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触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第3章

【第3章 境界線の命名】

最初に提示された職務内容は、あまりにも簡潔だった。
条件が少なすぎる契約ほど、境界が曖昧になるものだ。

期間は、半年。
この部屋に滞在し、彼女の生活を整える。
それだけで済む関係ほど、線を引く側の意志が問われる。

「繁忙期には、絶対にいてほしいんです」

彼女の目に、ほんの少しだけ切実さが混じる。

「私……家事が壊滅的に向いてないんです」

眉が下がる。

「忙しい時は、特に……」

助けを求める言い方はしても、依存しきる響きではなかった。
必要を口にしながら、主導権だけは手放さない声だった。

クララが盛大に吹き出した。

「繁忙期のアナタ、人としてアウトだものね」

提示された報酬金額に、一度だけ目を落とす。
そこに私は二重線を引き、控えめな金額へ書き直した。

高すぎれば理由になる。
安すぎれば、情に寄る。

そのどちらにも寄せたくなかった。

「まずはお試し、ですので」

半年という長さを軽く扱わせないための、こちらなりの防波堤でもあった。

彼女は私が差し出した契約書を受け取り、視線を走らせる。

そこにも、線は引かれていた。
任せるが、明け渡さない。

それは安心材料であると同時に、いっそう気を抜けない相手だという意味でもあった。

「ねぇ、その金額でセバスを雇えるってずるくない?」

クララが面白そうに彼女をつつく。

「その価格ならアタシが雇いたいわねぇ」

「……あなたなら三割増です」

「アタシとセバスの仲じゃないの」

「ご冗談を」

クララを軽くあしらい、書類を確認する彼女を見守った。

「あの……よろしいのですか?」

支払う報酬が下がったのに、彼女は申し訳なさそうな顔をする。

「ええ」

ややぬるくなった緑茶に口をつけた後、彼女を見る。

「もし気になるのなら、週のうち実働四日、休日三日という形でも構いません」

それなら、と彼女はふわりと微笑んだ。

「条件に異論はありません」

書類に目を通し、そう答える。

署名をする前に、一点だけ確認する。

「よろしいでしょうか」

彼女が顔を上げる。

「職務にあたり、いくつか遵守すべき原則があります」

ここを曖昧にしたまま始めれば、いずれ取り返しのつかない誤差になる。
そういう種類の仕事だと、私は知っていた。

「原則?」

「ええ」

言葉を選ぶ。
過不足なく、誤解なく伝える必要があった。

『雇用主を惑わせないこと』

『揺るがせないこと』

必要以上に近づかないこと。
相手の日常の重心を、こちらの都合でずらさないこと。

それは、長く守ってきた技術だった。

私はテーブルの上でやわらかく指を組む。

『私的な感情を、引き起こさないこと』

それは相手のためでもあり、同時に自分のためでもある。
境界は、越えた後より、越える前にしか守れない。

そして、

『感情ではなく職務として扱うこと』

彼女は瞬きをひとつした。

「……なるほど」

理解は早かった。

「それは、あなたのルールですか?」

「職業上の倫理とお考えください」

私にとって執事とは、誰かの人生に割り込まない存在であるべきだった。
かつて一度だけ、その線を引くのが遅れかけたことがある。

名を呼ぶだけで、期待させてしまう。
その先を、許したように受け取られてしまう。

誰にも責められなかった。
だからこそ、二度と同じ場所には立たないと決めた。

そして私は、始まる前に言葉で線を引く。
好感も、信頼も、そこから先へ進ませないために。

彼女はわずかに笑った。

「じゃあ」

軽口のように聞こえた。
けれど、目だけは笑っていなかった。

「私が揺らいだら、あなたの責任になるんですか?」

視界の端で、クララが口笛を吹いた。

――鋭い。

だが、答えは決まっている。

「そうならないようにするのが、私の役目です」

それは誓約に近かった。
