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触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第8章

【第8章 彼女という構造――契約終了 二ヶ月前】

彼女の仕事の核心を、私は知ろうとしないようにしていた。

知ればきっと、支えたくなる。

支えれば、ただの執事ではいられなくなる。

だから私は、求められた範囲だけを整え、判断は常に彼女の手に残すことを徹底していた。

少なくとも、そのつもりだった。

朝。

ダイニングには、淹れたての紅茶の香りが満ちていた。

スーツ姿の彼女は、十数枚の資料を手にしたまま椅子に腰を下ろす。

胸元のボタンはきちんと留まり、髪も乱れなくまとめられている。

忙しい朝だというのに、外へ向かう顔をしていた。

「今日、これから打ち合わせがあるんです」

机の上に広げられた資料には、色分けされた付箋が几帳面に貼られていた。

先方の希望。
こちらの条件。
確認が必要な項目。
優先順位。

どの条件を通せば利益が出るかではなく、どこで誰に無理が出るかを先に見ている並べ方だった。

英文の資料の端には、短く切られた日本語の条件表が重ねられている。

その横に、彼女自身の判断基準が小さく添えられていた。

――無理を前提にしないこと。
――曖昧な追加要求を許さないこと。
――預ける側の人間に、責任だけを背負わせないこと。

付箋の一枚には名字だけが記され、その横に短く書き足されている。

――長距離移動、連続は避ける。
――先方との相性、要再確認。
――前回、契約外対応あり。

彼女は条件を見ているのではなかった。
条件の先で、誰がどの順番で疲弊するかを見ていた。

「全部お持ちになるのですか」

「いいえ。今日はここまでで十分です」

そう言って彼女は、束の中から数枚だけを抜いた。

残したのは、骨子がわかるものと、今日中に確認すべき条件だけ。

他は迷わず机の端へ寄せる。

「決めることが多そうですね」

「多いです。でも、全部を今日決める必要はありませんから」

彼女はそう答えてから、ひとつの資料に目を落とした。

そして付箋を一枚だけ剥がし、別の位置へ貼り替える。

「今日は、先方がどこまで本気なのかを見る日です」

その言い方は、柔らかかった。

だが、その柔らかさの中に、交渉の席へ向かう人間の刃があった。

私はカップを彼女の前へ置く。

「少々見えてしまいましたが……よく練られております」

彼女が顔を上げる。

「やっぱり、そういうのも見えるんですね」

「整えることには慣れておりますので」

それ以上は見ない。

骨格も、条件も、少し追えば先まで読めてしまう。

だが踏み込めば、それは助言ではなく介入になる。

「ありがとうございます、セバスチャン」

彼女は資料をクリアファイルへ戻し、わずかに背筋を伸ばした。

スーツに身を包み、資料を抱えている時の彼女は、夜更けに紅茶を飲みながら笑う時とはまるで違う。

けれど、どちらかが仮の姿なのではない。

彼女はそこで、ふと思い出したように顔を上げた。

「帰国されたら、また以前のような働き方に戻られるんですか」

「以前のように、とは」

「ひとつの家に長く仕えるような形です」

資料の端を指先で揃えながら続ける。

「でも、セバスチャンは……執事という肩書きの外でも、同じことができる気がします」

彼女は私を見る。

「整える仕事って、もっと広いでしょう?」

それは世間話ではなかった。

執事であることが終わったあと、何が残るのか。

そこを見ようとしている。

「考えたことは、ございます」

それ以上は続けなかった。

彼女も踏み込まない。

小さく頷き、再び資料へ視線を戻す。

その引き方が、妙に残った。

見送ったあと、カップを片づけながら思う。

彼女の仕事の輪郭を、私は知るべきではない。

知れば、支えたくなる。

そしてそれは、職務の外へ出る。

昼過ぎ。

クララに呼び出された。

開店前の店は薄暗く、落とされた照明だけがカウンターを照らしている。

勧められるまま席につくと、クララはアイスティーを置いた。

「ねぇ、セバス。帰国後のこと、もう決めてる?」

「元のようには働けないでしょうね」

クララは頬杖をつく。

「じゃあ、別の形で働けばいいじゃない」

「……別の形、ですか?」

「仕えることだけが、アンタの価値じゃないでしょう」

氷の溶けかけたグラスを揺らしながら続ける。

「場を整えて、人を見て、必要なものを必要な順番で差し出せる。
そういう人、そうそういないわよ」

「それは執事として訓練を受けた結果です」

「だから何? 肩書きが変わったら中身まで消えるわけじゃないでしょう」

私は返事をしなかった。

「セバスなら、“執事であること”以外にも、何にだってなれるのに」

朝の彼女の言葉と重なる。

――整える仕事って、もっと広いでしょう?

