見出し画像

木沢長政・三好長慶・織田信長にみる居城移動

──近世移行期の権力変容
──戦国大名の「首都移転」


居城移動という謎解き

戦国大名の居城に対して、「生涯にわたって父祖の地を守り、同じ城郭に居続けた」というイメージを抱きがちである。確かに、上杉謙信の春日山城や毛利元就の吉田郡山城、あるいは朝倉氏の一乗谷城のように、大名であっても本拠地の移動には慎重であり、領国の拡大期であっても父祖以来の中心地に留まり続けた例は多い。彼らにとって居城とは、領国支配の行政組織、家臣団の生活共同体、そして領国内の交通・流通網が分かちがたく結びついた、動かし難い中枢システムであったからである。

しかし、戦国時代の畿内から中日本にかけての表舞台には、この常識を覆し、権力の伸張や統治領域の拡大に合わせて居城を遷移させた先駆者たちが存在した。畠山氏の内衆から身を起こし、大和・河内・山城の国境地域に城郭群を現出させた木沢長政 、阿波から畿内へと進出し、足利将軍家を擁立しない単独の「三好政権」を確立した三好長慶、そして、兵農分離と財政力を武器に「首都移転」を繰り返して近世城郭の祖である安土城へと至った織田信長である。

彼らの居城移動は、軍事的前進や避難措置ではない。中世的な「本拠と避難所(後背地)」の二元構造を解体し、広域を支配する中央集権的な国家権力を創出していく、構造転換プロセスそのものであった。本内容では、城郭考古学の知見と文献史料を突き合わせ、木沢・三好・織田の三者が実践した居城移動の論理と、中世から近世へと移行するメカニズムを解き明かす。

本拠・後背地二元構造と山ノ城の誕生

中世における支配構造を理解する上で、村田修三氏が提示した大和の「山ノ城」論は示唆を与えてくれる。1532年(天文元年)から始まる天文年間、大和の有力国人たちは、奈良盆地(国中)の本領である「郷」に生活・農政の基盤を置きつつ、政治的・軍事的な危機に陥った際には盆地東側の「東山内」などの峻険な山間部に逃げ込み、勢力を立て直すための「後背地」を維持していた。この「郷(本拠・平野部)」と「後背地(避難所・山間部)」という二元的なセット関係において、後背地の縁辺部、すなわち郷を見下ろす山麓や山頂の境界に営まれた詰城こそが「山ノ城」の正体であった。

ChatGTPが作成した山ノ城論のイメージイラスト

この二元構造は、畿内近国の守護権力にも共通するパターンであった。例えば、河内守護の畠山氏や摂津守護の細川氏は、平野部の居館や台地上の拠点城館を本拠としながらも、合戦に敗れると山間部に沒落し、現地の土豪・地侍層を取り込んで再起を図り、再び本拠を奪還するというパターン化された軍事行動を繰り返していた。畠山稙長や畠山高政が、本拠である高屋城を追われるたびに紀伊国伊都郡などの山間部へ没落し、そこから河内への復帰を狙った動向は、まさにこの中世的支配モデルを体現している。

こうした中世守護や地域権力の支配地域における城館の構造化すると、平野部の政治拠点と山間部の支持基盤がどのように機能的に噛み合っていたかが明瞭になる。

  • 本拠域(平野部・政治中心)-城館の分布は極めて疎。守護の平地居館や広大な台地城(高屋城、芥川城周辺など)。-摂津平野部、河内平野部、大和盆地(国中)。-領国統治、行政、守護の政治権威を誇示する場。周辺に防衛的城館は少ない。

  • 防衛・往来空間(中間・境界帯)-横堀や切岸、竪堀などを多用した、臨時性・軍事性の強い縄張り(ライン型城郭)。-平野部から山間部へと移行する国境・山麓部(高安山城など)。-本拠と後背地を繋ぐ軍勢の往来の管理、外敵に対する防衛ラインの形成。

