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渇きの果てに…禁断のコンダクター   第25話


休日の夕方だった。
 
西日がリビングの床を橙色に染めている。
 
 
テレビでは旅番組が流れ、どこかの温泉街を映していた。
 
ソファに腰掛けたまゆは、コーヒーカップを両手で包みながら、その映像をぼんやり眺めていた。
 
 
向かいでは健一が新聞を読んでいる。
 

静かな休日。
 
 
若い頃なら退屈だと思ったかもしれない。
 
けれど最近は、この静けさが少し心地よかった。
 
 
ページをめくる音。
 
時計の秒針。
 
湯気の立つコーヒー。
 
そんな些細なものまで耳に入ってくる。
 
 
その時だった。
 
心の奥で、ふとサックスの音が鳴った。
 
低く、少し掠れたテナーサックス。
 
アダムスと出会ってから何度も聞いてきた旋律。
 
 
けれど最近、まゆは違和感を覚えていた。
 
本当にあの音はアダムスなのだろうか。
 

そう考えた瞬間、遠い記憶が浮かび上がった。
 
 
まだ結婚する前。
 
健一と付き合い始めた頃。
 

駅前の小さなダイニングバー。
 
 薄暗い照明。
 
木のカウンター。
 
氷の音。
 
そして店内に流れていた『Careless Whisper』。
 
あの頃もテナーサックスが鳴っていた。
 
 
まゆは小さく息を呑む。
 
思い出した。
 
アダムスよりずっと前から、あの音は自分の中にあったのだ。
 
 
未来を信じていた頃。
 
何者にでもなれる気がしていた頃。
 
恋をしていた頃。
 
人生がまだ続いていくことを疑わなかった頃。
 
 
「まゆ?」
 
健一の声で我に返る。
 
 
「うん?」
 
「難しい顔してるぞ」
 
新聞の向こうから覗く視線。
 
 
まゆは思わず笑った。
 
「昔のこと思い出してた」
 
「昔のこと?」
 
「……付き合ってた頃」
 
 
健一が少し目を丸くした。
 
「へえ…珍しいな!」
 
「そう?」
 
「そうだよ」
 
新聞を畳みながら健一が笑う。
 
 
「何を思い出したんだ?」
 
「ダイニングバー」
 
「……ああ」
 
 
その瞬間、健一の表情も少し柔らかくなった。
 
「懐かしいな」
 
「よく行ったよね」
 
「給料日前は二人で財布の中身確認してたな」
 
「うん…してた」
 
「無理してカクテル飲んで…」
 
「私、味がわからなくて…名前で選んでたの」
 
「気づいてたよ」
 
二人で笑う。
 
 
その笑いの中で、まゆは思った。
 
あの頃の記憶は失われていたわけではない。
 
ただ、忙しさの中に埋もれていただけだった。
 
 
家事。
 
仕事。
 
生活費。
 
将来の不安。
 
そういう現実に埋もれていた。
 
 
「なあ」
 
健一がふと言う。
 
 
「最近さ」
 
「うん?」
 
「なんか変わったよな」
 
 
まゆは少し身構えた。
 
「私?」
 
「うん」
 
 
健一はコーヒーを口に運ぶ。
 
「最近よく笑うよな」
 
 
予想外の言葉だった。
 
「……そうかな」
 
「そうだよ」
 
 
あっさりした口調。
 
けれど嘘ではないと分かる。
 
 
「まゆ…前はずっと疲れてた」
 
その言葉が胸に刺さる。
 
 
責めているのではない。
 
ただ事実として言っている。
 
「俺もだけどな」
 
健一が苦笑した。
 
「なんか毎日、生きるので精一杯だった」
 
 
まゆは何も言えなかった。
 
それは本当にその通りだったから。
 
 
いつからだろう。
 
夫婦で会話するより、
 
連絡事項を伝える方が多くなったのは。
 
 
「最近は違う」
 
健一が続ける。
 
「俺に話しかけてくれるし」
 
「そう?」
 
「うん」
 
少し照れくさそうに笑う。
 
「前より楽しそうだ」
 
 
まゆは目を伏せた。
 
知らなかった。
 
自分が変わっていたことを。
 
 
アダムスと出会い、
 
鹿児島へ行き、
 
自分の欲望と向き合った。
 
 
その結果として、
 
少しだけ自分を許せるようになった。
 
少しだけ弱さを認められるようになった。
 
その変化は、夫婦の間にも現れていたのかもしれない。
 
 
「…まゆ」
 
健一が私の名前を呼んた。
 
「今度さ」
 
「うん?」
 
「久しぶりに行くか」
 
「どこに?」
 
「ダイニングバー」
 
 
まゆは思わず顔を上げた。
 
健一が照れたように笑う。
 
「まだ潰れてないらしいぞ」
 
 
胸の奥で何かが微かに震えた。
 
若かった頃の自分。
 
恋をしていた自分。
 
未来を信じていた自分。
 
その記憶が今と繋がる。
 
 
そして、ふと理解した。


アダムスは終着点ではなかった。


彼はただ、まゆ自身の中に眠っていた旋律を呼び覚ました人だった。


忘れていたものを思い出させてくれた人だった。
 
 
「ねえ…行こうか」
 
まゆが言う。
 
健一は嬉しそうに頷いた。
 
 
窓の外では夕暮れがゆっくりと夜へ変わっていく。
 
心の奥でテナーサックスが鳴る。
 
けれどその音は、もう誰かを求める音ではなかった。
 
 
若い日の自分と、
 
今の自分が、
 
ようやく同じ場所で向き合えたことを告げるような、
 
温かく穏やかな響きだった。


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