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S & C「問いの農業法」


◯S & Cという言葉

1,はじめに

 前回Q & A に代わる言葉としてQ & Sという言葉を考えてみました。これは、Question(問い)とAnswer(答え)にたいしてSuggestion(提案)という言葉を合わせたもので、答えのない難しい問いに対して専門家でなくとも沈黙してしまうことなく自分たちなりの道を拓くための第三の道として考えたものでした。詳しくは以下をどうぞ。

 では、Q (問い)はS(提案)を生み出してそれで終わりにしてしまっていいものでしょうか。その提案は検討されず、未来を託すちょっとした夢や希望のようなものとしてもいいものでしょうか。それは少しもったいないような気がします。
 そこで、S(提案)に対してConsideration(考察)を加え、その提案の善し悪しを見つけ、Q(問い)を上手くいけば再び複数収穫することはできないかと考え、「S & C」という言葉を考えてみました。
 日常にある不思議や不満が

「どうしてこんなことになっているのだろう?」

という問いを生み出すことは、ありがちという意味でも健全さという意味でも一番自然な流れでしょう。しかし、そうした自然に得られる問いというものは自分の年齢や状況によって直面する難儀な、時に自分の人生に関わる大切な問いだったりします。
 そうした問いは尽きず湧いてくるわけでもありませんし、特段急いで実りある考えを求めにいかなくてもいいものです。
 「Q & S」そして「S & C」という問いの種を蒔いて複数の問いを収穫する循環システムは、自分にとって深刻すぎない、考える材料になる二次的な問いたちを集めることができます。
 これが与えてくれるものを一言で言うなら

「答えの出ない問いという難題に対して、誰もが、気楽に、考えを進めることができる方法」

 です。実にこれは私たちに旅の見通しを与えてくれます。一体自分は何を知らないからこれ以上考えを進んでいけないのだろう? だとか、自分が知ったつもりであったこと、自分が知らないと思い込んでいたものについて気付くきっかけになり得ます。どれも、次の道への視界を開くために役に立ってくれる誰しもに扱える「進むための手段」です。
 ここでは試しに先の問いであった

Q0,「答えのない問いにどう応えれば良いか?」

についての提案

S0,「「教養人」を生み出せば良いのでは?」

について考察を深め、そこから問いを収穫していく一例を見ていきましょう。

◯「教養人」を生み出せば良いのでは?

2, QからSまでの流れのおさらい

 そもそもどうしてこんなS(提案)が出てきたのでしょう。詳しくは前回の記事を見てもらえればと思いますが、ちょっとここでもかいつまんで振り返ってみます。

 そもそも「答えのない問い」とは、例えば「世界平和は可能?」といった漠然とした、言ってしまえば「答えがないとも言えるし、どんなものでも答えと言えてしまう」ような問いのことでした。

 それに対して、それでもQ(問い)に対するA(答え)を与えるとなるとそれは誰にでもできるものではありませんでした。

 例えば政治学の立場から、また例えば歴史学の立場からものを述べて、「〜の観点からは...と考えることができるでしょう。」と慎重に専門家たちは自分たちの責任の取れる範囲までのことを述べます。それはとても狭く、そしてあまりにも深い議論になることが普通で、まれに幅広い知識でものを語る人がいてもほとんどそれぞれの努力の結果であることがほとんどです。そうなると才能まかせの知恵は同等の人たちに確かめられることがなくなり孤立します。孤立した知恵は全部を理解されることはなく、才能があるとはいえ所詮は人間一人の知恵ですから不足も不正確さも出てきてしまいます。そのため称賛には値してもすっかり信用はできないのが常です。

 そのため、私たちは「答えのない問い」に対して、「幅広くも深い、知識人たちの集まり」が必要なのだというところに行きつきました。

 ここで求められたのが「教養人」という枠組みです。これは、先の記事において、大学の学部を卒業したのち養成される、研究者以外のもう一つの道として考えられました。つまり、ある学問の専門家は他の学問のことについて議論はできても胸を張って責任が取れるわけではありませんから、一つの学問の立場からのみ主張できるという重すぎる責任とは異なる、軽くとも幅広い責任を負うことになる道を考えたのです。

 その責任とは「〜学を研究しているために熟知している責任」ではなく、「〜に関わる問題について語るために必要な知恵を得ている責任」であって、例えば政治に関わる問題について語る人であるならば政治学のみならず歴史学や法学、経済学、社会学や哲学などについても詳しくあるべきだといったものです。