彼女に向けたというより、自分自身へ再確認するための。

彼女はしばらくこちらを見ていた。
測るように。試すように。

やがて、小さく頷く。

「わかりました」

それで十分だった。

書類に署名をする。

Sebastian Hartley

紙の上で、インクが乾く。

その瞬間。
関係に名前がついた。

「明日より、よろしくお願いいたします」

立ち上がり、胸に手を当てる。
形式としては、正しい。

雇用主となった彼女も立ち上がる。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

差し出された手を見る。

握手は問題ない。
禁じられていない。

それでも、最初に許す接触には意味が残る。
だからこそ、必要以上の温度を持たせたくなかった。

だが――距離は必要だ。

ごく短く、形式的に手を取る。
温度までは、覚えない。

クララだけが、意味ありげに私たちを眺めていた。

契約を交わした後、クララと共にマンションを後にした。
今夜はクララの家に泊まり、明日から雇用主の元で業務を開始する。

クララがワインを注ぎ、私の前に置く。

「あの子、可愛かったでしょ?」

ワインの席でそう問われる時点で、クララはもう何かに気づいているのだろうと思った。

「……そうですね」

ワインを手に取り、口をつける。

「でも、ああ見えて容赦しないタイプよ」

クララが可笑しそうに笑ってワインを継ぎ足す。

「油断してると、あの子に全部奪われちゃうわよ」

いいワインなのに。
グラスに雑に注がれて、盛大に波打つ液面を見ながら呟く。

「既に境界線は、引きました」

――引いたはずだった。

契約書の上にも、言葉の上にも。
だが、引いた線がそのまま機能するかどうかまでは、まだわからなかった。

翌日、再び彼女の部屋を訪れる。
半年だけだが、ここは今日から職場でもある。

「どうぞ、お入りください」

彼女に迎え入れられ、昨日とは違う立場で部屋に入る。

「荷物を解いたら、リビングに来てくださいね」

そう言って、彼女は静かにドアを閉めた。

割り当てられた自室にスーツケースを運び入れ、手早く荷解きをする。
最初に取り出したのは、燕尾服だった。
かつての職場であつらえてもらったものだ。

返却義務はなかった。
処分はできなかった。
愛着はある。
だが、再び着ることは想定していなかった。

それでも、持ってきてしまった。

「執事さん、ですか?」

昨日の彼女の表情を思い出す。
私は静かに燕尾服に身を包んだ。

――想定していなかったはずなのに。

「うわぁ、本物だぁ……。初めて見た……」

リビングに入った途端、彼女が早足で近づき、距離を詰めてきた。
そのまま私の周囲を歩き回りながら観察を始める。

その仕草に、微かに口元が緩んだ。

「そんなに珍しいです?」

「日本ではなかなか見ませんね。執事なんて一般人には無縁ですよ」

彼女は背後に回り込み、燕尾服のテールを摘んで揺らす。
私はそれを制することもできず、ただ一度だけ浅く息を吐いた。

「本日は、私が紅茶を淹れましょう」

彼女に茶器を出してもらい、ダイニングテーブルへ揃える。
ケトルで湯を沸かす。
手は迷わない。
淹れ方は身体が覚えている。

だが、この空気は――業務ではない。

だからこそ、距離を測る。

「おかけになって、ハートリーさん」

雇用主の指示としては自然だ。
だが、立つ位置まで見直されると、職務の輪郭が少しだけ揺らぐ。

彼女は対面の席を指し示した。

「後ろに立たれていると落ち着かなくて」

素直な感想に、つい笑みが漏れる。

「そこは執事の立ち位置ですので」

とはいえ、彼女の指示通り、向かいの席に腰を下ろした。

「……セバスチャン、とお呼びください」

姓のままでいれば距離は保てる。
名を許すのは、職務のためであって、それ以上ではない。
そう整理したうえでの提案だった。

私にお茶を淹れようとする彼女を制し、目の前のカップに自ら紅茶を注ぐ。
彼女は、仕えられることに慣れていない。
押し問答の末、彼女はしぶしぶ頷き、同じ紅茶を口にした。

