藤井風の「ろくろ首」が『帰ろう』になった話── 怨まない で 散る、を知る
先日公開した『It's Alright』MVの感性考察記事(日本人の感性で読み解く、藤井風『 It's Alright 』)では、古事記や神話的な視点で、なぜ彼の首が「ろくろ首」のように伸びたのか、その理由を深く掘り下げてみました。
でも、書いているうちに気づいたんです。 あの衝撃的なヴィジュアルが、私の中で数年前の記憶と、そして彼の一本道の「あの曲」と、驚くほど鮮やかに繋がっていくのを。
「すー、はー。」という呼吸の可視化
あの衝撃的な「ろくろ首」のヴィジュアル。 「なぜ首が伸びるのか」という問いに対して、私の中でストンと腑に落ちた納得の理由は、意外なほどシンプルなことでした。
それは、「呼吸」の可視化です。
右の鼻から吸って、左の鼻から吐く。 インド神話やチャクラの視点で見れば、あの演出は単なる特殊効果ではなく、生命の源である「すー、はー(So-Ham)」という呼吸の循環をそのまま表現していたのです。
(※図解や詳しい専門用語については、前回の考察記事で深掘りしましたが、ここでは「呼吸がエネルギーの軸を作っている」ということだけ心に留めておいてください。)
この「呼吸の循環」という視点を持ったとき、私の脳裏には、あるインタビューでの彼の言葉が重なりました。
(上はゼイン・ロウ氏によるインタビュー部の動画。コーチェラのWeek1とWeek2の間の2026年4月17日に収録されたもの。風さんは、ここでも瞑想について発言しています。14:02頃)
このインタビューで風さんが語る、瞑想という習慣。 その「根っこ」にある、呼吸の本質について少し紐解いてみたいと思います。
呼吸を繰り返しているとき、その「音」が持つ神秘的な意味をご存知でしょうか。
瞑想してたら、深呼吸をしてたら、吸う(Ham)→吐く(Sa)と呼吸を繰り返していたら、いつの間にか、吐く(So)→吸う(Ham)になったことはありませんか?
実は、呼吸の音には意味があるんです。
Ham-Sa(ハムサ): 私は宇宙の一部
So-Ham(ソーハム): 宇宙こそが私そのもの
ところで、皆さん。
「So-Ham(ソーハム)」ときいて思い出すことありませんか?
すーはー。(so'ham)
そうです。『ロンリーラプソディ』です。


("alone at home Tour 2022" グッズ/2022年9月公式STORE販売当時より)
Xでつながってる方が「風ファンでバトンしてるラジオ番組のパーソナリティをするので、番宣用に絵を描いてほしい」って依頼があって描いた絵です。彼女が描いてほしいと言わなければ、この絵は描かなかったし、この詩も生まれませんでした。描くタイミングを逃してしまって「もう描かなくてもいいや」って思ってたところに声がかかりました。
ちょうど湘南のラジオ局で海のイメージがいいというお話で。何枚かイメージやラフを見せて、こういう感じはどうだろう?て尋ねたら、彼女は「この絵がいい」と言ってくれました。その時、わたしは少し報われた気持ちになりました。
「すーはー」は『ロンリーラプソディ』という曲の歌詞。

