見出し画像

スタンダール『赤と黒』──七月革命を予見した社会小説(第2回)


1830年の七月革命を前に、 フランス社会では「誰が権力を握るのか」という価値基準が静かに揺らぎ始めていた。

スタンダール『赤と黒』は、この変動期の空気を、 地方都市ヴェリエールの人間関係と階級闘争を通して描き出す社会小説である。

第2回となる今回は、 ジュリアンの孤独、レナール夫人との出会い、 そして地方都市で台頭する新興ブルジョワの姿をたどりながら、 “貴族からブルジョワへ”という権力移行の予兆を読み解いていく。


→『赤と黒』第1回は、こちら





1.スタンダールの予見性

 

スタンダール(1783~1842)の「家は貴族ではないが、かなり裕福な(地方の)ブルジョワだった」。

しかし、スタンダールはジュリアンと同じく「故郷」が嫌いだったし、ブルジョワも大嫌いだった。

スタンダールは、自分の地所の経営のことばかりを考えている父シェリュバンと仲が悪かったこともあり、「故郷」グルノーブルにいい思い出を持たなかった。

気品が無く、お金儲けのことだけを考え、偉大な感情や行為を全く理解しない人間――と、スタンダールは父を軽蔑していた。

青年になったスタンダールは、母方の親戚ピエール・ダリュ
(ナポレオンに仕えた。優秀な官吏であり、伯爵にまで引き立てられる)
の紹介で官吏になる。

しかし、ナポレオンの失脚と共に職を失い、1820年代に『赤と黒』を執筆した。

1830年の7月革命後は、友人たちの紹介で
「新政府によってトリエステ領事職をあたえられ、翌年ローマに近い法王領チヴィタ・ヴァッキアに転任し、死ぬまでこの職にいた」。


『赤と黒』の執筆時には、そこまで早く革命が起こるとは考えていなかったスタンダールではあったが、この物語自体は予見性を持っている。


それは、“貴族はブルジョワに敗北するだろう”という予感である。

このことは、歴史的な何らかの事件を通して語られるわけではない。

ただヴェリエールという田舎町と首都パリでのジュリアンの経験を通して浮かび上がる社会環境から、それとなく読者に予感させるものなのである。

父親との葛藤と地方都市での生活の息苦しさのなかで、スタンダールは独自の視線で社会や政治的事件を眺め判断する素地をつくっていった



2.ジュリアンの孤独

 

前回でも触れたように、ジュリアンは気難しい青年である。

しかし、スタンダールが考える「英雄」の条件を満たしている若者でもある。

その条件とは、
①優秀な頭脳、②豊かな想像力、③鋭い感受性、④強い意志と情熱、であり、ジュリアンはそのすべてを持ちあわせている

ヴェリエールの人々は、そんなジュリアンの頭の良さは認めてはいる――のであるが、自分の意志を曲げず妥協を許さない性格が災いし、ジュリアンはあちこちで嫌われるのである。


 とはいえ、そんなジュリアンを愛する人間もそれなりに存在する。

一人はヴェリエールで材木商を営んでいるフーケという若い友人(素直にジュリアンの頭のよさを尊敬している)であり、
もう一人は実直な老司祭のシェラン師である。


 二人とも、それぞれにジュリアンに“いい話”を持ちかけてくれる。

 フーケは材木を扱う共同事業をやろうといい、
シェラン師は親戚からちょっとした財産を相続したエリザ
(レナール夫人の小間使い。美男のジュリアンに好意を持ち、シェラン師に結婚の相談をする)との縁談の面倒をみようとしてくれる。


しかし、それらの話を決然と断るジュリアンが二人には理解できない。

フーケもシェラン師もそれぞれの洞察力で、ジュリアンが内心ではたいして信仰心を持っていないことは見抜いていた
(だから、僧侶以外の職業を選んだ方がいいと思っている)。

このように、ある種の親心でジュリアンの面倒をみてやろう、と考えていた二人に到底想像できなかったのは、
ジュリアンの野心の「途方もない」大きさであった。


ジュリアンは、僧職につくのなら「豚飼い」の身分から「法王」に成り上がった「シクストス5世(1521~1598)」のようになりたい、と常々考えていたのである。

このように、好意を寄せてくれている二人にも自分の考えていることを分かってもらえない、という孤独感を抱いているジュリアンは、
田舎町で違う意味で孤独感を抱いているレナール夫人と出会うのである。



3.レナール夫人の孤独



「五十近く」で「額がひろく、わし鼻だが、全体として一種ととのった容貌をしている」町長レナール氏の年若い妻は、三人の幼い息子たちを愛するほかに、これといった楽しみを持っていない、信心深い女性である。
 
「彼女は背丈が高く姿がよくて、この山間の人がいうとおり、土地の美人だった。

身のこなしには、どこかうぶな若々しいところがあった。

パリの人の眼からみると、無邪気でぴちぴちしたこの素直な美しさには、
いささか肉感的なものを思わすほどの力があったのかも知れない。

だが夫人は、もし自分がそんな方面で成功したことを知ったら、
さぞ恥ずかしがったことだろう。

おしゃれしようとか、気取ろうとか、そんな気はてんでなかった」。

 
 レナール夫人は、「金持ちの跡取り娘」で家柄も良く、
いずれ「莫大な財産」を相続することになっており、美人である、
ということで、ヴェリエール中の尊敬を集めてもよい立場であった。