「セバスチャン、さん」

視線を揺らし、口の中で何度か反芻させてから小さく私を呼ぶ。

――可愛らしい。

その認識は、即座に排除した。

「セバスチャン、で」

私の表情を見て、彼女の眉が上がる。

「セバスちゃん」

「それは少々、違うニュアンスを感じます」

彼女はくすりと笑い、紅茶の湯気越しにこちらを見る。

「仕事の間は、ちゃんと線を引きたい、でしたね」

「ええ」

「厳密ですね、セバスチャン」

「職務ですので」

「業務外なら?」

そこを分けて考える発想自体が、彼女らしいと思った。
役割の外側にいる私を、最初から勘定に入れている。

私は答えるまでに、わずかに間を置いた。

「……少しだけ、緩むかもしれません」

口にした瞬間、言いすぎたかもしれないと思った。
業務の外側に私を置く余地を、自分で認めてしまったからだ。

「では、業務の時はセバスチャン」

そこで一度言葉を切り、紅茶の表面へ視線を落としたまま続ける。

「でも、仕事が終わったあとまで、ずっと同じ呼び方だと変な気がします」

私は返事をしなかった。

彼女は顔を上げる。

「業務外まで、ずっと執事のままでいなくてもいいんですよ」

その言葉は、軽いようでいて、妙に真っ直ぐだった。
ただ愛称を弄んでいるのではない。
役割の外側にも、私という人間がいることを前提にしている。
そう解釈した瞬間、思考がわずかに遅れる。

「クララはセバスって呼んでましたね」

「あれとは付き合いが長いですからね」

「ふぅん……」

彼女は少し考え込んだあと、ふと思い出したようにスマートフォンへ手を伸ばした。
画面をこちらへ向ける。

「さっき、気になって調べてみたんです。セバスチャンの呼び名って、思ったよりたくさんあるんですね」

そこには、いくつかの略称が並んでいた。
軽く眺めるだけのつもりだったのに、視線が一か所で止まる。

彼女は私の反応を見て、小さく口元を緩めた。

「……セヴィ」

その音だけで、職務の外側へ一歩出された気がした。

そう呼ばれて、呼吸を一瞬忘れた。
指先の動きが止まる。
わずかに、震える。

名を縮められたことより、その呼び方が妙に自然に彼女の口から出たことの方が、私には厄介だった。

――その呼び名は、知っている。
だが、呼ばれたことはない。
誰にも許したこともない。

「……その呼び方は」

ようやく声を出す。

「お控えいただけますか」

禁止したいのは呼び名そのものではない。
その呼び名で応じる自分が、もう想像できてしまったことだった。

彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。

「駄目でした? 出会ったばかりなのに馴れ馴れしかったです?」

――違う。
問題は、そこではない。

「理由を聞いてもいいですか?」

私は一度、目を伏せる。
そして彼女を真っ直ぐに見据えた。

「業務に支障が出ます」

それは方便であり、同時に事実でもあった。

彼女は紅茶に口をつけ、ふっと笑った。

「呼ぶのは業務外の時ですよ?」

思考が止まる。

「ね、セヴィ」

「……線引きは、させてください」

未だ整理がついていない。
この感情に名前をつけるのは、早すぎた。

「しますよ」

あっさりと肯定する。

「仕事の間は、ちゃんとセバスチャンと呼びます」

彼女はそう言ってから、ほんの少しだけ表情を和らげる。

「でも、仕事が終わった後の貴方まで、ずっと同じ名前で固定したくないんです」

その言葉には、距離を詰めるための甘さより、役割だけで私を閉じ込めないための真っ直ぐさがあった。

「セバスチャン」

澄ました顔で、彼女が私を呼ぶ。

「これはもう、決定事項です」

契約書の上で線を引いたばかりなのに、その外側の呼び名だけは、もう彼女の側で決められてしまっていた。

楽しそうにそう宣言してから、花が開くように笑った。

「業務外では、セヴィ」

その呼び名が、思った以上に深く刺さったことだけは、彼女には悟らせないままにした。

契約の席で引いたはずの線は、
勤務初日の午後には、すでに別の形に書き換わり始めていた。

彼女は、無遠慮に踏み込もうとしたわけではない。
ただ、私が役割の外にも存在していることを、
最初から見落とさなかった。



この距離を、見届けたいと思われたなら。


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