 そういう考えから数年かけて比較的専門的な教養を複数身につける道を経た、「人ではなく人々」のことを「教養人」と呼びたいと考えました。

 今回はこれについてよくC(考察)して、冒頭でも述べた通り、二次的なQ(問い)を再収穫したいのです。

◯C,0「「教養人」に求めるものと問題点は何だろうか?」

3, 考察の鉱山から新たな「問い」を発掘する

 議論というものは一人でするものではありません。したがって、ここにおける考察で全ての話をし終えるということはなく、むしろ私がここで議論を進めることで「教養人」という提案はもっと多くの弱点を晒すことになるでしょう。それでいいのです。なぜなら今回は打算的な目的がありました。「一つの問いからより多くの問いを収穫すること」というのがそれです。弱点が生まれたのなら、それだけそれについて考えることが増えたと前向きに喜んでもいいと思います。弱点とはすなわち改善余地、思考余地だからです。すなわち新たな「問い」をあたかも「考察」という鉱山からざくざく掘り出すつもりでしたが、「問い」とは「問題点」という原石を磨いて手に入れるものなのです。

 とはいえまずは「教養人」という人々を実現させることでできるようになるだろうことをまず考えてみましょう。すると必ず、その考えの限界が見えてくるからです。

 そもそも、前回から再三述べてきたように、「教養人」という枠でなくとも、専門家と大学卒業程度の知識のある人たちとの間にある程度深くまた広い知恵をもった人々が必要だと考え、これまで話を進めてきました。

 それは社会の中に知恵の面で頼れる人が増えてくれることを望んでいるからと言えます。

 社会の中で均整の取れた知識人たちが増えれば私たちはその人々の意見を参考にすることができます。

 当たり前のことのようですが、今の世の中で信用できる誰かの意見を参考にするということはかなり難しいのではないかと思います。

 単純に言って、「あの人が言っていたから」と呼べる人は私たちの周りに誰がいますか? 先生や親、友人でしょうか? 別にガーデニングを始めたとか言うことであれば詳しい人に聞けばいいわけですが、「進路をどうしよう」とか「転職をするべきだろうか」だとか、「結婚をするべきだろうか」といった実際の生活上の悩みでさえ、私たちは究極のところ自分自身か或いはパートナーや家族と決断を下さなくてはなりません。最後は何か幸福な未来を信じて賭けに出るしかないのです。

 このある意味での自分の人生を生きる上での特権を取り上げることは誰にもできません。退職代行なんて言葉は割と浸透しましたが、流石に行くところまで行って「人生代行」というサービスは生まれ得ないと信じたいものです。それがない以上は、自分で決めなくてはならない。でも、その判断に対して参考にできる判断材料は頼りにしてもいいはずです。

 自分で下さなくてはならない決断を、自分一人で決めてしまうなら独断です。同じくその判断を他人に全て任せてしまうのならそれは盲従です。

 世の中にはいろいろ怪しげな一部のインフルエンサーが情報不確かで無責任な人生論を唱えていたり、信じようかと思ったタレント的な知識人が後に不祥事を起こしたりもする、信用できるかと思った友人たちも所詮は自分のことで精一杯、そんな風に悲観的に考えていくと、「自分の決断は自分だけで下さなくては」という考えにもなってしまうのは自然でもあります。

 この人の言うことだからきっと大丈夫だ、〜大学を出ているから、〜学の権威とされる人だから。長い間付き合ってきた人だから、それで成功した実績のある人だからと楽観的というよりはちょっと信心深く誰かの決断に従おうとする人が「頼れる人に従って自分のことは決断しよう」となるのもある種普通のことです。

 私たちが大切な決断をする時に助けになる人というものは往々にして、自分から遠すぎたり、或いは一部に対して単純に詳しいだけなのです。悩みや問いに応じて彼らがいるのではなく、大抵いつも間接的にこうした人々に関わっているので、この人々を信じるならば自分の判断は半ば捨てるような形になりますし、疑うにしてもそれは自分の判断をやはり信じることになって、結局自分の判断、決断には自信が持てないようになってしまいます。この場合自信があるというのはマインドの問題でしょう。確かにそれも大切ですが。

 できることなら、さまざまなことに対してきちんと応えることができるような責任ある知識人たちが私たちの生活圏内に何人かいてほしいものです。公に広く知られるような人物でも、何を学んでその権威を手に入れたのかもわからない専門家や経緯不明の有名人という人々ではなく、教養ある人の判断を、しかも複数比べて自分で考えられるような状況であってほしいものです。

 そうするためには十分な数の「教養人」が多分野にわたって養成されることが必要になるでしょう。

 養成とは何か、とりあえず考えたところを挙げてみます。

  1. 高校卒業程度の資格を持った人が受けられる大学一般程度の基礎知識や作文、討論など総合的な能力を測る入学試験を実施する。

  2. 合格者は各大学等の研究機関に所属し、自分の「語ることのできる分野」を専攻し、周辺の分野の知識までを満遍なく深く習得していく。

  3. この人々は研究者志望の学生とともに学ぶが研究者志望の者たちとは異なり研究論文ではなく、社会と人間に関わる問題を自ら設定し、それに対しての理解と批判、生産的な解決策を提案した論文を書く。論文はこの学習過程の中に組み込まれた討論の成果でもあり、交流の度他者の問題意識や関心、発想を受け、同時に研究志望の学生たちとの互恵関係を築くことが望ましい。

