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触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第9章

【第9章 定義された貴女――契約終了 一ヶ月半前】

あの日以降、私は彼女を見る時、以前とは少し違うものまで拾ってしまうようになっていた。

たとえば、仕事を終えて部屋に戻った直後、靴を脱ぐ動作がわずかに遅い日があること。

食卓につく前に、指先だけで無意識にこめかみへ触れる夜があること。

だが、そういう日ほど彼女は「大丈夫です」と先に笑うこと。

仕事部屋で見せる判断の速さも、ダイニングでカップを包む時のやわらかさも、今の私にはもう別々のものとしては映らなかった。

どちらも同じ人の内側にある。

そして私は、その両方を知ってしまっている。

それが職務としてどれほど危ういかは、理解していた。

理解しているのに、視線の引き方だけが、以前ほど正確ではなくなっていた。

仕事を終えた後のリビングには、珍しくテレビの音が流れていた。

彼女が観たいと言ったのは、バーを舞台にしたドラマだった。

好きな俳優が出ているのだと、少しだけ弾んだ声で教えてくれた。

私はその隣に座り、感想を挟むこともなく画面を見ていた。

氷の音。

シェイカーを振る音。

グラスに液体が注がれる、短く澄んだ響き。

画面の向こうでは、バーテンダーが客の話を聞き、やがてその客のためだけに考えた一杯を差し出していた。

「……いいですね、ああいうの」

隣で、彼女がぽつりと呟く。

「客に合わせて、その人だけの一杯を作るんでしょう?」

「そう見えますね」

私は短く応じた。

彼女はしばらく画面を見たまま黙り、それから、ふと思いついたようにこちらを見る。

「紅茶で、同じことってできるんですか?」

「同じこと、ですか」

「うん。たとえば……」

彼女はソファの背にもたれ、膝の上で指を組む。

「セヴィから見た今の私に、いちばん近い味って、ありますか?」

その言葉に、私はすぐには返せなかった。

紅茶を飲みながら笑う彼女の顔だけなら、もう少し容易に選べたかもしれない。

やわらかく、穏やかで、場をほどくもの。

そういう方向へ寄せれば、一杯としては成立する。

だが、今の私は違う。

そう問われた瞬間、私の中に浮かんだのは、半開きの扉の向こうで静かに線を引いていた彼女の声だった。

預かったものを守るために、やわらかさを崩さないまま相手を切ることのできる人。

紙の上の条件ではなく、その先に立つ人間を思って判断する人。

それでいて夜になれば、何も知らないような顔で紅茶を飲み、こちらへ向けて無防備に笑う人。

ひとつでは足りない、と思った。

どちらかだけを選べば、たぶん嘘になる。

彼女はそれを重く受け取るふうもなく、小さく笑う。

「あれば、飲んでみたいなって思って」

あまりにも無邪気だった。

客に合わせて一杯を作る。

それはつまり、相手をどう見ているかを、味と香りで差し出すということだ。

紅茶で同じことをするなら、なおさら曖昧にはできない。

一歩踏み込みすぎれば、不躾になる。

引きすぎれば、誠実ではない。

「……考えてみましょうか」

ようやくそう答えると、彼女の目がやわらかく細くなった。

「ほんとですか?」

「ええ。ただし、少し時間をください」

「楽しみにしてます」

それだけ言って、彼女はまた画面へ視線を戻した。

ドラマの中では、客が差し出されたカクテルをひと口飲み、驚いたように微笑んでいた。

私はその光景を見ながら、胸の内で静かに息を吐く。

――困りましたね。

深夜、キッチンの棚を開けた私は、家にある茶葉をひとつずつダイニングテーブルへ並べた。

彼女に似ている茶葉、ではない。

私が知っている彼女に、いちばん近い一杯。

求められているのは、たぶんそちらだった。

ふと、以前に彼女から訊かれたことを思い出す。

手袋は、どういう時に使うのかと。

私はその時、衛生や所作だけではなく、役割の輪郭を整えるためだと答えた。

白手袋をしていれば、触れる行為はどこか儀式めいて、温度の移り方も曖昧になる。

今夜の私は、そのどちらも選ばなかった。

素手のまま茶葉の缶に触れ、蓋を開ける。

金属の冷たさが指先へ返る。

それだけのことが、妙に鮮明だった。

彼女に差し出すための一杯を整えるのに、今夜は役割の輪郭を一枚だけ薄くしている。

そう自覚した瞬間、視線がわずかに伏せられた。

明るさだけなら、ひとつで足りる。

だが、彼女はそれだけではない。

やわらかく笑って場をほどくくせに、判断の芯は驚くほどぶれない。

似た茶葉を探すのではなく、重ねて近づけるしかない。

そう気づいた時、ようやく道筋が見えた。

選ぶのではなく、整える。

ひとつを当てはめるのではなく、重ねて近づける。

それは少しだけ、彼女の仕事に似ていた。

ひとつの条件だけで決めず、切るものと残すものを見極めながら、無理なく成立する形へ整えていく。

数日前、彼女が紙の上でしていたことを、私は今、茶葉の上でなぞろうとしているのかもしれなかった。

……なるほど。

それなら、ブレンドするしかありませんね…

それから数日、私は食後のたびにキッチンへ立った。

彼女には、

「少し試したいことがありますので」

とだけ告げてある。

それ以上は聞かれなかった。

聞かないまま待ってくれるところが、彼女らしいと思った。