右の英訳は風さん本人によるもの
瞑想は、太陽(右)からエネルギーを取り込み、月(左)へと流して浄化するイメージ。
「右から吸って、左から吐く(またはその逆)」という交互の呼吸を繰り返す。そうすることで、最終的に左右のバランスが整い、「真ん中の一本道」に流れ込むと考えらえている。
『 It's Alright 』MVで白鳥と黒鳥の首が螺旋を描いたり、天女に扮した風さんの首がまっすぐ伸びたりする演出は、この「左右の循環」を経て、エネルギーが中心の軸を突き抜けて昇っていく様子と見事に重なる。
ゼイン:エゴと自分はどんな関係?パフォーマーの相性において不可欠な部分だ。つまりエゴとの健康な関係をコントロールできれば、それをきっかけにパフォーマンスできるよね。エゴの重要性も重んじながら瞑想と意図を大事にする、人生をどう生きる?
風:究極的には自分のエゴを完全に消したい。少なくとも、最終的にはね。僕には必要ありません。エゴが自分という器の邪魔をしてほしくない。
中が空洞の楽器みたいな。自分の邪魔を。そんなものは要りません。うん、出ていけって感じ。
だからライブではできるだけエゴをださないようにしている。観客にもそれを感じ取ってほしいです。
彼らは僕を通して自分をみますからね。そんな感じです。
「太陽と月のバランスを整える呼吸」が、結果として「中心の空洞(一本道)」を作る。
↓
だからこそ、エゴのない「空っぽの楽器」になれる。
すーはー。
黒鳥と白鳥
「So'ham」はチャクラで、チャクラはインドだから、インドの古い神話なんかも調べてみたけど、「白鳥」はいるけど「黒鳥」はいない。「黒い鳥」という意味ならカラスがいたくらい。
ちなみに「白鳥」はとある二人の女神さまの乗り物(ヴァーハナ)として登場。一人は破壊系で、もう一人は調和系の女神様。
調和系の女神はサラスヴァティ。風さんの楽曲でギタリストとして参加したり、ツアーでご一緒したりのDURANさん。彼の腕のタトゥ―にある音楽の女神でもあるお方がサラスヴァティ。
DURANさんと風さんの関係については、下記の記事でも触れているので読んでみてくださいね。
サラスヴァティの乗り物(ヴァーハナ)である聖なる白鳥は、サンスクリット語でハムサ(Hamsa)と呼ばれてて。
もう一つの呼吸の音(Ham-sa)と同じ。
白鳥のハムサには、泥水の中からミルクだけを飲み分ける(善悪や真理を見極める)という伝説があり、混沌とした世界から真理を選び取る「知性」の象徴とされているそう。チャクラという不要なものを出し切る(浄化する)プロセス のそばに「白鳥(知性・気づき)」がいるのは偶然ではないと思う。
混沌の中から真理だけを選び取る「知性」の象徴である白鳥。 では、対になる「黒鳥」は何を意味するのか。
私は、これこそが「二元性」の表現ではないかと。
太陽と月、光と影、そして吸う息と吐く息。
この世界にある「白と黒」という相反する二つの要素が、螺旋のように交差し、溶け合うことで、私たちの生命活動(呼吸)は成り立っている。
どちらが良い悪いではなく、その両方を受け入れ、巡らせること。 白鳥(知性)がその真理を見極めたとき、螺旋の真ん中に「一本の道」が立ち上がる。
そう、あのゼイン・ロウ氏のインタビューで風さんが語っていた、エゴを削ぎ落とした「空っぽの器」へと続く道。
太陽と月と道
太陽と月と一本道。これが全部でてくる楽曲がある。
『帰ろう』だ。
よもや、傾奇の『 It's Alright 』と、希求の『帰ろう』が繋がる道がでてくるとは…。
『帰ろう』のMVはとても長い1本道で撮影されている。
『帰ろう』冒頭の歌詞に、あなたが「太陽」で、わたしが「月」を当てはめてみる。

太陽は夕日に溶け、月は夜明けに消える。 「もう二度と交わらない」
太陽(吸う息)と月(吐く息)がぐちゃぐちゃに混ざり合ってしまうと、呼吸は乱れ、心も不安定になる。 でも、太陽は夕日に溶け、月は夜明けに消える。それぞれが自分の道を引き受け、干渉し合わなくなった時、その真ん中に空白(一本の道)が生まれる。
突き放すような「もう二度と交わらない」は、実は究極の浄化。 太陽(吸う)と月(吐く)のどちらにも執着せず、それぞれをあるがままに手放したとき、その境界線に「真ん中の一本道」がスッと立ち上がる。
それは、エゴを消して「空っぽの楽器」になった彼が歩む、私たちが歩む、混じり気のない「光の道」そのものに見える。
『 It's Alright 』の最後でロケットのように上昇した、あの「光の道」に。
私は海の中にいた。
水の色は風さんが手にした須弥山の空みたいだった。横を魚がゆったりとすり抜ける。通り過ぎたときの尾の水圧で少し押された。ゆったりと泳いでいても、凄い力だ、とぼんやり考えていた。
突然、魚は猛スピードで泳ぎだす。
激しく尾びれを交互にくねらせながら、一直線に。
しゅぱーーん(3:20)
風切り音とともに、魚は海面から勢いよく跳ね上がる。激しい水しぶきをあげながら。
魚と一緒に海から放り出され、
眼下には穏やかな黄金色の海が超然と佇む。
まるで『 It Ain’t Over 』の海。
重たいものをすべて海に置いて、光の中に放り出されたような感覚。
ああ、怨まない「で」散る、生きる。って、こういうことなんだ。
「今、ここをどう呼吸して歩んでいくか」という
己という「尾びれ」の舵取りだ。
『帰ろう』のMVで、荷車からバラバラと荷物が落ちていくあのシーン。あれはまさに、彼が大切にする「pooping(出し切ること)」という名の神聖な浄化の儀式にみえてきた。字幕ではpooping(手放すこと)と訳されていたけれど、私にはそれが、自分の中にあるものをすべて「出し切る」ことのように感じられた。
当時は「解放」と受け取っていたけど、今はニュアンスが少し変わって見える。
ゼイン: プロセスが重要という観点からみると、心に余白を作るためには出すべきだ。善を吸収するためにも。その方法とは何?…それは、ウ〇コ(pooping)すること?
風:Pooping is meditation. Absolutely. Make every action a meditation. A prayer. Yeah, that's my motto. ウ〇コは瞑想です。本当ですよ。すべての行動を瞑想と祈りにする。僕のモットー。
出し切ったからこそ、身軽になってあの「ろくろ首」のように上へと上昇できる。『帰ろう』MVで荷車に飛び乗る風さんは、「ふぅ…」とでもいいたげな表情をしていて、解放されたというより「出し切った」感じに、今は見える。

