えた。
 
 
やがて別れの時間が近づく。
 
「会えてよかったです」
 
アダムスが言う。
 

「私も」
 
それは本心だった。
 
 
彼と出会わなければ、自分の渇きの正体に気づけなかったかもしれない。
 
誰かに満たしてほしいと願いながら、自分自身を見失っていたことにも・・・。
 
 
だから感謝していた。
 
しばらくの沈黙のあと、アダムスが最後に言った。
 
 
「まゆさん。幸せになってください」
 
以前なら涙がこぼれていたかもしれない。
 
けれど今は違う。
 
 
まゆは穏やかに微笑んだ。
 
「アダムスさんも」
 
 
二人は軽く会釈を交わした。
 

握手も抱擁もない。
 
ただ静かな別れだった。
 
 
寂しくはなかった。
 
導く男と導かれる女ではなく。
 
救う男と救われる女でもなく。
 
互いの弱さを知った人間同士として。
 
二人はそれぞれの人生へ戻っていく。
 
 
胸の奥で、あのテナーサックスが静かに鳴る。
 
甘くもない。
 
切なくもない。
 
長い遠回りの末に、自分の人生へ帰っていく人を見送るような、穏やかな音だった。


 
 
 
 


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