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【久々利城址】美濃源氏の誇りと防御遺構。「土岐久々利氏」の哀しき末路

可児市をめぐる旅、続編。
「可児藤蔵」でお腹を満たした後に向かったのは、
もう一つの名城、「久々利城(くくりじょう)」だ。

「美濃金山城(みのかねやまじょう)」が
「動」の織豊系城郭なら、
ここは中世の緊張感を今に伝える「静」の土の城。
だが、一歩足を踏み入れてみれば、
ある種の「狂気」とも言える防御遺構が眠っていた。

「悪五郎」の名を継いだ名門・土岐久々利氏

そもそも、久々利城とはどんな城だったのか。

歴史を紐解くと、
この地を治めていたのは美濃源氏の総領格
土岐氏の一族である「土岐久々利氏」。
南北朝時代から戦国時代まで、
長きにわたりこの一帯を支配してきた名門だ。

面白いのは、この一族が
初代・康貞から代々「悪五郎(あくごろう)」の名を
襲名していた点である。

中世における「悪」とは、単なる邪悪ではない。
「恐ろしく強い」「猛々しく武勇に優れた」者への尊称だ。
彼らが室町中期の1410年(応永17年)、
拠点として築いたのがこの久々利城だった。

石垣がないからこそ怖い、「土の迷宮」

久々利城の面白さは、
一見「ただの鬱蒼とした山林」に見える場所が、
すべて人工の戦闘要塞である点だ。

立派な石垣はない。
しかし、ここには「土塁(どるい)」と
「空堀(からぼり)」という、
土のみで構成された防御システムが
これでもかと詰め込まれている。

登城道を抜け、中心部に近づくにつれて全貌が姿を現す。
本丸を取り囲む巨大な横堀、斜面をえぐり落ちる竪堀。
その深さは数百年経った今なお鋭く、生々しい。
歩けば歩くほど、
ここは徹底的に「戦うための城」だと肌で感じる。

35年の時を超えた「因果応報」の結末

しかし、これほどの防御力を誇った名門も、
時代の荒波には抗えなかった。
そこには鳥肌が立つような「血の因縁」が隠されている。

時は1548年(天文17年)。
当時の久々利悪五郎(頼興)は、
時の烏峰城主(のちの美濃金山城)であり、
東濃へ勢力を伸ばしていた斎藤正義(妙春)を
ここ久々利城の酒宴に招き、油断させて暗殺した。
この謀略で、久々利氏は東濃の支配権を握る。

だが、歴史はあまりにも残酷な形で巡る。
35年後の1583年(天正11年)。
織田信長の勢力が美濃を席巻し、
かつて悪五郎が主を暗殺した烏峰城は
「美濃金山城」と名を変え、鬼武蔵・森長可が城主となっていた。

正面衝突すれば、
久々利城の「土の迷宮」に阻まれて手痛い反撃を食らう。
そこで長可が用いたのは、
かつて悪五郎自身が使った手口と、まったく同じものだった。

森長可は悪五郎を美濃金山城へと誘い出す。
歓待の席、完全に油断したその瞬間、
森長可の家臣たちの刃が、悪五郎の身体を冷酷に貫いた。

かつて酒宴で斎藤正義を暗殺した悪五郎は、
35年後、美濃金山城の酒宴で森長可に誅殺されるという、
完璧なまでの「因果応報」の罠に落ちたのだ。
主を失った久々利城はそのまま落城。
「悪五郎」の歴史は、
自らが血に染めた因縁の地で非情な幕引きを迎えた。

本丸
本丸からの眺め、二の丸、三の丸

旅の終わりに、至高の一杯を

久々利城の深い空堀を歩き回り、
心地よい疲労感につつまれながら帰路に就く。
この日の旅の、本当の「締めくくり」は自宅に帰ってから。

冷蔵庫から取り出し、
キンキンに冷やしておいたのは、
可児市の名醸、林酒造の逸品「美濃天狗」。

グラスに注ぎ、ひと口。 ……美味い。
五感に染み渡る濃厚な味わいが、
今日歩いた可児市の濃密な歴史の余韻と見事にシンクロする。

美濃金山城で「蘭丸推し」の街の不思議に触れ、
久々利城で土岐一族のプライドと
恐るべき因果応報のドラマを知った一日。
そのすべてを脳裏に浮かべながら、喉を潤す地酒の味はまた格別だ。

これだから、城巡りと地酒の旅はやめられない。

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