  • 軍isit的後背地(特定山間部)-一辺50メートル程度の中小規模な城館が稠密に分布(普遍的な切岸型城郭)。-摂津の能勢郡西郷、河内南端から紀伊国伊都郡にかけての山間高原地帯。-在地の土豪・地侍層の拠点。敗戦時における守護の避難・軍事組織化の基盤。

この畿内近国の城館構成モデルが示すのは、守護公権といえども、自前の常備軍を持たず、特定の山間部に盤踞(ばんきょ:「しっかりと根を張って動かないこと」や「広い土地を占めて勢力をふるうこと」を意味する言葉)する小規模な土豪層の軍事力と地域社会に依存していたという限界である。木沢長政はこのモデルの「隙間」を突くことで台頭し、三好長慶と織田信長はこの依存関係そのものを解体していくことになる。

国境の狭間と巨大山城の創出

木沢長政は、細川氏(京兆家)や畠山氏という巨頭の下で台頭した畿内地域権力である。享禄3年(1530年)に守護代一族の遊佐氏を暗殺して以降、特定の領国や確固たる後背地(こうはいち:都市や港湾の経済的な影響や結びつきが強く及ぶ、背後の広がりを持つ地域)を持たなかった長政は、守護が本拠を置かなかった「国境の狭間(境界地域)」に拠点城館を相次いで築き、支配圏を強引に拡張していく戦略をとった。

まず長政は、河内国北部の飯盛山山頂(標高314メートル、比高約300メートル)に飯盛山城を構えた。大東市による近年の発掘調査は、この段階の長政の動員力について重要な事実を明らかにしている。城内で広大な平場である「千畳敷」の造成に際し、露出する強固な岩盤の上に最大2メートルもの盛り土を行うという、中世段階としては大規模な土木工事が実行されていたのである。これは、自然地形を単に削平する旧来の山城のあり方を越え、人為的な空間創出によって拠点城館を築くという意志の表れであり、木沢段階における建築技術の先進性を物語っている。

飯盛山/四条畷市公式ホームページより引用

続いて天文5年(1536年)、長政は居城を飯盛山城から生駒山地を南下した大和・河内国境の信貴山城へと移した。「木澤方へ今度信貴山之上二城をこしらえ候て、はや移候」と記録されるこの居城移動は、大和における「山ノ城」の出現や畿内における拠点城館の形成において先駆けとなった。江戸幕府の京都大工頭中井家が伝えた絵図に「何れも木沢殿取立之時之古屋敷」と注記されているように、後の松永久秀による大改修の基盤となった曲輪群の骨格は、この長政段階で形成されていた。信貴山城は、軍事要塞に留まらず、近隣の奈良・興福寺などの寺社使者が次々と訪問し、音信・贈答、高度な政治交渉を行う「政庁」として機能していたのである。

信貴山城からの眺望/ウキペディアより引用

さらに天文10年(1541年)、長政は南山城の木津川を臨む要衝に笠置城を築いた。元弘の乱で後醍醐天皇が立て籠もった笠置寺の跡を利用したこの城は、山岳寺院という「聖域(アジール)」を城郭に取り込むことで、宗教的権威と軍事力を融合させる意図を持っていた。

信貴山ヨリ木沢、テンカイヲ通テ、笠山へ入部、入城ヲ作ル時、金塔有、木沢殿御取有也

享禄天文記

とあるように、長政は自ら軍勢を率いて山へ入り、寺院空間を瞬く間に拠点山城へと改変していった。

笠置城内ある本尊の弥勒磨崖仏/ウキペディアより引用

しかし、長政が試みた「国境の城」を媒介とする支配には、背後の地域社会(土豪層)に依存せざるを得ないという、過渡期特有の限界がつきまとっていた。天文10年11月26日、笠置城に伊賀衆・甲賀衆の「忍び」が夜討ちを仕掛け、城内三カ所の曲輪(ツキ)のうち一、二カ所を奪取する事件が起きる。この時、城を守っていた長政の親族「右近」らは、城内の「弥勒ノタケ」を死守したものの、高い山城ゆえに「水がない(一向水無)」という致命的な弱点を抱えていた。さらに城方の危機に拍車をかけたのが、城の背後に広がる高原地帯「神戸四箇郷」の土豪である小柳生氏や簀川氏の離反であった。

