触れれば、戻れない。 ——告白しない男の、誠実で残酷な恋 第2章
【第2章 不適切な契約】
――半年前、私は彼女と出会った。
見知らぬマンションの一室。
私はそこに、連れてこられていた。
理由はまだ、聞かされていない。
その時点で、すでに主導権の半分は私をここに連れてきた友人クララに握られていた。
日当たりの良いキッチンに置かれたダイニングテーブル。
友人クララと並んで座らされている。
キッチンでは部屋の主である小柄な女性が茶の用意をしていた。
初対面の相手に住環境の内側を見せるには、彼女はずいぶん落ち着きすぎていた。
部屋に招き入れられた時、ふと視界に入る。
リビングのローテーブルの端に、手帳が置かれていた。
黒に近い深緑の表紙。角は少し擦れているが、扱いは丁寧だ。
側面には色の違う付箋がいくつか覗き、ペンが一本、きちんと差し込まれている。
仕事用だろうか。
そう判断しかけて、私はすぐに視線を外した。
他人の私物を観察し続けるのは、礼を欠く。
ただ、ひとつだけ印象に残った。
その手帳は、使い込まれているのに、乱れていない。
茶器が触れる音がした。
そのひとの指先には迷いがない。
客慣れではない。
自分の空間に他人を入れる手順を、決めている人の動きだった。
無駄のない動きだった。
それだけで、話を聞く前から少しだけ警戒した。
何か言われる前に、私は視線を戻した。
そう自制したのに、視線だけが思考より遅れた。
「お待たせしました」
その女性――彼女はにこやかに笑って湯呑みを置き、向かい合わせの席に腰を下ろした。
「緑茶、飲めます?」
こちらを試すような響きはない。
ただ、相手の可否を先に確かめる聞き方だった。
「問題ありません」
彼女を安心させるように、器を手に取り一口含む。
飲み慣れている紅茶とは違う、やわらかな苦味。
そしてそのあとから滲むわずかな甘みが舌に残った。
その一口で安心する自分がいたことに、私は少しだけ戸惑った。
茶器を置く位置にも迷いがない。
客を迎えることに不器用な人間の動きではない。
そう思った瞬間、自分が彼女の手元を見すぎていたことに気づいた。
その違和感が警戒なのか、興味なのか、その時点ではまだ判別できなかった。
「この子、今人手が必要なのよ」
彼女を指し示して友人クララがニヤリと笑う。
クララの言い方は軽い。
だが、その軽さに乗るには、ここはあまりに生活の内側だった。
「どうせなら、住み込みでお世話しちゃえばいいかなって。
滞在中の宿泊費も浮くわよ〜」
クララのあけすけな物言いに思わず苦笑する。
「あなたにかかると、執事はお世話係なんですね……」
「執事さん、ですか?」
彼女が目を丸くする。
「ええ……三ヶ月前までは、ですが」
「セバスはずっと執事やってたのよ〜」
セバス、と呼ばれて隣に視線を向ける。
「あなたが言うと軽く聞こえてしまいますね」
クララの説明は雑すぎる。
だが、今に始まったことではないので、いちいち気にしない。
向かいの彼女も楽しそうに笑っている。
「ですが、男の私が住み込みでは……」
私は慎重に言葉を選ぶ。
立場より先に、距離の問題があった。
知らない誰かの日常へ入り込むこと自体、私には本来向いていない。
クララが“言いたいことは察した!”とばかりにニヤリとする。
「セバス、ご主人様をつまみ食いなんてしないわよね?」
「……っ、表現を選んでください」
私の配慮を無駄にするな。
信頼させたいのか、崩したいのか。
相変わらず、掴みどころがない。
そもそも、住み込みで彼女の世話をするなんて私自身が今初めて聞いたばかりだ。
来日前、滞在中のことはすべて任せてほしいと言われていた。
その中身がこれだったらしい。
「クララのお友達で、執事さんなら大丈夫でしょう」
その言い方に、甘さより先に判断の速さを感じた。
信頼している、ではなく、確認した上で受け入れている声だった。
私と友人のやりとりを聞いていた彼女は頷き、一度私を見た。
そして契約書を差し出した。
来日前から、クララは私のことをある程度彼女へ伝えていたらしい。
英国での勤続年数。生活補助と家事運営の実務。日本滞在中の身元保証。
そこまで伝えておきながら、なぜ肝心の「執事」を伏せていたのか、今一度問い詰めたい。
何も知らずに招き入れたのではないとわかって、安堵と同時に、妙な引っかかりが残った。
目の前に置かれた契約書にも、住み込みという言葉に見合わぬほど細かな条件が整っていた。
業務範囲、立ち入りの制限、契約解除の扱い。
思いつきで人を家へ入れる人間の書類ではない。
任せるが、明け渡さない。
紙の上にも、その線は引かれていた。
その線の引き方が、なぜか私と似ていると思えた。
だが。
……少し判断が早い。
しかし、その判断を否定する理由が見つからない。
むしろ、否定しようとするたびに、こちらの方が理屈を失っていく感覚があった。
言葉は喉の奥で止まった。
だが。
これは受けるべき案件ではない。
住み込み、女性の一人暮らし、読み切れない雇用主。
どれか一つでも、断る理由には十分だった。
――そのはずだった。
条件ではなく、相手そのものが読み切れない。
そのそばへ住み込むのは、危うい。
それでも――
彼女が黙ってこちらを待っている、その沈黙の置き方だけが妙に誠実だった。
書類を差し出す白い指先が、視界に入る。
一度、目を逸らす。
逸らしたはずの視界に、白さだけが残る。
初対面の相手の指先を、後から思い返すなど、本来ならあり得ない。
彼女の前では、なぜか理屈が意味を為さなくなる。
契約内容に問題はない。
警戒すべき理由も、むしろ少ない。
だからこそ、自分の判断が揺らぐ理由を説明できなかった。
「条件を……詰めましょうか」
断るために開いた口が、契約へ向かう言葉を選んでいた。
その時点で、最初の線は越えていた。
まだ、誰にも気づかれないほど静かに。
この契約に、少しでも違和を覚えたなら。
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