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子どものしあわせのためにできること

わが子が笑ってくれること、元気でいてくれること、幸せになってくれること。
これが母となった私の、「幸せ」なのだと信じて疑わなかった。

その思いが、知らず知らずのうちに私を、過保護で過干渉な母へと変化させたのかもしれない。

子どもの幸せだけが私の幸せだとするなら、子どもが学校へ行けず苦しむ姿を目にする時、どんな気持ちになるだろう。
そうなって初めて、私は自分の中の洗濯をすることになった。

良かれと思い正しさを教えてきた。間違いを正した。我慢することを暗黙で了解させた。

子どもたちに願うこと。
幸せであってほしい。
自分らしく生きてほしい。
のびのび過ごしてほしい。

そう願っていたはずなのに、その逆を押しつけていたことに愕然とした。私はいつも怒っていた。

そもそも、私が考える「幸せ」は、子どもたちの幸せなのだろうか。
私の「幸せ」ってなんだったんだろうか。
子どもたちが幸せであってほしい。その思いは絶対に嘘ではないけれど、私は今「幸せ」だろうか。幸せの中で子どもたちと一緒に過ごしているのだろうか。
見たくない自分の暗闇を、見つめる必要があった。

子どもが幸せであれば、私も幸せな気持ちになる。それは当然のことかもしれない。
けれど、その“全部”を子どもに預けてしまえば、私は私として生きていないことになる。
母という役目の中で、自分の幸せを子どもの人生に重ねてしまう。
そんな母には、なりたくない。

子どもにそれぞれの幸せを、見つけてほしいと願うなら。幸せな道を歩みながら更なる幸せを見つけてほしいと願うなら。

今ここで、小さな幸せを味わずに過ごして、その先に大きな幸せが待っているはずがない。
私には見過ごした幸せが、たくさんあるのではないかと思った。

自分が子どもの頃の、幸せの記憶を呼び起こしてみる。
目が覚めると台所から聞こえる、トントントンというまな板の音。
朝一番、父のために淹れるコーヒーの香り。
起こされるまでぬくぬくと布団にくるまっている時間。
家族でテレビゲームをしたこと。
庭で吹いた、たくさんのシャボン玉。
雪だるま。バドミントン。
桜の木の下で撮ってもらう写真。
花火。神社のお祭り。
うたた寝してるときに、口に放り込まれた梨のみずみずしさ。
好きな本の話を、母がゆっくり聴いてくれたこと。
母がごきげんで歌い踊るのを見て、弟妹たちと笑い転げたこと。

浮かぶのはどれも、小さな瞬間だった。
それならば、私がこれまで子どもと過ごした時間にも、幸せのかけらがきっとたくさんあるだろう。

母という立場で、我が子の幸せのためにできること。

私自身が幸せであること。
幸せに向かうかもしれないという、おぼろげな何かを子どもたちに教えるより、今ここの幸せを、共に味わうこと。
一緒に笑って、一緒に泣いて、私らしく、子どもたちにとって、たった1人の母でいること。
私は私でしかいられない。その姿で側にいよう。
怒っても泣いても、笑ったり謝ったりしながら、側にいよう。
葛藤しながらも、喜びに目を向けて日々を過ごそう。
子どもになってほしい姿を望むなら、私がそれをやってみる。

いつか子どもたちが、「自分の幸せってなんだろう」と立ち止まるとき、この日々の断片が、その先を照らす光のかけらになってくれるといい。

その道を私が、共に歩くことはないからこそ、この何でもない日々の、小さな幸せを一緒に喜んでいきたい。



この記事は、やまだめぐみさんの企画
#子どものしあわせのために何ができるか
に参加させていただきたくて、書いたものです。

娘たちの幸せのことを考えると、自分を見つめ直した時のことを思い出します。
そのことを書いてみました。

こうして文章にできたことを、嬉しく思います。
やまだめぐみさん、ありがとうございます。




【追記】

やまだめぐみさんの素敵な本ができました✨️

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