  4. 一般的な社会科学や理系の研究者の過程に習って、前期の二年、後期の三年を参考にこれら養成過程を経て教養人となる。

4, いくつもの問題点とQの収穫

 さて、勢い任せに色々書いてきてしまいましたが、とりあえずいくつか思いついた問題点を列挙していこうと思います。

  1. 第一に教養人の進路先はどうなるのか

 まず考えるべきことです。複数の分野について責任をもって語ることができるようになるためにはやはり数年の時間は要するでしょう。おそらくはそれも、今の大学院生たちがそうであるようにむしろ学費を払いながら貴重な時間を湯水の如く投じなければなりません。そこまで苦労して進路先がないのでは誰がそんな道を選ぶというのでしょう。ここでさらに考えを広げることは深追いです。今はこの問いを獲得したと考えましょう。

Q,教養人の進路先は?

2,大分アカデミックではないか?

 これは書いていて思いました。ただの本の虫では無いしっかりした人を追い求めていたはずなのにこれでは何だか範囲は広めの学者肌の人が育つのではないかと思いました。何か学者性を拭い去ろうと用意できたのが問題解決論文と討論だけでは物足りません。根本的に発想の転換が要りそうです。こんな問いを持ち帰りましょう。

Q教養人とは何か?
Q教養人を育むカリキュラムには何を入れるべきか?

3, これらを実現するための教師はどこに?

 厄介な問題です。もし教養人を育むのなら、その教師が研究者ではどうしてもその性格の影響を受けるでしょう。かと言え現代日本でいうところの教師を引き抜いても知識不足を補う勉強機関と、まずもってこの教師となる人たちが立派な人たちでなければなりません。現場で生きる大人としての監督役、教育者というものはそれ自体尊敬に値しますが、教養人を目指す学生のための教師を育むためには、研究者か教師がそのために養成されなければならないでしょう。それはどうすればいいのでしょう。問いを持ち帰りましょう。

Q,教養人の教師はどうやって育めば良いか?

5, これらの費用はどのように捻出するのか

 これは一見して財政の問題であまりここで考えても仕方ないような気もしますが、無論公教育が主導すべきとは言え、こうした改変のはじめにはどんな機関が一番槍となるかはわからないものです。ひょっとしたらロレンツォ・デ・メディチのおじいさんだったコジモのように、莫大な富を持った文化的な庇護者がこうした制度に投資してくれるかもしれませんし、同じ志を持った人々によって集められた基金によって実現できるかもしれません。それは案外考えどころです。となれば力ある人や多くの人に訴えかける投資価値について考えなければなりません。問いを持ち帰りましょう

Q,教養人の実現に投資するだけの価値は?


まとめ

 まあちょっとキリがないのでこれくらいにしておきます。教養人がエリート階層を作って実質的な階級制のようなものを生み出すのではないのかだとか、労働人口を減らしたり未婚率を増やすのではないかだとか、もっとあるとは思いますが。しかしこれはそもそも「S & C」、「Suggestion(提案)とConsideration(考察)」という冒頭の言葉の力を見る例として話し始めたのでした。

 それは、一粒の麦からいくつ収穫できるかといったような誰にでも開かれた思索の方法論です。S & Cは、Q & S に再び用いるための問いを収穫するための二段階目でした。

 今回は「S0, 「教養人」を生み出せば良いのでは?」というSに考察Cが加わって、今の時点で6つの問いを収穫できました。きっともっと穫れると思います。

 これらは、しかし別の問いではなく、最初の問いから生えた次の世代の問いで言わば子です。或いは幹から生えた大枝なのです。すなわちこれを最初から分枝にまでの全体として見ることで振り返って見ると、結構よく考えられた一つの「体系」のようなものができてきます。問題から生えているのだから、「問題体系」と呼んでいいかもしれません。

 これは既に自分自身がこうした話題において語る上での立派な武器であり交渉道具であり、財産であり、家や、或いは和平装置にもなります。どのように用いるのかはあなた次第です。ですがどうあれあなたの問題体系と他者の問題体系は異なるはずです。それらは、とはいえ自分に問いかけ考え応答してきた結晶、つまりは「自分との対話の結晶」なのですから、きっと他者との対話も可能なものなのではないでしょうか。雑談やおしゃべりの中に、そんなちょっとした緊張と相手への深い理解に足をかける興奮があると、人との世界はもっと楽しくなると思います。

 今回のS & C 、そして前回のQ & Sは、これら二つで両輪として考えましたが、ようやくこれでサイクルが完成します。ぜひ、これらのサイクルを通し、自分自信との対話から、人との対話へと開かれた巨大な体系の結晶を作り上げていってみてください。



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