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渇きの果てに…禁断のコンダクター   最終話


次の日の朝。
 
洗面所の鏡の前で、まゆは自分の顔をじっと見つめていた。
 
 
窓から差し込む柔らかな光。
 
少し伸びた髪。
 
目元に刻まれた細かな皺。
 
 
若い頃のような瑞々しさはない。
 
失ったものもある。
 
取り戻せない時間もある。
 
 
けれど、不思議だった。
 
鏡の中の自分が、以前より少しだけ好きに思える。
 
 
 
リビングからコーヒーを淹れる音が聞こえてきた。
 
健一だ。
 
最近は休日になると、自分からコーヒーを淹れてくれるようになった。
 
 
劇的な変化ではない。
 
相変わらず無口で、不器用な人だ。
 
それでも以前より、少しだけ互いの気持ちへ目を向けられるようになった。
 
妻と夫という役割ではなく、
 
ひとりの人間として。
 
 

「まゆ、コーヒーできたぞ」
 
リビングから声が届く。
 
 
「今行く」
 
返事をしながら、まゆはそっと微笑んだ。
 
 
「まゆ」

と名前を呼ばれる。
 
たったそれだけのことが、こんなにも温かい。
 


以前の自分は、その温もりに気づけなかった。
 
 
誰かに求められたい。
 
女として見られたい。
 
愛されたい。
 
そんな渇きだけを見つめ続けていたから。
 
 
でも今は違う。
 
ようやく、その渇きの正体がわかった。
 
欲しかったのは、支配することでも、支配されることでもない。
 
ありのままの自分を受け入れること。
 
弱さも、欲望も、迷いも、格好悪さも。
 
すべて抱えたまま、「これが私だ」と認めることだった。
 
 
その「認める」という感覚は、誰かに与えられるものではなく、
 
自分の心が、自分自身を許すということだったのだ。
 
 

まゆは窓の外へ目を向けた。
 
青く澄んだ空。
 
やわらかな風がカーテンを揺らす。
 
 

人生は、この先も続いていく。
 
工場へ通う日々もある。
 
疲れる日もある。
 
夫婦喧嘩だってするだろう。
 
年齢を重ねることへの戸惑いも、きっと消えないだろう。
 
 
それでもいい。
 
揺れながらでも、一歩ずつ歩いていけばいい。
 
そのことを、ようやく受け入れられるようになった。
 
 
ふと、胸の奥で懐かしい旋律が響いた。
 
低く、深く、どこか切ないテナーサックス。
 

あの音は、もう誘惑の響きではない。
 
禁断へ誘う旋律でもない。
 
止まっていた時間を動かし、忘れていた自分を呼び覚ましてくれた、人生の序章だった。
 
 
あの頃、アダムスは確かに私のコンダクターだった。
 
閉ざしていた心の扉を開き、自分の本音へ導いてくれた。
 
 
けれど、人生という長い楽曲の指揮棒を握るのは、もう彼ではない。
 
委ねることも。
 
求めることも。
 
立ち止まることも。
 
歩き出すことも。
 

そのすべてを選ぶのは、私自身だ。
 
 
私はようやく、自分の人生のコンダクターになれたのかもしれない。
 
 

「まゆ? ・・・冷めるぞ」
 
健一の声に、まゆは振り返る。
 
 
「今行くってば」
 
微笑みながらリビングへ向かう。
 
 
テーブルには湯気の立つコーヒーが二つ並んでいた。
 

健一は新聞をめくりながら言う。
 
「今日は暑くなるらしいぞ」
 
「そうなんだ」
 
「洗濯するなら午前中だな」
 
「じゃあ、コーヒー飲んだら始めようかな」
 
 
ありふれた会話。
 
それだけなのに、心の深いところが穏やかに満たされていた。
 
 
窓の外には、どこまでも青い空が広がっている。
 
まゆはコーヒーをひと口飲み、じっと遠くを見つめた。
 
 
人生は、まだ続いていく。
 
そして、その物語を奏でる指揮者は、もう誰でもない。
 
 
私自身なのだ。
 
 

  完
 
 
 

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