なんというか、もっとまっすぐな考え方「今、ここで生きていること自体が尊い」という、極めてポジティブな現世肯定の中今の精神を表現しているのでは?
「中今を生きる」とは、過去の後悔や未来の不安にとらわれず、「今この瞬間」を精一杯、感謝して生きること。時間は過去から未来へ流れる直線ではなく、常に中心である「今」が連続しているという捉え方で、その時々に全力を尽くす生き方なんだと思う。
それって「毎日が誕生日」っていう風さんの言葉そのもので。自分を飾らず、不器用なまでに正直でいてくれる風さんみたい。
時に「待たなくていいのに」と眉をひそめるほど優しい風さん。
でもね、その可愛らしい愛嬌と、そこから生まれる圧倒的な「光」を、我らはみたいのです。人によっては、ただの時間の無駄に思える「待ち時間」に見えるかもしれない。1秒たりとも見逃したくない、風さんの魂の震えを感じたい「尊い時間」なのです。これも「今この瞬間」を精一杯、感謝して生きることなのだと思います。「待てる」時間があるなんて幸せな証拠です。
どんなに時間がかかっても、最後に最高の「型」を見せてくれる制作陣の情熱を知っているから。そして、何をするかわからないけれど、いつだって「pooping」のように本音で向き合ってくれる風さんを信じているから。
「一本の光の道」として大切に歩んでるだけなのです。
毎日が、新しい「誕生日」
あの頃、『帰ろう』のMVが公開された頃、
私は『帰ろう』に浄化と希望という情景をみていて、2枚の絵を描きました。

初期のころは絵に詩を添えてポストしていた。しかも英語verだけという…。
I go home alone.
I'd like to throw and give away everything.
Smiling is the last thing I could give you.
(人は一人で帰る。いろいろと捨てて、いろいろと渡していく。渡せるものは笑顔がいいな)
1枚目の帰ろうの絵は、太陽・月・道の冒頭の歌詞をそのまんま、自分なりの解釈でビジュアル化しました。
月と太陽が交わりそうで交われない、日没の直後や日の出の前に空が深い青色に染まるブルーアワー。1本道にある水たまりには、実は交わっていない現実を描きました。でも一緒なんです。共にあるってそういうこと。

英語verの詩をイラストの中に入れるという知恵がついたらしい。
私、私の道を生きる
内なる声に 耳をかたむけて
道、いつの日かあなたのすぐそばに
みたいな日本語訳をつけてた。
2枚目の絵は、『帰ろう』で帰路に向かうMV登場人物たち+α。人々は穏やかにそれぞれの帰路へと別れていきました。枝分かれする帰路は、枝葉のようで、一本の大きな木のようにみえました。
内側の『光の道』を登りきった先にあるのが、この穏やかな菩提樹の世界に、今ははっきりと見える。その精神世界にある菩提樹を風さんが守ってくれている感じ。
改めて『帰ろう』を描いた2枚の絵をみると
夜、安堵と共に眠り
朝、希望を持って、目覚める。
そんな感じにみえるなぁ。

『帰ろう』MVの最後に舞った鳥の羽と『風よ』のフレーズからでてきた
実は『帰ろう』にはもう一枚絵がある。ただこれは『風よ』も入っています。『帰ろう』MVの最後に舞う白い鳥の羽をみた時、ふと『風よ』の「中に舞って急に落ちて」のフレーズが降ってきて描いた絵です。舞い上がる印象をうけて。風さんの音楽という上昇気流に乗って、空高く舞い上がる渡り鳥を描きました。風さんの音楽に触れて、透明だった鳥たちは色づいていく感じです。

