見出し画像

【読了】『冬の鷹』吉村昭

先日、幕末直前のころの長崎通詞森山栄之助が、漂流してきたアメリカ人のラナルド・マクドナルドから英語を学び、激動の時代に生きた話、『海の祭礼』について書きました。

今回は、もう少し時代を遡り、
「解体新書」の翻訳に力を尽くした前野良沢のことが書かれた『冬の鷹』を読んでみました。
「解体新書」または「ターヘル・アナトミア」と聞けば、杉田玄白が翻訳して世に出した解剖図、というイメージがありました。
しかし、この翻訳は中津藩の藩医だった前野良沢が中心となってすすめたものだったということがわかりました。

前野良沢は幼少の頃、母方の伯父(藩医)に引き取られて育ちます。
この伯父が大変な読書家で、着物を質に入れても本を買ってしまうような勉学好きな人でした。医学だけでなく、さまざまな教養に深い人だったのでしょう。
良沢はこの伯父から学問を習い、修養をつみます。

「世の中にはすたれかけている芸能が数多くある。が、人というものはそれを見捨ててはならぬ。大切にとりあつかって、後の世につたえるようにしなければならぬものだ。それと同じように、人がかえりみぬものに眼を向け、それを深くきわめることにつとめよ。よいな、人としてこの世に生をうけたかぎり、そうしたことに身をささげねばならぬ」

『冬の鷹』吉村昭(新潮文庫)

この伯父の言葉に大きな影響を受けます。
彼は、医学の分野にある(はずの)未開拓の世界に足を踏み入れようと決心するのです。
また、同時に演奏できる人が稀になってしまった楽器の稽古もはじめます。
それは、一節截(ひとよぎり)という室町中期に中国からつたわった尺八に似た縦笛でした。渋い。

その後、良沢は中津藩の藩主の許しを得て、短期間長崎に遊学、オランダ語の習得に努めます。
ここで彼を世話した長崎通詞の勧めにより、後の彼の人生を変えることになる、2冊の書物を手に入れるのです。
「仏蘭辞典」「ターヘル・アナトミア」
どちらも大変貴重で高価なものでしたが、藩主から与えられた費用で手にいれ、大切に江戸に持ち帰ります。

当時の良沢の語彙力では、どちらの本も全くもって理解不能。
そんな時、同じ医者である杉田玄白から「腑分け」を見に行く誘いを受けます。
これは、処刑された罪人を解剖することです。
大変貴重な機会であったので、良沢は出かけていきます。
偶然にも、杉田玄白も「ターヘル・アナトミア」を持っていました。
二人は腑分けの場で、この本に描かれている人体の解剖図の内容が事実であることに驚き、日本の医学に貢献できるであろう、この本の翻訳を決意するのです。

紆余曲折あって、翻訳は一応の形が整いますが、ここで、良沢と玄白の道は分かれてしまいます。
良沢は翻訳が不十分であり、出版には消極的でした。しかし、玄白は出版を強く望みます。
玄白からすれば、良沢は人嫌いで扱いにくい人物でした。それでも彼のオランダ語の知識が頼りだったので、気を使っていたわけです。
世の中を変える書物なのに、今出さないで、いつやるの?って思っていたに違いありません。
結局、良沢は玄白とその仲間であった翻訳チームとは別の生き方を選びます。

杉田玄白という人は、今でいうとピープルスキルの高い人なんでしょう。
「解体新書」出版の後、彼は名声を得て、出世街道を爆進していきます。
私塾を作り、後進の者たちを教育し、医学の世界を変えていくのです。
公私共に華やかな人生でした。
おそらく、会社にいたらできるやつタイプですね。
出版にあたり、幕府からお咎めを受けないよう、知恵を絞って危機回避したり、プロモーション力も高い人なんです。
現代に生きていたら、間違いなくビジネスの世界で成功しそうな人です。

対して、良沢はコツコツとオランダ語に向き合います。
「解体新書」の翻訳の経験が彼の語学力を押し上げたので、医学ではない分野の自然科学系の本なども翻訳しています。
時にはラテン語の本も翻訳したそうです。
学者気質でこだわりの強い人なんでしょう。
普通に付き合いにく人なのかもしれません。

彼は人生をかけてオランダ語の本を読むことに邁進します。
本から知識を得ることに喜びを感じていたのかもしれません。
家族と、数少ない友人とだけのお付き合い。
晩年は切なくなるほど寂しいものになってしまいましたが、老いてもう本が読めなくなってもなお、書見台にはオランダ語の本を置いて眺めていたそうです。

良沢ももう少し上手く立ち回ったらよかったのに、、と思いましたが、中津藩の藩主、奥平昌鹿の言葉が素晴らしい。

三十歳をすぎたばかりの昌鹿は、家臣の訴えをにこやかな表情できいていた。かれにとっても、「解体新書」の訳者が他藩の医師玄白であることが口惜しかったが、洋学に深い理解をしめす昌鹿は、学究肌の良沢に好意をいだいていた。
「まあ、よいではないか。藩務に精励するのも藩医の勤めなら、広く天下後世の民に益する学業にはげむのも勤めではないか。あれは、オランダ語の化物だ。あのような者が一人ぐらいいてもよい。放って置け」
 と、かれは、笑って家臣の訴えを制した。

『冬の鷹』吉村昭(新潮文庫)

上司がこんな心の大きな人だったら、部下は幸せですよね。

良沢のような人が、人生を投げ打って外国語と向き合い、知識の習得に力を使ってくれたおかげで世の中を変えることができたのかもしれません。
藩主の言う通り、
広く天下後世の民に益する学業にはげんだ人でした。
長めの本ですが、良沢と玄白、この二人の対照的な人物の生き方を知ることができるとても興味深い本でした。
読んでよかった、とても良い本でした。

Happy Reading!

#読書感想文 #冬の鷹 #吉村昭 #前野良沢 #解体新書  # おすすめ本 解体新#ターヘル・アナトミア #杉田玄白

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集