触れれば、戻れない。——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第5章
【第5章 均衡の歪み】
契約時に、彼女の仕事について簡単な説明はあった。
「小さな会社です。“この人なら大丈夫”と判断できる人だけを、必要な場所に置いています」
――任せられる人間を選ぶ側の声だった。
だからこそ、自分の限界だけを見誤る今の姿が、少し不思議だった。
「繁忙期のアナタ、人としてアウトだものね」
あの時のクララの言葉の意味を、私はようやく理解することになる。
朝。
私の起床前に、彼女はすでに仕事を始めている。
ノックをすると、間を置かずに声が返った。
「……紅茶が飲みたいです」
「キッチンにございます。食事もご用意しております」
「紅茶だけでいいです」
「なりません。せめてスープだけでも」
返事は少し遅れた。
「五分だけ、待ってください」
待ったところで、区切りがつくとは思えない。
だから私は、その五分の後にもう一度声をかけた。
結局、彼女を説き伏せ、どうにか朝食を取らせる。
昼になっても、キーボードを叩く音は止まらない。
「食事を」
返事はない。
もう一度、声をかける。
「……後で」
パソコンの画面から目を離さないまま、彼女はそう言った。
三度目に声をかけたあと、私は彼女の手をそっと押さえた。
――業務としては、やりすぎだった。
恨めしげな視線を向けられても、それを無視して半ば強引にキッチンへ連れて行く。
夜。
「……どうか、人でいてください」
ほとんど懇願に近い形で、夕食と入浴を促す。
それでも彼女の仕事部屋の明かりは、深夜になっても消えなかった。
三日続いた。
業務としてなら処理できる。
だが、それでは足りない。
四日目の朝。
朝食の準備をしている最中、彼女がよろめくようにリビングへ現れた。
そのまま、ソファへ浅く腰を下ろす。
私は調理の手を止め、すぐに彼女のそばへ向かった。
「一度、しっかり睡眠をお取りください」
彼女の足元に片膝をつき、返事を促すように手を包む。
彼女の目は閉じかけている。
寝室へ連れて行くべきだと判断した、その瞬間だった。
「ここ……座って、セヴィ……」
彼女は腕を伸ばし、隣の座面を軽く叩いた。
言われた通りに腰掛ける。
ふにゃりと緩んだ彼女の顔が視界に入った。
「……寝るぅ」
そのまま、私の膝の上へ彼女の頭がやわらかく着地する。
「………っ」
上がりかけた声を、喉の奥で咄嗟に堪えた。
反射的に目を閉じる。
ゆっくり目を開け、眠る彼女を見る。
目の下の薄い影。
少しだけ荒れた肌。
疲れきっているのは明白だった。
私は深く息を吐く。
抱き上げて寝室へ運ぶべきだと、頭ではわかっている。
だが、そこで手が止まった。
彼女には触れてはいけない。
――今更、と思う。
それでも、寝室へ入る許可は取っていない。
私はそれを理由にした。
ソファの背に掛けてあったジャケットを手に取り、彼女の身体へそっと掛ける。
触れずに済ませるための、苦しい代用だった。
窓の外は、いつの間にか薄く曇っていた。
部屋の中は静かで、壁掛け時計の音だけがやけに近く聞こえる。
彼女の呼吸が、膝の上でゆっくりと上下する。
その重みを振り払う理由も、起こす理由も、見つからなかった。
一時間後。
足の感覚は、とっくに曖昧になっていた。
姿勢を変える理由はいくらでもあった。
ようやく彼女は浅く目を開けた。
「……あ」
状況を把握しきれていない顔のまま、私を見上げる。
私はできるだけ平静な声で言う。
「目が覚めましたか」
彼女は瞬きをひとつした後、膝の上の感触に気づいたらしく、はっと身体を起こした。
「セ、セヴ、セバスチャン! す、すみません……っ」
「謝罪は後です」
思っていたより低い声が出た。
「睡眠を削れば、判断が鈍ります。判断が鈍れば、貴女が守ろうとしているものまで、損ないます」
私はそのまま、仕事効率と睡眠の関係について懇々と説いた。
途中から彼女は反論を諦めたらしく、たいへん素直に頷いていた。
「本日はここまでです」
「でも、まだ――」
「本日分は、もう終わりです」
言い切ると、彼女はようやく黙る。
私は寝室の方へ視線を向けた。
「お休みください」
彼女は数秒だけ躊躇ったあと、観念したように立ち上がった。
「……はい」
その返事が、妙におとなしかった。
寝室の扉が閉まるまで見届けてから、私はようやく息を吐く。
そこで初めて、彼女の肩へ掛けたままだったジャケットに気づいた。
取り戻しに行く理由はある。
だが、今はそのままでいい気がした。
私はソファへ視線を落とす。
先ほどまで、そこに彼女の重みがあった。
触れていない。
運んでもいない。
寝室へも入っていない。
境界線は、守ったはずだった。
それなのに。
あの一時間だけが、
守った線の内側に残っていた。
触れない近さに、心が動いたなら。
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップは、創作の為に有意義に使わせていただきます