小柳生氏や簀川氏は、大永4年(1524年)の合戦の際にも、周辺の土豪と結んで対立する狭川氏を追い落とそうと笠置に攻め上るなど、地域的な権益をめぐって合戦を繰り返す自立的な存在であった。笠置城を維持するためには、これら背後の地域社会を味方につけ、その物流や兵力に依存せざるを得なかったのである。長政は翌天文11年(1542年)、高屋城において傀儡であった守護の畠山長経を殺害するなど専横を極めたが、これを契機に反木沢で一致した細川晴元・三好長慶・遊佐長教らの包囲網に直面し、太平寺の戦いにおいて敗死、国境支配は一代で瓦解した。

三好長慶による二元構造の超克と五畿内統治の完成

木沢長政の挑戦と挫折の跡を継ぎ、その「国境の城」というプラットフォームをより国家政権の支配機構へと昇華させたのが、最初の天下人と評価される三好長慶である。長慶は、阿波という盤石の動員基盤と、堺をはじめとする巨大な流通支配網を掌中に収めることで、従来の守護が脱却できなかった土豪層や山間後背地への依存関係を超克(ちょうこく:困難や苦しみに立ち向かい、それに打ち勝って乗り越えること)した。

三好長慶像/絹本著色/聚光院蔵/重要文化財

長慶の居城移動のプロセスは、摂津・河内・京都・大和という畿内中枢部の掌握プロセスと連動している 。

  • 越水城-天文8年(1539)-西国街道と四国・淡路島への海路の結節点。商都・堺や西宮の物流を管理する実用的な平地城郭。-主君・細川晴元の重臣として台頭する中、阿波と畿内を結ぶ物資供給ラインの起点として機能。

  • 芥川山城-天文22年(1553)-主郭部に大型の礎石建物、最初期の瓦、城主の圧倒的権力を視覚的に見せる精緻な石垣を導入。-将軍足利義輝を近江国朽木へ追放 。戦国期で初めて足利将軍家を擁立しない「三好政権」の天下の政庁。

  • 飯盛山城-永禄3年(1560)-巨石を用いた石垣、礎石建物、瓦を全面的に採用した西日本最大級の城郭。織豊系城郭の先駆。-家督と摂津支配(芥川山城)を息子の義興に譲り、長慶自身は新領国となった大和・河内を監視する飯盛山城へ前進。

長慶が成し遂げた画期は、守護たちが行ってきた「敗北時に山間後背地に逃げ込み、土豪層に依存して再起を図る」というパターン化された軍事行動からの訣別である。

長慶は天文19年(1550年)に近江へ数万の軍勢を送り、天文22年以降は丹波、永禄2年(1559年)以降は大和へと軍事力を拡張していったが、これらは山間後背地を拠点とする往来ではない。長慶の居城移動は、「支配領域の拡大と政治統治の最前線に合わせて、自らの本拠地そのものを前進的に再配置する」という能動的なものへと進化した。従来の「平野部の本拠と山間部の後背地」のセット関係は意味を失い、後背地にあった土豪たちの小規模な城館群や、境界に設けられた軍事的な山城は、相対的にその存在意義を低下させていった。

特に永禄3年(1560年)の飯盛山城への居城移動は、高度な統治システムを具現化したものであった。長慶は自らの後継者である三好義興に家督とそれまでの拠点であった芥川山城を譲り、二頭政治を敷きつつ、自身は新たに配下に加わった大和や河内を睨む飯盛山城に入った。これは、旧体制の安定維持(芥川山城)と、最前線における新規支配領域の強力な統合(飯盛山城および松永久秀の信貴山城)を両立させる、支配構造の創出に他ならない。