マンションへ戻ると、彼女は仕事部屋にいた。

ドアは半開きで、キーボードの音だけが漏れている。

だが、その音が止まる。

「その条件では、こちらの側に負担が偏ります」

低く、落ち着いた声。

「短期でも同じです。引き受けた後で無理が出る案件にはしたくありません」

しばらく相手の返事を聞いてから、彼女は言い切った。

「利益だけなら進められます。ですが、次も同じ顔でお会いしたい相手かどうかは、別です」

言葉は柔らかい。

だが、線は一度も揺れない。

私は足を止めた。

半開きの扉の向こうにいるのは、朝とは違う彼女だった。

それでも、確かに同じ人だった。

通話が終わり、再びキーボードの音が響く。

数秒待ってから、いつも通りの足音で進んだ。

「お戻りでしたか」

彼女が顔を上げる。

机の上には新しい資料。

赤いペンの跡。

付箋は減り、代わりに短い書き込みが増えている。

「少しだけ、相談してもいいですか?」

差し出されたのは、商談のメモだった。

私は一瞬だけ立ち止まる。

踏み込むべきではない。

それでも視線は、自然と紙を追う。

――拘束時間が曖昧。
――責任者が見えない。
――条件変更の余地あり。
――現場判断、範囲不明。
――見栄え優先。

そして端に、赤字。

――預けた後が危うい。

「こちらは、見送るおつもりですか」

彼女は少し驚いたようにこちらを見る。

「条件だけなら悪くないんですけど、先方の言い方が曖昧で」

一度、メモへ視線を落とす。

「あと、たぶんこの方たち、今決めたいんじゃなくて、“決める気があるように見せたい”んですよね」

その見立ては正確だった。

「利益だけなら受けてもいいんですけど」

指先でメモの端を押さえる。

「受けた後で、こちらの人間が困るのは嫌なんです」

彼女は机の端に置いていた一枚のメモを引き寄せた。

そこには案件名ではなく、人の名字が書かれていた。

――夜間対応不可。
――長時間拘束は避ける。
――前回、先方都合の追加業務あり。
――断るのが苦手。先に守ること。

「この人、仕事はすごく丁寧なんです。でも前回、こちらが条件を詰めきれなかったせいで、契約外の作業まで抱え込ませてしまいました」

そこで彼女は、一度だけ言葉を止めた。

「終わったあとに、謝られたんです」

私は返事をしなかった。

「力不足ですみません、って。その人が」

彼女の指先が、メモの端を押さえる。

「本当は、その人の力不足じゃなかった。こちらが最初に線を引き切れなかったんです。曖昧な条件を、まあ大丈夫だろうって通してしまった。相手先に嫌われたくなくて、私が少しだけ甘く見たんです」

