影と卵と鳥の身体:村上春樹の地の文を読む
村上春樹の地の文を読むたびに、文章を作るセンスが抜群だなと思う。
たとえば、こんな一節がある。
新たにもたらされた代替物が何であれ、つくるはその内容を理解することもできなければ、容認も否認もできなかった。それらは影の群れとして彼の身体に留まり、影の卵をたっぷり産みつけていった。やがて闇が去り浅暮が戻ると、鳥たちが再びやってきて、彼の身体の肉を激しくついばんだ。
こんなの、ほとんど詩じゃないか。
登場人物が抱えている、うまく言葉にできない嫌なもの。
普通に書けば、「彼は不安を感じていた」とか「彼は得体の知れない恐怖を感じていた」とか、そういう文章になるはずだ。
ところが村上春樹は、それを「影」として描く。
しかも、その影はただそこにあるだけではない。
影の群れとして身体に留まり、さらに「影の卵」を産みつけていく。
そして闇が去ると、今度は鳥たちがやってきて、その身体の肉をついばむ。
すごい。
「嫌な気持ち」を「嫌な気持ち」として説明していない。
その嫌なものが、もし本当に身体の中に存在していたら、どんな姿をしているのか。
それを影や卵や鳥というイメージに置き換えている。
だから読者は、「この人物はつらいのだ」と説明されるのではない。
つらさそのものを、奇妙な映像として見せられる。
これが村上春樹の地の文の凄さなのだと思う。
ざっと流し読みすれば、「なんだかオシャレーな文章だな」で終わってしまう。
しかし、一文ずつ立ち止まって見ていくと、とんでもない情報量が詰め込まれていることに気付く。
「影」なのだから光がなければ存在できない。
「卵」なのだから、そこから何かが生まれてくる。
「鳥」はその肉をついばむ。
一つのイメージが、別のイメージを呼び、さらに別のイメージへ繋がっていく。
文章そのものが、小さな物語を作っている。
noteで村上春樹のこういう文章を一文ずつ検証している人の記事を見たことがある。
その気持ちがものすごく分かる。
「この文章、なんでこんなに引っかかるんだろう」
そう思ったときに、その文章を解体してみたくなる。
最初はただ「オシャレだな」と思っていたものの中から、構造や比喩や言葉の選び方が次々に見えてくる。
その記事を書いていた彼には脱帽して、何個かスキを押させてもらった。
いや、彼女かもしれないけれど。
⸻
村上春樹は、やたらと批判されてしまう作家の一人でもある。
先ほど柳田邦男の『もう一度読みたかった本』を読んでいたら、現代の作家の名前がいくつか並んでいるところに、村上春樹の名前もあった。
柳田邦男は、何というか、気付かないような皮肉が上手い気がする。
芥川龍之介の『侏儒の言葉』を解説しているところでは、基本的に、それぞれの文章がどう優れているのかを丁寧に解説している。
ところが、突然、
」
「こうした言葉は、いずれも陳腐な印象を免れない。病魔に蝕まれる中で、筆に乱れが生じたのだろうか
と書いている。
急に怖い。
芥川龍之介の作品を褒め続けていたと思ったら、いきなり「陳腐」と言ってしまう。
しかも、その理由として「病魔に蝕まれる中で、筆に乱れが生じたのだろうか」とまで書く。
芥川龍之介からしたら、たまったものではない。
僕は芥川龍之介の作品では『河童』が一番好きなので、もし死後にこんなことを書かれていると知ったら、かなりキツい。
「俺の『河童』、好きって言ってくれる人もいるんだけどなあ」と、あの世で少し悲しんでいるかもしれない。
でも、そういう批評が続いているからこそ、『もう一度読みたかった本』は面白い。
ただ「この本は素晴らしい」と言って終わる読書感想ではない。
褒めるところは褒める。
駄目だと思ったところは駄目だと言う。
そして、その作品がなぜそうなったのかまで考える。
こういう読書をしている人の文章を読むと、僕もまた本を読みたくなる。
最近、僕は小説を読むことも「読書」に含めていいのだと思うようになった。
以前は、小説なんてエンターテインメントだと思っていた。
でも、小説の文章には、作者が世界をどう見ているのかが詰まっている。
影の中に卵を産みつける文章もあれば、川面を流れていく花束のような文章もある。
作者が世界をどう見たのか。
それを言葉にしたものが文章なのだとすれば、地の文だって十分に思想なのだろう。
だから僕は、村上春樹の文章を読む。
物語の続きを知りたいからというだけではない。
一人の人間が世界をどんなふうに見て、それをどんな言葉に変えたのか。
その変換を見るのが、面白いのだ。
そして、そういう文章に出会ったとき、僕はたぶん、本を読んでいるというより、誰かの見ていた世界を少しだけ覗いている。
