蜜柑の皮【風まかせ文芸部】
参加させていただきます。
蜜柑の皮を剥く指先に、奇妙な既視感を覚えた。目の前で向き合う女性の姿に見覚えはない。それどころか、果たして僕のいるこの場所は何処なのか、僕という人間は誰なのか。何一つとして、今の僕には理解できなかった。
女性──齢はとうに八十を過ぎているだろうか──は、小刻みに震える指先でゆっくりと蜜柑の皮を剥いている。綺麗とは到底言えないような小さく千切れた皮を集め、傍らの屑籠に入れる。きっとこれも、日常の風景と呼べるのだろう。記憶さえ、僕の脳髄にあるならば。
窓の外は、奇妙な程に静かだ。こういうときは大方、音も立てずに雪が降っているものだ。そう教えてくれた先生は──何という名前だったか。
「降りますねぇ」
女性は、ぽつりとそう呟いた。カーテンで何も見えないはずの窓の外に目を凝らすようにしながら、僕に微笑みかける。
「……」
僕は、返答に窮した。果たしてこの女性が誰かわからない以上、不用意な返答はすべきでないと思った。本当はここから立ち上がって逃げ出したいような気もするが、身体はそれを許してくれなかった。
怖い。
それなのに、奇妙な程に心は温かい。
「蜜柑、食べましょうか」
女性は何かを諦めるような素振りをして、僕にそう提案した。皮を剥いた蜜柑を顔に近づけてまじまじと見てから
「はい、どうぞ」
と言って僕に手渡した。それを恐る恐る受け取って、一欠片頬張った。柑橘の香りと、穏やかな酸味。味覚が連れて来るものは、時として奇跡という名をしている。僕は女性を見て、思わず微笑む。
「……なんだ。君だったのか」
女性──僕と長い時を共に過ごした最愛の──は驚いたように僕を見てから、「はい、私ですよ」と微笑んだ。その目に煌めく涙の理由はきっと、僕の脳髄を蝕んだもののせい。
「久しぶり……じゃないんだろうね」
「ええ。ずっと、ずっと……一緒にいました」
その涙も微笑みも、ずっと僕のそばにいた。忘れる事は、罪だろうか。たとえ、病に飲み込まれたのだとしても。
「私の名前、覚えてますか」
「ああ、覚えている。忘れるはずが……いや、ついさっきまで忘れてしまっていたのだけどね」
頭を掻いてから、最愛の人を見つめた。きっと、すぐにまた僕は忘れてしまうだろう。この記憶も、脳の何処かに留まる事なく消えていくのかもしれない。
──でも、君は忘れずにいてくれるだろう。きっと、きっと。
見つめた姿は出会ったあの頃よりずっと年老いていて、その年月を忘れてしまった自分が憎たらしいけれど。
「出会ってくれてありがとう──」
その名を呼んだ。記憶はまた、はらはらと散っていく。
了
あとがき
お久しぶりの参加になってしまいました。よろしくお願いします。
忘れる事は、心を守るために人間に用意された防衛本能のひとつだと思っています。とは言え、病によって「覚えていたい記憶」まで奪い去られる苦しみは、痛みよりもずっと強いのかもしれません。
味覚や嗅覚は、時として記憶を呼び覚ますように思えます。本作ではそのキーアイテムとして「蜜柑」を使わせていただきました。
愛していただければ幸いです。お読みいただきありがとうございました。また後でね。
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