土台に選んだのは、崩れにくい茶葉だった。

強すぎず、薄すぎず、骨格として残るもの。

そこへ、澄んだ明るさを重ねる。

彼女がふと笑った時、場の空気ごと明るくなる、その感じに少し似ていた。

何度か試し、少しずつ比率を変える。

悪くはない。

だが、まだ違う。

彼女は目の前にいる時より、視界から消えた後の方が妙に残る。

やわらかなまま、気づけばこちらの思考を占めている。

その厄介さまで含めて整えなければ、たぶん意味がない。

最後に、ごくわずかな柑橘の気配だけを足した。

華やかすぎれば違う。

けれど、あのひとが持つ軽やかな明るさを、少しだけ残しておきたかった。

最後の一杯を淹れ、私はようやく頷く。

これなら、差し出せる。

混ぜ合わせた茶葉を小さなガラス瓶へ移す。

蓋を閉め、掌の中でひとつ静かに転がした。

ラベルはつけない。

説明書きもいらない。

これは売り物ではなく、ただ一人のために整える一杯なのだから。

翌日の夕食後。

彼女は三日越しの約束を覚えていて、食器を下げる私の手元をそわそわと目で追っていた。

「セヴィ、もしかして」

「ええ」

私は短く頷く。

「お時間がよろしければ、今夜」

「ぜひ」

ダイニングテーブルに茶器を揃える。

ポットに湯を通し、温度を均一にする。

いつもより動きが慎重なのは、自分でもわかっていた。

彼女は向かいの席で、何も言わずにこちらを見ている。

その視線を感じながら、私は瓶の蓋を開けた。

整え終えた茶葉を量り、ポットへ入れる。

湯を注ぐ。

茶葉が一度だけ大きく揺れ、その後は静かに沈む。

紅茶の香りが、ゆっくりと立ち上がった。

最初に残るのは、落ち着いた骨格。
その奥に、澄んだ明るさ。
さらに向こうに、ごく薄く柑橘の影。

カップに注ぐ。

淡い水色が白磁の内側で静かに落ち着いていく。

私はその一杯を、彼女の前へ置いた。

「こちらを」

彼女はすぐには口をつけず、まず香りを確かめるように目を伏せた。

「……いい香り」

「お気に召すかどうかは、まだ」

そう言う私の声は、思ったより低かった。

彼女は両手でカップを包み、そっと口元へ運ぶ。

ひと口。

そして、もうひと口。

そのあいだ、私は何も言わなかった。

どの茶葉を使い、何を残し、何を抑えたか。

説明はできる。

だが、今ここでそれを言葉にするのは少し違う気がした。

やがて彼女はカップをソーサーへ戻し、顔を上げる。

「……これ、好きです」

言い方に迷いのない、まっすぐな声だった。

胸の奥で、何かが静かにほどける。

「そうですか」

それ以上の言葉は、うまく選べなかった。

彼女はカップの中をもう一度見つめる。

水面に映る光が、わずかに揺れた。

「なんだか、不思議ですね」

「不思議、ですか」

「明るいのに、落ち着くんです」

そう言って彼女は、少しだけ考えるように言葉を探した。

「やさしいだけじゃなくて、ちゃんと芯がある感じで」

私は返事をせず、ただ彼女を見ていた。

そこまで読み取られるとは思っていなかった。

彼女はそんな私に気づかないまま、またひと口だけ紅茶を飲む。

「セヴィから見ると、私はこうなんですね」

ようやく私は息をついた。

「“貴女そのもの”ではなく」

一度だけ言葉を選ぶ。

「私が知っている貴女、です」

彼女の指先が、カップの縁に触れたまま止まる。

「……そういう言い方、ずるいです」

困ったように笑ってから、彼女は視線を落とした。

けれど、その声に拒絶はなかった。

私はようやく自分の分のカップへ手を伸ばす。

同じ茶葉のはずなのに、自分で飲むと先ほどとは違って感じられた。

彼女の前に置いたことで、初めて完成した一杯だったのかもしれない。

「ブレンド、したんですか?」

「ええ」

「やっぱり」

彼女は少し嬉しそうに目を細める。

「一種類じゃない気がしてました」

その一言に、私は思わず小さく笑った。

「鋭いですね」

「セヴィほどではありません」

即答だった。

その無邪気さに、今夜もまた返す言葉を失う。

「おかわりをお注ぎしますか」

「お願いします」

差し出されたカップを受け取る。

その一瞬、指先に触れた温度だけが妙に鮮明に残った。

執事としてなら、覚えないはずの温度だった。

私は二杯目を注ぎながら、胸の内で静かに認めていた。

この一杯は、もう職務ではなかった。

彼女は湯気の向こうで、いつもの顔をしてカップを受け取る。

そして、それが当然であるかのように、もう一度ひと口飲んだ。

私が知っている彼女は確かにそこにいて、その彼女のために整えた一杯を、彼女自身が好きだと言った。

――それだけで、十分だった。

彼女がカップを置く。

白磁に触れる小さな音が、やけに静かに響いた。

「セヴィ」

その呼び名に、今夜も私は返事をする。

「はい」

短い応答のあと、沈黙が落ちる。

だが、その沈黙はもう、職務の内側だけにあるものではなかった。

私は視線を伏せ、まだ温かいポットに指先で触れる。

安全な距離を守るつもりなら、こういう一杯は作るべきではなかった。
それでも作った。
彼女は、それを受け取った。

ただ整えて去ればいい、という未来が、その一杯の向こうで静かに崩れはじめていた。



この一杯に、意味を見出されたなら。


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