飯盛山城において長慶は、最先端の連歌会「飯盛千句」を開催し、キリスト教の布教を公認して70余名の武将に洗礼を許すなど、高度な精神・文化空間を演出した。これは、かつて木沢長政が国境の山岳宗教施設を利用して生み出した「聖域の包摂」というアイデアを、ヨーロッパの宣教師すら驚嘆させる「国際的・先進的な政庁空間」へとアップデートしたものであった。長慶は特定の土豪の武力に依存することなく、広域の徴税網、流通網(堺・西宮・兵庫)、そして大軍勢を率いることで、中世の呪縛を解き放ったのである。

ChatGTPが作成した洗礼のイメージイラスト

織田信長における首都移転の徹底と城郭モニュメント化への飛躍

三好長慶が構築した「前線への居城移動」と「家督継承と連動した支配拠点の複線化」というシステムを、日本列島規模のスケールへと拡張し、近世城郭のモニュメント化させたのが織田信長である。信長は10代で那古野城主となって以降、清須城、小牧山城、岐阜城、そして安土城へと生涯に4回も居城を遷移させた。この「引越し魔」とも評される信長の背景には、織田家が津島湊などの豊かな流通拠点を押さえていた財政力と、常備軍を組織した「兵農分離」という基盤が存在した。

信長の居城移動のプロセスにおいて、大転換期となったのが永禄6年(1563年)の清須から小牧山への移転である。

それまで、わずか4年の短い居城期間から「美濃攻略のための簡易的な砦」と過小評価されてきた小牧山城だが、近年の発掘調査により、山頂部を石垣で防御し、その周囲に家臣団を強制的に居住させる広大な城下町が計画的に整備されていたことが判明した。これはまさに、清須から小牧へと拠点と住民を丸ごと強制移動させる「尾張国首都移転構想」の具現化であった。

小牧山城/模擬天守/小牧市歴史館/ウキペディアより引用

『信長公記』は、家臣団の反対を押し切ってこの移動を成功させた、信長の巧みな誘導プロセスを記録している。信長は当初、極めて不便な二ノ宮山への移転を命令し、家臣団が「あのような険しい山中への移転は上下ともに大いに迷惑だ」と困惑しきったタイミングを見計らって、「では小牧山にしよう。あそこならば麓まで川続きであり、家財道具を運ぶのも便利だ」と言い出した。家臣団は最悪のシナリオ(二ノ宮山)に比べて格段に好条件に見える提案を大喜びして受け入れ、永禄6年に一斉に移転した。この心理操作(御巧み)を通じて、信長は土地的紐帯に縛られていた家臣団を新しい都市空間へと再配置し、統治体制を著しく強化することに成功したのである。

続く永禄10年(1567年)、美濃の稲葉山城を奪取した信長は、城の名を「岐阜」と改め、ここに居城を移した。岐阜城において信長は、本丸に豪華絢爛な「見せる御殿」を造営し、山麓の城下町には楽市楽座を敷いて自由な商取引を保証した。それまでの「戦闘・防御のための施設(土と堀)」であった中世城郭は、信長の手によって「自らの権力と威厳を誇示し、客人を歓待するための建築複合体(モニュメント)」へと劇的に性質を変えていった。

岐阜城/模擬天守/ウキペディアより引用

そして、この居城移動の終着点であり、中世から近世への脱皮を象徴するのが、天正4年(1576年)の安土城の築城である。

信長は天正3年(1575年)11月、東国への備えと岩村城攻略などで武功を挙げた嫡男の織田信忠に織田弾正忠家の家督とそれまでの本拠であった岐阜城、そして美濃・尾張の領国を譲渡した。自らは、天正7年(1579年)の安土城完成を待って、琵琶湖の東岸に位置する要衝へと移り住んだ。

