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春の風が頬を掠めるたび、記憶の底からあの日の音が響き出す。桜の花びらが宙を舞う4月の午後、5歳の私はまだ小さくて、世界は果てしない迷路のようだった。怖さと好奇心が小さな胸でせめぎ合い、短い足を頼りなく震わせていた。

その春、父が突然言った。「自転車に乗れるようになれよ」。物置の奥から出てきたのは、錆びた赤い自転車だった。補助輪はなく、フレームには傷が刻まれ、サドルは擦り切れていた。でも父の目には、遠い日の光が宿っていた。「俺が初めて乗ったやつだ。お前にもできるさ」。その言葉は命令というより、懐かしさに滲んだ挑戦だった。私は小さな手を握り、「やってみる」と呟いた。春の陽射しが一筋、私の背に落ち、まるで世界が「始めなよ」と囁いた気がした。

最初は無残だった。公園の砂利道で何度も転び、膝に赤い線が刻まれるたび涙が溢れた。ペダルを踏むと車体が大きく傾き、恐怖が喉を締め付ける。「まっすぐ見ろ!」「足を止めんな!」と父が叫ぶ声が遠く響き、私の心は折れそうだった。「無理だよ、私にはできない」。しゃがみ込んで呟いた声は風に消えそうで、その横に父が静かに膝をついた。「最初は誰だって転ぶ。俺も泣いたさ。でもな、諦めなけりゃ、いつか風が味方になる」。その言葉は、春の土の匂いと混じって、私の胸に染み込んだ。父の粗い手が私の頭を撫で、もう一度立ち上がる力をくれた。

桜並木の下、私は何度も挑んだ。花びらが髪に絡まり、汗が小さな額を濡らす。転ぶたび地面の冷たさが悔しさを刻み、でも父の「もう一回だ」が耳に残る。遠くのベンチで母が笑顔を浮かべ、「頑張れー」と小さく手を振る姿が、涙で霞む視界の中で灯台のようだった。あの優しい応援が、私の震える心をそっと抱きしめてくれた。

そして、運命の日が訪れた。4月の終わり、夕焼けが空を茜に染める頃だった。いつものようにペダルを踏んだ瞬間、何かが変わった。車体が揺れず、風が耳元を軽やかに撫でる。目の前の桜並木が、スローモーションのように流れ始めた。「乗れてる…!」。その気づきが小さな胸を熱くし、涙が頬を伝った。振り返ると、父が目を細めて立っていた。夕陽が彼の背を縁取り、「やったな!」と叫ぶ声が春の空に木霊した。私は笑いながら叫び返した。「乗れたよ!父ちゃん、見てて!」。公園を一周し、父の前で止まったとき、父が言った。「お前が漕ぐなら、風はどこまでも連れてってくれるよ」。その言葉に、涙が堰を切った。痛みも、悔しさも、全部がこの風の中に溶けていく。

母が駆け寄り、「すごいね、うちのプリンセス!」と小さな私を抱きしめてくれた。夕暮れの桜の下、三人で笑い合ったあの瞬間は、色褪せない絵画のように私の記憶に刻まれた。父の言葉が胸に響く。「風はどこまでも連れてってくれる」。それは、5歳の私に贈られた人生の鍵だった。

あれから幾つもの春が過ぎ、私は大人になった。あの赤い自転車はもうなく、父の声も母の笑顔も遠い記憶の中だけれど、桜が咲くたび、あの日の風が私を包む。5歳の私が初めてペダルを漕いだあの春は、転んでも立ち上がればいいことを教えてくれた。そして、信じてくれる誰かがそばにいれば、どんな恐怖も越えられるということだ。

今の私は都会の広告代理店で働く30歳の女だ。昨日、オフィスでデスクに向かっていたとき、クライアントからの修正依頼メールが次々と届き、明日提出期限のキャッチコピー案が私を追い詰めていた。上司の「これじゃ通らないよ、やり直して」の声が頭をよぎる。「無理だよ、私にはできない」。あの日の呟きが蘇る瞬間、オフィスの窓から桜が見えた。桜の花びらが風に舞い、5歳の私が笑う。「怖くても、漕いでみなよ。風はきっと、待ってるから」。私は目を閉じ、あのペダルの感触を思い出す。5歳の私がそっと背中を押す気がして、ペンを握り直す。

人生は自転車に乗るようなものだ。最初はバランスを崩し、膝を擦りむくこともある。でも、もう一度風に向かって漕ぎ出せば、いつか風が頬を撫で、笑顔がこぼれる瞬間が来る。あの春の父の言葉が、今の私を支える。「お前が漕ぐなら、風はどこまでも連れてってくれるよ」。私は誰かにこの話をしたくなる。あの小さな挑戦が、私をここまで連れてきてくれたと。

【完】


みずのさんのコンテストに参加させていただきました。正直、春を振り返っても特別な思い出が浮かばなかったのですが、誰しもある「自転車に乗れるようになった瞬間」は僕にもあって、それがこの物語の元になりました。

そして以前、↓↓

でも書いたことがあるんですが、15歳から大人にった今も大変で、何度も転びました。

不運や仕事の失敗で何度も転び、膝を擦りむいてばかり。それでも、コケながら立ち上がってきた自分を振り返ると、あの5歳の少女と重なる瞬間があって、『あの春、風になった』が生まれました。


#春になると思い出すこと



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