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社会復帰未満Ⅶー就労移行支援の現場からー“笑っているのに脆い人”

六月の雨は、降るというより、空気に混ざっていた。

駅前の雑居ビル三階。
「ITスキル訓練センター」と貼られた白い看板は、湿気で少し反っている。

午前十時。
訓練室では、キーボードの打鍵音とエアコンの低い唸りが混ざっていた。

Nは窓際の席に座り、ノートに几帳面な字を書いていた。

『事実』『解釈』『感情』

三つの単語を、定規で線を引くように並べている。

「じゃあ、“既読はついてるけど返信が来ない”場合、どう考えるかやってみましょう」

講師役の女性職員が言うと、利用者たちが顔を上げた。

「怒ってる、とか?」

「忙しいだけかもしれない」

「返信忘れてるとか」

順番に声が出る。

その時、後ろの席の青年が笑いながら言った。

「怒り三十パーセント、ぷんぷん、とか」

教室に小さな笑いが起きた。

その数字が、妙に頭に残った。

講義が終わると、Nはその青年のところへ行き、

「そのメモ、コピーしてもらえますか」

と、少し照れたように言った。

「え、こんなのでいいんですか?」

「はい。……なんか、ちょっと楽になったので」

青年は笑いながらプリントを渡した。

Nはそれを、折れないようクリアファイルに挟んだ。

まるで処方箋みたいに。

午後、面談室。

担当管理者は腕を組みながら記録を見ていた。

「M部長に注意されると、全部、自分が否定された気になるんですよね」

Nは俯いたまま言った。

「でも実際、M部長って、誰に対しても厳しいんですよ。デザイン職だし」

「……はい」

「修正も細かいし、それ自体は普通なんです」

Nは頷く。

理解はしている。
理解はしているのだ。

だが、胸の奥では別の音が鳴っている。

期待外れだ”
“お前はいらない”

注意を受けるたび、脳のどこかが勝手に翻訳してしまう。

「事実と解釈、分けてみましょうか」

管理者はホワイトボードに線を引いた。

【事実】
修正指示を受けた

【解釈】
嫌われた
見放された

【感情】
不安90%

「ここで、“反証”を探します」

「……反証」

「本当に人格否定なのか、別の可能性はないか」

Nは黙る。

管理者は続けた。

「M部長、他の人にも厳しいですよね」

「……はい」

「修正指示って、“期待ゼロ”の人には出さないですよね」

Nは少しだけ顔を上げた。

窓の外では、濡れた電線が揺れていた。

夕方、訓練終了後。

私はトイレのドアを開け、反射的に電気をつけた。

「あっ」

中にNがいた。

「ごめん!」

慌てて電気をつけなおす。

すると中から、

「入ってまーす」

と明るい声が返ってきた。

「ごめんね」

私は笑いながら言った。

その瞬間、妙ないたずら心が起きて、私は電気をもう一度だけ消して、すぐつけた。

数秒後。

ドアが開き、Nがにこやかに出てくる。

「お待たせしました」

私は真顔を作って言った。

「最近、電気消す悪いやつがいるらしいですよ。知ってます?」

Nは少し考えるふりをしてから、

「どんな奴か、顔見てみたいですね」

と返した。

二人で笑った。

その笑い声は、ごく普通だった。

どこにでもいる職場の、他愛ない会話みたいだった。

けれど私は知っている。

彼が、ほんの少しの否定で、
自分の存在全部を疑ってしまうことを。

明るく冗談を言いながら、
帰宅後、何時間も反芻してしまうことを。

“普通”に見えるために、
神経を削り続けていることを。

Nは、壊れているわけではない。

だが、まだ安全にも立てていない。

社会復帰済みでも、
社会復帰不能でもない。

その途中。

名前のつかない、曖昧な場所。

私はふと思う。

この教室にいる人たちは皆、
社会へ戻る練習をしているのではなく、

もしかすると、

“自分を壊さずに社会に存在する方法”

を探しているのではないかと。

窓の外では、六月の雨が、
まだ静かに降り続いていた。


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