【美濃金山城】350年の封印が生んだ奇跡と、街の「蘭丸推し」に隠された謎
山城のまち、岐阜県可児市。
城址が10箇所あり、うち3か所が山城。
3つの山城のうち、
戦国山城の傑作といわれる、
美濃金山城(兼山城)を散策した記録を綴ります。
麓から始まる「巧妙な罠」
まずは麓にある「可児市戦国山城ミュージアム」で、
精巧な立体模型を見ながら、じっくり予習。
そして地元の貴船神社で、道中の安全を祈願していざ出陣!
……したのですが、
さっそく山城の洗礼を浴びることになります。

麓から「あそこが頂上(本丸)だ!」と
目視できた場所を目指して登っていくものの、
進めば進むほど道は回り込み、
目指す頂上はどんどん遠ざかっていきます。
「おかしいな……」と思って調べ直すと、
なんと、延々と麓を歩かされていたことに気づきました。
これぞ、攻めてきた敵の心理と体力を削るために
作られた戦国の仕掛け。
身をもってその洗礼を味わい、
早々に引き返して、
中腹の駐車場を目指す賢明な(?)判断を下しました。

山の主(カモシカ)の検問と、ひんやりとした空気
「出丸跡駐車場」を目指して車を走らせていると、
途中の山道で信じられない出会いがありました。
道路脇にどっしりと立っていたのは、
立派な体躯のカモシカ(特別天然記念物)!
逃げる風でもなく、堂々とした佇まいで
「なんだー、おまえらー」とでも言いたげに
こちらをじっと見つめてきます。
最初に貴船神社でご挨拶したからでしょうか。
まるでこの山を守る主、
あるいはかつての城主たちの化身が
「入山許可」を出しに現れたかのようでした。
出丸跡駐車場につくと、
そこからは「シャン、シャン」と
熊よけの鈴の音が山肌に響いてきます。
一気にリアルな登山の緊張感が走りました。

ここからの登城路は、まさに遺構のオンパレード。
曲輪、堀切、土塁、虎口、切岸……。
ミュージアムで予習した成果か?
急峻な上り坂も「これが敵を止める仕掛けか!」
と答え合わせをするようで、さほど苦になりません。
登るほどに、空気の密度が変わり、
ひやーっと厳かに冷えていくのを肌で感じました。

本丸のご褒美、「350年のタイムカプセル」と命の源流
急峻な坂を登りきると、
パッと目の前が開け、本丸跡に到着しました。
そこに待っていたのは、頑張った者だけが味わえる絶景のご褒美。
眼下をゆったりと、しかし雄大に流れる木曽川。
遠くに広がる美濃の山並み。
かつてこの城を治めた森長可(鬼武蔵)たちも、
間違いなくこの場所から、同じように川を見下ろし、
天下の行く末を睨み据えていたはずです。

ここで、この城の驚くべき歴史を知ることになります。
美濃金山城は、関ヶ原の戦いの直後(1600年)に、
二度と城として使えないようにする
「破城(はじょう)」が行われました。
本丸周辺の、角がゴソッと崩された石垣や
意図的に壊された虎口の姿は、まさにその歴史の生々しい傷跡です。
驚くべきは、その破壊された瞬間のままで時が止まり、
江戸時代から350年間、
一般人の立ち入りが厳しく制限された「お留山(御用林)」として
完全封印されていたということ。
私たちが今日見たエッジの効いた遺構や豊かな自然は、
350年間、誰の手にも触れられなかったタイムカプセルだったのです。
本丸で感じたあのひんやりとした厳かな空気は、
戦国時代そのものの息吹だったのかもしれませんね。
さらに面白いことに、
この時解体された門や櫓の一部は、
目の前の木曽川を筏でどんぶらこと下り、
あの国宝・犬山城へと移築され、
今も現存している(矢来門など)というのです。
地形と歴史のダイナミックなつながりに、ただただ鳥肌が立ちました。
現代へ繋がる水脈:岐阜と愛知は「一蓮托生」
そして、本丸から木曽川をじっと眺めていると、
もう一つの重要な景色が目に飛び込んできました。
川にかかる、「兼山ダム」の姿です。
実はこのダム、
はるか愛知県の知多半島まで延々と続く大動脈「愛知用水」の、
まさに大元となる
極めて重要な取水口としての役割を担っています。

戦国時代には、
森長可がこの場所から木曽川の水運(兼山湊)を監視し、
尾張(愛知)の織田信長や徳川家康に対して
軍事・経済の主導権を握るための「境界線」でした。
それが現代においては、
岐阜の豊かな山々が育んだ命の水を兼山ダムで受け止め、
愛知の生活や産業、農業へと届ける「命の絆」へと姿を変えています。
「岐阜と愛知は、まさに一蓮托生なのだ」
本丸の頂上からあのパノラマを見下ろしながら、
かつて金山城の門や櫓が犬山へ流れていったという
『歴史のつながり』だけでなく、
今この瞬間も、
同じ木曽川の水が私たちの暮らしを支えるために
愛知へと流れ続けているという
『命のつながり』を肌で実感し、胸が熱くなりました。
美濃金山城のてっぺんは、
過去と現代、そして2つの国を結ぶ、壮大な結び目の場所だったのです。
なぜ「鬼武蔵」ではなく「蘭丸推し」なのか?
美濃金山城の城下町を歩くと、
あちこちに「森蘭丸まつり」の旗がはためき、
パンフレットのキャラクターも蘭丸一色。
この東美濃を凄まじい武力で統一し、
東美濃を統一したのは鬼武蔵(長可)なのに……?
森長可は、
今も歴史ファンを熱狂させる
「狂気の猛将」としての深い魅力を持っていますが、
自治体が幅広い観光客を呼び込むための
「街の顔」としては、どうしても人を選んでしまう。
その点、弟の蘭丸が持つ
「誰もが知る抜群の知名度」
「信長ブランド」、
そして「クリーンでドラマチックな悲劇のイメージ」は、
観光戦略の広告塔としては完璧な条件をそろえている。
この一般受けしやすい蘭丸を広告塔に据えることで、
可児市の名前を、広く認知してもらうという戦略でしょうか……?
旅を終えて
表向きは「蘭丸」を掲げる城下町 ですが、
森家の菩提寺である可成寺(かじょうじ)の境内に一歩入れば、
そこには静謐な歴史のリアルが待っていました。
ここには蘭丸をはじめ、父の可成、
そして共に本能寺で散った坊丸、力丸、
さらに一族の長成らの墓石が、今も大切に並べられています。
過酷な戦国を命がけで駆け抜けた
「森家の一人の息子」としての蘭丸が、家族と共に眠る場所でした。
みなさまも美濃金山城を訪れる際は、
ぜひ「350年の封印」を解く鍵を持って、本丸へ登ってみてください。
さて、美濃金山城を攻略した私の旅は、ここからさらなる山城の世界へ。
土の城の傑作と名高い、あの「久々利城址」への行路については、
また続編の記事でお届けしたいと思います。

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