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歴史ぶらり旅:聖徳太子編 第7話「和をもって貴しとなす」の真実|十七条憲法とは何だったのか

「和をもって貴しとなす」
日本人なら一度は聞いたことがあるこの言葉。
しかし、聖徳太子はなぜこの言葉を最初に掲げたのでしょうか。
十七条憲法は、現代の憲法とはまったく違うものでした。
そこに込められた聖徳太子の願いとは――。
今回は、日本史上もっとも有名な言葉の真実に迫ります。


604年。聖徳太子は冠位十二階を定めた同じ年に、もう一つの大きな改革を行いました。それが、十七条憲法です。

「憲法」と聞くと、現代の日本国憲法を思い浮かべるかもしれません。
しかし、十七条憲法は少し違いました。法律の条文ではありません。
役人たちが守るべき心構えや道徳を示したものだったのです。

その第一条に書かれた言葉が、あまりにも有名です。
「和をもって貴しとなす」
争いを避け、互いに協力し合うことを大切にしなさい。
そんな意味が込められています。

なぜ聖徳太子は、この言葉を最初に置いたのでしょうか。理由は簡単でした。当時の朝廷には、豪族同士の対立が絶えなかったからです。それぞれが自分の利益を優先し、国全体のことを考えないこともありました。

聖徳太子は知っていました。国を強くするためには、まず人々が協力しなければならないことを。だからこそ、第一条に「和」を掲げたのです。
しかし、十七条憲法はそれだけではありません。
第二条では仏教を敬うことを説きました。
第三条では天皇の命令を重んじることを求めました。
さらに、役人は公正でなければならない。
私利私欲で動いてはならない。
仕事を怠ってはならない。
そんな内容も記されています。

そこには、理想の国家をつくろうとする聖徳太子の思いがありました。
もちろん、十七条憲法によってすぐに争いがなくなったわけではありません。ですが、日本の政治理念を示した最初の文書として、大きな意味を持っていました。

1400年以上たった今でも、「和をもって貴しとなす」という言葉が語り継がれているのは、人と人が協力することの大切さが、時代を超えて変わらないからなのかもしれません。

そして聖徳太子の視線は、すでに海の向こうへ向いていました。
巨大な帝国・隋。その国と対等に向き合うため、ある人物が選ばれます。


次回予告 第8話「小野妹子と遣隋使 ― 海を越えた命がけの外交」
聖徳太子はなぜ隋へ使者を送ったのか。そして小野妹子が託された、歴史を動かす一通の国書とは何だったのでしょうか。
日本が初めて世界へ堂々と名乗りを上げる瞬間が訪れます。


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編集後記:
監督:こう爺
お話とプロンプト:ChatGPT
画像と動画:Flow (Nano Banana 2)
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