淡々とした声だった。

だが、その淡々とした響きの奥に、まだ片づいていない悔いが残っていた。

「その結果、断るのが苦手な人に、断れない仕事を渡してしまいました」

彼女は赤いペンを取り、メモの余白に短く線を引く。

「だから、もう同じことはしません」

その声は低かった。

怒っているのではない。

自分の判断を、二度と同じ場所で誤らないと決めている人の声だった。

「本人は、大丈夫ですって言うんです。でも、大丈夫と言う人を、そのまま大丈夫な人として扱うのは、こちらの怠慢です」

その言葉に、私はすぐ返事をしなかった。

大丈夫だと言う人間を、そのまま大丈夫な人として扱わない。

それは、私が彼女に対して何度も行ってきた判断でもあった。

そして今、彼女はそれを、自分の仕事の中で当然のように実践している。

「今回の先方も、言い方が似ています。協力関係とか、柔軟にとか、現場判断でとか」

彼女は赤いペンで三か所に丸をつけた。

「追加業務が発生した場合の承認者。拘束時間が延びた場合の費用。それから、現場判断という言葉の範囲」

「ここを曖昧にしたままなら、受けません」

利益を捨てる判断だった。

それでも、彼女は迷っていなかった。

私はその時、ようやく理解した。

彼女は、人を配置しているのではない。

人が壊れない場所を、選んでいる。

そして、かつて選び損ねた場所を、今も覚えている。

その悔いごと、判断の中に組み込んでいる。

彼女の仕事は、誰かを送り出すことではない。

誰かが自分の尊厳を失わずに帰ってこられるよう、先に線を引くことなのだ。

「では、確認事項を交渉用に整えましょう」

口にしてから、自分が一線を越えたことを理解した。

求められた範囲だ。

そう処理することはできる。

だが、今の私はもう、単なる補助として紙を見てはいなかった。

彼女の判断が、正しい形で相手へ届くように。

そのために、自分の知識を差し出そうとしている。

「追加業務の承認者。拘束時間が延びた場合の費用。現場判断という言葉の範囲。この三点を明文化できなければ、進めるべきではありません」

私はメモの余白に、項目を並べ直していく。

「さらに、先方が即答を避けた場合は、その場で締結しない方がよろしいでしょう」

彼女は静かに頷いた。

「曖昧なまま押し切られる可能性があるから?」

「ええ」

「……やっぱり、そうですよね」

私はペン先を止める。

「大丈夫です」

彼女が顔を上げる。

「貴女は、最初から見えておりました」

静かに言う。

「私は、順番を整えただけです」

彼女はしばらくこちらを見ていた。

「……そういうところ、本当にずるいですよね」

「整えただけです」

「それが私には難しくて」

その声は、弱音というより、分析に近かった。

彼女は自分の不足を嘆いているのではない。

できることとできないことを、正確に切り分けようとしている。

私は、彼女を守る必要のある人だと思っていた。

少なくとも、最初は。

繁忙期に倒れ、私の膝で眠り、
酔って帰ってきて袖を摘む人。

だが、それは一部でしかなかった。

彼女は守られるだけの人ではない。

誰かを守るために、矢面に立てる人だった。

そして、守る対象を間違えないために、自分の感情さえ一度机の上へ置ける人だった。

その理解が、思ったよりも深く刺さった。

「セバスチャン」

彼女はメモを見ながら、少し首を傾げた。

「貴方がいてくれて、良かった」

短い言葉だった。

だが、軽くはなかった。

彼女は続けかけて、口を閉じる。

視線を逸らし、机の端を整える。

「……すみません。今のは、少し甘えました」

「いいえ」

私は即座に否定した。

彼女が驚いたようにこちらを見る。

「必要な場面で助けを求めることを、甘えとは呼びません」

少しだけ間を置く。

「それは、判断です」

彼女の指先が、メモの上で止まった。

「……そう言われると、逃げ場がないですね」

「逃げる必要がある場面ではありませんので」

彼女は小さく笑った。

その笑い方は、疲れていた。

けれど、折れてはいなかった。

「帰国後も、こういうふうに、誰かの仕事や生活を整えることって、続けられるんですか」

「形は変わるかもしれませんが」

静かに答える。

「整えること自体は、手放せないと思います」

彼女は小さく頷いた。

「でも」

手元のメモに視線を移す。

「私は、甘えてばかりではいたくないんです」

「ええ」

「その方が、貴女らしい」

「もし、契約を――」
そこまで言って、彼女は笑った。
「いえ、何でもありません」

私は、その続きを聞かなかった。

聞けば、答えなければならなくなる。
そして今の私は、その答えを職務として整えることができなかった。

「……そう感じていただけるのなら、何よりです」

それだけを返し、仕事部屋を辞する。

ドアを閉める。

安心させること。
支えること。
整えること。

それは本来、執事の誇りだった。

仕えることだけが、私の価値ではない。

整える仕事は、もっと広い。

その言葉を胸に置いたまま、私は自室へ戻ろうとした。

だが、足は一度だけ止まった。

結局、私が気にしていたのは、帰国後の仕事の形ではなかった。

この人の判断が、正しく届く場所に。

この人が一人で矢面に立たなくて済む場所に。

そこに、自分が立ちたいと思ってしまったことだった。

仕えるためではない。
守るためだけでもない。

彼女が選ぼうとしているものの隣に、私もまた、自分の意思で立ちたかった。



彼女の選び方に、何かを感じられたなら。


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