 ヴェリエールという町は、「ドゥー川」の豊かな水を動力とした工業が盛んな町で、主要産業は「さらさ製造」であるが、他にも「製板」など種々の製造業がある。

 この町で勢力を誇り「(町の評判や「世論」によって)不愉快な専制政治をしいている」のは「工業家」たちであり、つまりはブルジョワたちの価値観が、この町の価値観なのである。

 スタンダールは、ヴェリエールという「フランスの小都会」を“古い因習を残した田舎じみた土地でありながら、資本主義によって「アメリカ合衆国」的な意識を持つようになった町”として描いているのである。


 この町のブルジョワたちが欲するものを、レナール夫人は持っている。

 しかし、レナール夫人は「金ほし屋連中」に内心では馴染めず、ヴェリエールのブルジョワたちが主導する「上流社会」での社交が苦手であった。

 そういうこともあって、レーナル夫人の関心は、三人の幼い子供たちに集中した。

「子供の一人が熱でも出すと、彼女はもうその子が死んでしまったのと変わらないような気持に襲われた。

結婚してはじめの数年間は、自分の一人の胸に包んでおくことができなくて、こういう悲しみを夫にうったえてみたこともあったが、
それはいつも卑しい高笑いと、軽蔑をもって迎えられた上に、
女の愚かさに関するつまらぬ格言なんかをいくつも聞かされるに決まっていた。

特にそういうたちの笑談が、子供の病気に関していわれると、ちょうど匕首のようにレナール夫人の胸を刺すのだった」

と、いうこともあり、夫からも心は隔たっていたのである。

信心深いレナール夫人は、ジュリアンへの愛とカトリックの信仰との間で悩むことになる



4.ジュリアンとレナール夫人の恋愛

  

このように「内気」なレナール夫人は、高い志を持つジュリアンと出会い、恋に目覚める。

恋愛に不慣れな二人ではあったが、お互いの心を知りあった瞬間から目覚ましい行動力を発揮する(夫人の寝室の窓に梯子をかけてよじ登る、など)。

しかし、お互いに恋情を隠しているつもりでも、周囲には少しづつ漏れ伝わっていく。


レナール氏は、ジュリアンに腹立たしい気持ちを抱きながらも、ジュリアンを体裁よく自分の屋敷から追い出すために、ブザンソンの神学校に入学させる手続きをとってやる。


 皮肉にも、それがジュリアンの出世のきっかけを作ることになる
のである。



5.地方都市の新興ブルジョワ



そして、もう一方で、ジュリアンとレナール夫人の噂を憮然として聞いている男がいた。それは、新興ブルジョワのヴァルノであった。

 ヴァルノは、「太い黒い顎髭を蓄えて、色艶のいい顔をした、頑丈な体格のりっぱな若者で、地方では美男子と呼ばれる、粗野で、あつかましくて、騒々しい連中の一人」であり、
「すんなりと釣り合いのとれた体つき」をした「少女」のような容貌のジュリアンとは対照的な外見の持ち主であった。

ヴァルノは、レナール夫人に恋文のような手紙を書いて誘いをかけたことがあったのだが、レナール夫人は相手にしなかったという過去があったのである。

ヴァルノは、ジュリアンと同じような階級の出でありながら、前回の①の出世コースをたどった男だった。

レナール氏や町の大物連に取り入り、「貧民収容所」の「所長」の地位を手に入れたヴァルノは、それを手掛かりに急速に財を築いていく。

ヴァルノは「補助金」の上前を撥ねている、とジュリアンは疑い、ヴァルノを内心で嫌っている。


しかし、ヴァルノのほうでも、ジュリアンが自分に好意を持っていないことを見通しており、ジュリアンのことを「にくんで」いたのである。



6.地方での名家とブルジョワの闘争

 

かつては田舎の名門気取り(貴族と縁戚関係がある)のレナール氏を「親分」と奉っていたヴァルノも、今ではレナール町長とヴェリエールの町の勢力を争う「大物」になっている

そして、ジュリアンが神学校へ行っている間に、レナール氏はヴァルノに町長の地位を奪われる。


ヴェリエールの町では「上品」な紳士で通っている、名家出身の貴族気取りなレナール氏は、ハングリーな新興ブルジョワであるヴァルノに敗北する

後にパリの侯爵家で秘書として働くジュリアンが再会したときには、
ヴァルノは「男爵」に成り上がり、ヴェリエールで勢力を振るう存在になっていたのである。

このような出来事は、地方の産業都市だけではなく、やがて首都パリでも見られるようになる――

つまりは、フランスを主導する勢力は貴族からブルジョワに移行していくだろう、というのがスタンダールの抱いていた予感である


次回は、ジュリアンの出世の道のりとパリの貴族社会について語りたい。



→ 第3回では、ジュリアンが踏み入れる貴族社会と“赤と黒”の象徴を読み解きます。


→社会の価値基準が揺らぐとき、権力もまた静かに移動していく。 その構造変化をたどった記事はこちら。


 

スタンダール『赤と黒』を、ジュリアン・ソレルの青年像・階級社会・1830年代フランスの歴史的文脈から多角的に読み解くマガジンです。



いいなと思ったら応援しよう!