僕は僕の外郭を社会に適応させる膜で覆っていた。膜は次第に大きくなり、「僕」という存在自体の思考、行動、様式を徐々に、しかし、それはあまりに劇的に緻密に変容させて行った。

私は、それが「私」だと思っていた。私という生き物は社会に適応したのだ。深い思考を捨て、読書を捨て、犬を捨て、家族を捨て、実家を捨て、身軽になった「私」を、私は「私」だと規定した。
ただ、金を稼いで暮らす、現代社会を生き残ることなど実に容易い。深い関係などというものは、足枷にしか過ぎない。身軽に生きろ、私は社会の空気を身に纏っていた。

俺には、実家に残した犬がいた。犬はなんというか馬鹿だ。
俺がどれだけ家を空けて他県の大学に行き、たまに夏季休暇で帰って来ようものなら、母に抱かれた状態で駅のホームで尻尾をブンブン振り回しているのだ。
俺がどれだけ遅く帰ってきても、わざわざ玄関まで迎えに来て出迎えてくれるのだ。

俺にはそれがよく意味が分からなかった。俺の目は常に猜疑心という眼鏡をかけていたので、犬がなぜそんなに俺を信じられるのか理由が分からなかった。
これが人間の女相手にでもしてみろ。特に関心もなく、「おかえり」くらい聞ければ御の字、または遅く帰ってばかりいればいずれ刺されるかもしれぬ。

僕には、犬の気持ちが理解できなかった。僕は最終的に人間というのは、裏切る生き物だと思っている。
いや、裏切るって言いたいのはそういう悪い意味じゃないんだ。この世界で変わらないものはない。
人の気持ち、環境、仕事、生活、など変わらないものはないからだ。全ての物事は変わっていく。裏切るのではなく、みんな変わって行ってしまうのだ。僕たちはそれを静かに受け入れるしかない。

私は、犬の往生前に犬に会うことができた。最近、柳田邦男の『もう一度読みたかった本』を読んでいて、「現代社会では死というものが機械的になってしまった」という言葉に出会った。
これは、現代では死とは管理されたものになったという意味だ。病院のベッドで、管を繋がれて、生体情報モニターからの音が切れて事切れる。
死に対してこういうのも変だが、そこに命の輝き、生命の放つ光はない。

私の犬は、最早動けない状態になっていた。あれだけ元気に動き回り、何でも食べていた、骨太の犬が、ベッドの上で動けなくなっているというだけで、私は泣いてしまった。

そして、あろうことか私の犬は、8年ぶりに会った私に気が付き、ぶるぶると震えながら立ち上がろうとした。
生命の輝きを見た、「私」は、「俺」は、そこにあったちっぽけな猜疑心という眼鏡がバキバキと音を立てて壊れるところを目撃した。

僕はいつの間にか、社会適応したと思っていた膜まで、この一瞬で綺麗に剥ぎ取られてしまった。

うわぁあああああぁああぁああ、と僕は子供のような泣き叫ぶことしかできなかった。

僕は、いや、私はあの時、犬が事切れるまで、彼の手を足を僕の手で繋いでいてあげれば良かったのだ。
死ぬまでずっと、そこにいて、彼の手と足をいつまでもいつもでもいつまでもいつまでもいつもでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも繋いでいてあげれば良かった。

私という私は、俺という俺と一緒に心中し、僕は僕になった。

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