安土城天守礎石跡/2024/2/投稿者が撮影

この「実績のある後継者(信忠)に既成の広大な領国と拠点(岐阜城)を管理させ、最高実力者(信長)自身は、日本列島の流通・交通の最大の結節点であり、京都に近い安土へ前進して新城を築く」という意思決定の構想は、規模の大小こそあれ、三好長慶が義興に芥川山城を譲って自らは国境の飯盛山城に入ったシステムと同一のロジックに基づいている。安土城は、単体の防衛機能を越え、総石垣、巨大な天主、瓦葺の建物を擁する「絶対権威のシンボル」として機能し、日本の中心部(京都・五畿内)を掌握・統治するための超越的な政庁となった。

木沢・三好・織田にみる居城移動の歴史的螺旋

木沢長政、三好長慶、そして織田信長。時代もその直面したスケールも異なる三者の歩みは、中世の「本拠・後背地」二元構造の解体から、近世の「絶対的権力とモニュメント城郭」の誕生へと至る、一本の連続した発展の系譜を描いている。居城移動の地政学的意味と物質的・政治的進化をたどると、その構造的な連動性がより鮮明に浮かび上がる。

まず、木沢長政は「国境の狭間」という空白地帯に目を向け、それまで守護の本拠となっていなかった河内・大和の境界領域(飯盛山、信貴山、二上山、笠置山)を大規模な山城群によって結び、これらを動的に遷移することで支配領域を創出する手法を切り拓いた 。この「特定の歴史的後背地に依存しない」姿勢は、斬新な地政学的アプローチであった。

三好長慶は、この木沢の空間構築のロジックをそのまま引き継いだ。長慶が永禄3年(1560年)に本拠として選んだ飯盛山城、そしてその重臣・松永久秀が支配拠点とした信貴山城は、いずれもかつて木沢長政が畿内政治を揺るがすための司令塔として機能させていた「国境の城」の再起動(トレース)であった。長慶は、木沢の先駆的な「国境のネットワーク」というインフラを受け継ぎつつ、堺や港湾の流通支配、そして数万の直轄軍を背景とすることで、木沢が克服できなかった「背後の地域社会(小柳生・簀川などの土豪層)への依存」を克服し、本拠と後背地の切り離しを成功させたのである。

さらに信長は、長慶が創出した「本拠地前進」および「世嗣と本拠城の複線化(芥川山城と飯盛山城)」という統治システムをスケールアップさせ、家督を譲った信忠を岐阜城に置き、天下統治の要衝である近江の安土城へと入ることで、広域中央集権国家の骨格を完成させた。物質的な面においても、長慶が芥川山城や飯盛山城で先駆的に導入した「石垣」「瓦」「礎石建物」という城郭構造の三要素(織豊系城郭の萌芽)は、信長の小牧山、岐阜を経て、近世城郭のモニュメントたる安土城の壮麗な高層天主へと結実していった。

戦国時代の城を考える上で、居城移動とは単なる「引越し」ではない。それは、大地と土豪層に根ざしていた中世の呪縛を振り払い、天下というより広域な政治秩序を創出するために行われた、権力者たちの政治的意志の現れであった。木沢長政の境界的模索から始まり、三好長慶による五畿内統治の完成を経て、織田信長の天下布武へと至る歴史の螺旋は、まさに日本の支配構造が中世から近世へと激変していく、ダイナミックな空間創造の軌跡に他ならない。

この内容はGeminiを基に、投稿者との対話を繰り返して作成した

  • この記事をご覧いただけましたら、見ましたよ!という訪問記念として「スキ」ボタンを押していただくと、励みになります。

  • また記事の内容が気に入っていただきましたら、このような歴史関連の記事を執筆していきたいと思いますので、執筆者フォローして頂くと大変嬉しいです。

いいなと思ったら応援しよう!