渇きの果てに…禁断のコンダクター 第26話
久しぶりに訪れたダイニングバーは、あの頃とほとんど変わっていなかった。
照明を落とした店内。
磨かれたカウンター。
静かに響くグラスの音。
そして、スピーカーから流れてくるサックスの旋律。
まゆは思わず顔を上げた。
——Careless Whisper。
胸の奥が小さく震える。
ずっとアダムスの象徴だと思っていた音。
けれど違った。
今なら分かる。
この旋律が呼び起こしていたのは、アダムスではない。
若かった頃の自分だった。
まだ未来を信じていた頃。
まだ何者かになれる気がしていた頃。
まだ「女」であることに不安を感じなかった頃。
その記憶だった。
「懐かしいな」
健一がグラスを傾けながら言った。
「ここ、結婚する前によく来たよな」
「うん」
まゆは微笑んだ。
不思議だった。
以前なら、こうして向かい合っていても何も感じなかったかもしれない。
けれど今日は違った。
沈黙が心地よい。
無理に会話を探さなくてもいい。
「健一さん」
「ん?」
「私たち、いつから夫婦になったんだろうね」
健一が首を傾げる。
「‥‥‥結婚した時からだろ」
「‥‥‥そうじゃなくて」
まゆは苦笑した。
「男と女から夫と妻っていう役割になったの」
健一はしばらく黙った。
そしてふうっと息を吐いた。
「たしかにな」
珍しく否定しなかった。
「俺もずっと、まゆがいるのが当たり前になってた」
まゆは黙って聞く。
「飯が出てきて」
「洗濯してくれて」
「家が片付いてて」
「それを全部、まゆがやってることも忘れてた」
健一は照れ隠しのように笑った。
「ひどい話だよな」
まゆは首を振った。
「私も同じだったよ」
「え?」
「健一さんを、夫っていう役割でしか見てなかった」
仕事をして。
生活費を入れて。
文句を言わなくて。
いて当たり前の人。
いつの間にか、一人の男性として見ることをやめていた。
「お互い様だね」
健一が、顔をくしゃくしゃにして笑った。
若い頃と同じ笑い方だった。
その瞬間、まゆの心の奥で何かがふっとほどけた。
自分が本当に欲しかったもの。
それは支配することではなかった。
支配されることでもなかった。
愛されることだけでもなかった。
ただ——
ありのままの自分でいてもいいと感じたかった。
強がる自分も。
弱い自分も。
欲深い自分も。
情けない自分も。
全部ひっくるめて。
「まゆ」
不意に名前を呼ばれる。
まゆは顔を上げた。
健一の視線が真っ直ぐまゆに向いていた。
「最近さ」
「うん」
「なんか変わったよな」
「そうかな」
「うん」
健一は少し考えてから言った。
「最近のまゆ、いい顔してる」
たったそれだけの言葉だった。
……なのに。
涙が出そうになった。
若さを失ったと思っていた。
女として終わったと思っていた。
誰にも求められなくなったと思っていた。
けれど違った。
自分が自分を見失っていただけだった。
アダムスとの出会いは、そのことを教えてくれた。
求めること。
委ねること。
受け取ること。
誰かを信じること。
そのどれもが、弱さではなかった。
まゆは静かに目を閉じる。
サックスの旋律が流れている。
甘く。
切なく。
けれど今は、どこか温かい。
もうあの音は渇きの象徴ではない。
失われた自分を探す音でもない。
ようやく自分の場所へ帰ってきたことを知らせる音だった。
店を出た帰り道。
夜風は優しかった。
健一が自然に手を差し出す。
まゆはためらいながら、そっとその手を握った。
長い年月を経た手だった。
若い頃のようなときめきはない。
けれど不思議な安心感があった。
並んで歩く二人の影が街灯の下に伸びる。
その夜。
まゆは数年ぶりに、自分から健一の肩に寄り添った。
健一に従うためではない。
健一に認められるためでもない。
自分の意思で選んだ行為だった。
まゆの心の奥底にあった空白は、いつの間にか消えていた。