歌詞を確認してみると、空中の「中」だと思ってたけど宇宙の「宙」だったんですね…。
私の記憶だと、この絵の鳥は「オオハクチョウ」だったはずですが…。
実家から車で30~40分くらいの所に白鳥の飛来地があって、よく冬に河に飛来した白鳥の群れをみに家族で行っていて。白鳥はいつも河口湖にいると思ってたのが、実は渡り鳥だったと知った日のことを思い出して描いてました。
ただ、白鳥にしては首が短い。 その違和感の正体を探っていたら、『魔女の宅急便』の、あのワンシーンに行き当たりました。
「風が来るって、高く高くのぼろうって・・・」
黒猫のジジが雁の言葉を伝える、あの場面。 私が描いたのは、きっと白鳥ではなく「雁」だったのでしょう。
あの時、私は風さんという上昇気流を、もう見つけて重ねていました。 よく見に行っていた飛来地の河には雁の群れもいて、風を巧みに操る雁を眺めていた時のように。
最終的には、その記憶が筆を動かしていたような気がしないでもないのです。

雁のシーンは素材にはなかったのですが、こちらの箒で空を飛ぶシーンが一番近いかな。
雁の群れは上昇気流の下から吹き上げる強風を利用して空高く舞い上がるけど、準備をしていなかったキキは強風に驚いて落下する。「雁が教えてくれたのに!」と後でジジが怒ってた。
当時はさほど藤井風の音楽について、今ほど理解していなかったはずなのに、『帰ろう』から「浄化」→「希望」→「上昇気流」をイメージする絵を描いたのは、ちゃんと受け取ってたんだなと。
風さんは、ゼイン氏のインタビューで「ありがたいことに穏やかな人生を送ってこれた」と語っていました。
正直に言えば、私はそうではありませんでした。 ずっと「穏やか」とは程遠い場所にいた気がします。
でも、不思議です。 置かれている状況が劇的に変わったわけではないのに、今の私は穏やかに暮らせています。
ふと、映画『この世界の片隅に』のすずさんを思い出しました。 戦時下という過酷な状況にあっても、彼女は絵を描き、日々の暮らしを慈しみ、穏やかであろうとしていました。
「穏やかさ」とは、環境に与えられるものではなく、自分の内側で「選ぶ」ものなのだと思います。
「上手くいって、よかった~。」
とホッとできたのは、その日が安堵で終わったから。
「今日は何しようか」
朝に起きた時、そう思えるのは、その日に希望があるから。
「今はここだけど、いつかは」
日々の積み重ねをやり続けることができるのは、心が平穏だから。
「中今を生きる」って多分そういうこと。
でも、普通に生きてるだけなんだけど、思った通りには生きられない時は来る。
そんな時に大切なことに、気が付くのって大変で。驚くほど自分の中から(その視点が)消えてなくなっちゃって。 怒りや、焦り、不安に流されちゃって。
どうしようもなく「自分」というエゴに囚われてしまったときは、藤井風。
風さんの音楽はいつも中心に戻してくれる。
一見、奇抜に見える『 It's Alright 』も、
今はとても優しくて、楽しいって感じる。
あんなに、おどろおどろしいと感じたお囃子も
脳裏に流れるのは、楽しげに戯れるものたちの調べ。
いつから私はこんなだった?
もの凄くズレちゃったとき、
この曲は案外あっさりと軸を戻してくれる、そんな曲。
あとがき
本稿で「私は海の中にいた。」との語りは、いったい何のことか良く分からなかったと思います。ですが、そうやって『 It's Alright 』の「我らは星光」のところを理解したので、入れました。
下記記事にも書いた『傀儡謡_怨恨みて散る』、最後の「怨恨みて 散る」の「散る」前に鳴る風切り音。が聴こえたことで、分かったような分からないような、がつながりました。
眠っていたはずなのに、その音で目が覚め、今この部分を追記しています。
ちなみに2026年5月9日(土)午前4時15分ごろです。
「怨恨みて 散る」は「怨まない で 散る」という意図がある歌詞。
つまり、逆を選んだ。
エゴを捨てて、「空っぽの楽器」になって、自分を豊かにするものを選ぶ。
彼らは僕を通して自分をみますからね。そんな感じです。
そう、穏やかさは、誰かに与えられるものではなく、この瞬間の自分が選ぶもの。
ろくろ首のように首を伸ばし、出し切って、空っぽになったその場所に、 読点(,)ひとつで、蓮の花が咲く。
特別なことは、何ひとついらない。 ただ「今」を呼吸し、自分を放ち切る。
それだけで、世界はいつだって『It's Alright』なのだから。
