渇きの果てに…禁断のコンダクター 第24話
日常へ戻った。
朝六時。
アラームが鳴る。
まゆは重い身体を起こし、キッチンへ向かった。
炊飯器の蓋を開けると白い湯気が立ち上る。
味噌汁を温める。
冷蔵庫から卵を取り出す。
包丁の音。
換気扇の音。
窓の外では近所の小学生たちが登校を始めている。
いつもの朝だった。
何も変わらない。
鹿児島で過ごした時間が嘘のように思える。
しかし、まゆの中では何かが静かに変わり始めていた。
健一との食事の会話
「…昨夜遅かったな」
「‥‥‥残業が長引いて…」
‥‥‥嘘だ。
・・・心が痛む
「…行ってくる」
健一が玄関で靴を履く。
「‥‥‥うん。気をつけて」
まゆが言うと、
「お前もな」
と返ってくる。
それだけのやり取り。
何年も繰り返してきた朝。
なのに今日は少しだけ違って見えた。
健一の髪に白いものが増えている。
背中も以前より少し丸くなった気がする。
自分だけが歳を取ったと思っていた。
けれど健一もまた、同じ時間を生きていたのだ。
玄関の扉が閉まる。
まゆはしばらくその音を聞いていた。
*
工場では今日もベルトコンベアが流れている。
機械音。
段ボールの擦れる音。
同僚たちの声。
変わらない景色。
昼休み。
休憩室の窓際で缶コーヒーを開く。
プシュッという小さな音。
まゆは窓の外を見た。
そして気づく。
自分はずっと与える側だった。
妻として。
職場の一員として。
誰かの期待に応える側として。
夫の世話をする。
家事をこなす。
職場で迷惑をかけない。
周囲に気を配る。
それが当たり前になっていた。
気がつけば、
「受け取る」
ことが苦手になっていた。
褒められること。
甘やかされること。
頼ること。
助けてもらうこと。
どれも居心地が悪い。
まるで怠けているような気がした。
借りを作っているような気がした。
だからいつも、
「大丈夫」
と言ってしまう。
本当は大丈夫じゃなくても。
*
帰宅すると、キッチンから水音が聞こえた。
覗くと健一が夕食の皿を洗っている。
‥‥‥珍しい。
「今日は俺がやっといた」
何気ない声。
まゆは立ち尽くした。
以前なら、
「いいのに」
と言っていたと思う。
それが妻としての正解だと思っていた。
けれど今日は違った。
「ありがとう」
自然に感謝の言葉が出た。
健一が少し驚いた顔をする。
「おう」
照れたような返事。
それだけだった。
なのに胸の奥が温かい。
ふと思う。
もしかしたら健一は、昔からこういう人だったのかもしれない。
派手な言葉は言わない。
気の利いたことも言わない。
けれど時々、何も言わずに皿を洗っている。
自分が疲れている日はコンビニで甘い物を買って帰ってきてくれる。
風邪をひけば病院へ行けと言ってくれる。
それを愛情だと認識しないまま、何年も過ごしてきたのかもしれない。
*
その夜。
まゆは久しぶりにノートパソコンを開いた。
noteの執筆画面。
白い画面が光る。
カーソルが点滅している。
……何を書こう?
そう考えながら指を置く。
すると自然に言葉が浮かんだ。
――人は、与えることより受け取ることのほうが難しい。
まゆは手を止めた。
自分でも驚く。
まるで誰かの言葉ではなく、自分自身の声のようだった。
鹿児島で得たものは何だったのだろう。
快楽だろうか。
承認だろうか。
恋だろうか。
……きっと全部違う。
あの日、自分は弱い姿を見せた。
格好悪い姿も見せた。
それでも拒まれなかった。
だから少しだけ、自分を許せた。
そして今、健一の「皿を洗う」という小さな行為まで受け取れるようになっている。
まゆはゆっくりキーボードを打つ。
耳の奥で、あのテナーサックスの音色が鳴った気がした。
以前のような甘く危うい旋律ではない。
夜の静かなバーで流れるような、落ち着いた音だった。
――私は支配されたかったわけじゃない。
――支配したかったわけでもない。
ただ、自分に与えられるものを受け取ることを許したかった。
画面に浮かぶ文字を見つめながら、まゆはふっと息を吐く。
その気づきはまだ頼りない。
風が吹けば消えてしまいそうな灯火だ。
けれど確かに、その灯りは昨日より少しだけ大きくなっていた。
