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触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第4章

【第4章 整えられた生活】

勤務開始初日。

呼び名を巡る応酬が収まったあと、彼女はカップを両手で包みながら、思い出したように笑った。

「執事さんに淹れてもらう紅茶……これって、執事喫茶っぽいですね」

「執事喫茶?」

知っている単語の、意外な組み合わせだった。

「執事さんが接客する喫茶店です。日本のカルチャーですね」

「それは、執事の本来の職務とは少々趣が異なりますね」

「でも、お嬢様扱いされたい女の子には、ちょっと夢のある場所なんですよ」

「……そういうものですか」

「そういうものです。燕尾服、素敵ですよ」

その言葉だけが、やけに残った。

勤務を始めてから数日、彼女は約束を守った。

業務中は、セバスチャン。
業務外では、セヴィ。

最初のうちは、その呼び名が口にされるたびに、わずかに呼吸が乱れた。
だが彼女は、そこに特別な意味を上乗せしない。

ただ、当然のように使い分ける。

契約の内と外を分けたのは私のはずだった。
それを先に生活に馴染ませたのは、彼女の方だった。

そして、勤務開始後、最初の月曜日が来た。

自室でネクタイを整えながら、私は鏡の中の自分を見る。

燕尾服。

本来は必要な場面に限る装いだ。
それを、週の始まりに着る。

提案したのは彼女だった。

――週の始まりに、きちんと整ったセバスチャンを見ると。
――私も、ちゃんとしなきゃと思えそうで。
――毎日だと、少し慣れてしまいそうですし。

軽い口調だった。
だが、冗談ではなかった。

整える対象に、自分自身も含めている。
その感覚が、妙に彼女らしいと思った。

リビングへ入ると、ソファで手帳を開いていた彼女が顔を上げた。

一瞬だけ、目が丸くなる。

「……あ」

それだけ言って、彼女は手帳を閉じた。

「本当に着てくださったんですね」

「ご提案をいただきましたので」

そう返すと、彼女は少しだけ笑った。

「月曜日は“ちゃんとした日”ですね」

満足そうな声音だった。

私はダイニングへ向かい、いつも通り茶器を整える。
背後から視線を感じた。

「そんなに珍しいですか」

振り返らずに問うと、彼女は素直に頷いた気配を見せた。

「珍しいです」

少しだけ間があく。

「同じ人なのに、空気が違いますね」

その表現に、私はわずかに手を止めた。

「空気、ですか」

「ええ」

彼女は立ち上がり、テーブルのこちら側へやって来る。

「いつものセバスチャンも整っていますけど」

そこで言葉を切り、私の胸元からネクタイ、肩の線へと順に視線を移した。

「今日は、もっと“仕事のできる人”という感じがします」

「普段は違うと?」

「違いません」

返答は早かった。

「でも、これは少し反則ですね」

私は思わず彼女を見る。

「反則、ですか」

「だって、見たら気が引き締まるのに、少しだけ見惚れてしまうから」

その言葉に、私は小さく息を吐いた。

後半だけは、聞かなかったことにした。

彼女は置かれたカップに指を添えながら、何でもないことのように続けた。

「毎日じゃないからいいんです」

「希少性、でしょうか」

「ええ。大事です」

その返事があまりに迷いなく、私はつい口元を緩めた。

「では、月曜日はこの装いで」

「お願いします、セバスチャン」

業務中の呼び名だった。

だが、その声にはすでに、ただの形式ではない馴染みが混じっている。

私は紅茶を注ぎ、彼女の前へ置く。

「今週も、整えてまいりましょう」

彼女はカップを受け取り、小さく笑った。

「はい。よろしくお願いします」

それ以上は、足さない方がよかった。

彼女が決めたのは、服装の頻度だけではなかった。
月曜日に、互いに少しだけ整って向き合う。
そのための手順だった。

ただ、その線がどこまで保つのか。

彼女が静かに崩れる朝まで、私はまだ知らなかった。



整いすぎることへの不安を、感じられたなら。


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