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夏目漱石「三四郎」美禰子の視点と恋

夏目漱石「三四郎」は主人公の三四郎の視点で描かれています。

しかし私(みゆ)は、三四郎が恋する美禰子の視点(心理)を中心にして、特に恋愛について考察していきます。 

文豪の名作の考察は芥川龍之介「地獄変」も書いております。

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「三四郎」 考察の前書き

二十三歳の三四郎は九州から上京し、東大へ入ったばかりである。
三四郎には三つの世界ができた。
一つは遠くにある。全てが平穏である代わりに寝ぼけている。
懐かしい母からの手紙が来た時は、この世界に低徊して旧歓を温める。(父は亡くなった)
第二の世界のうちには苔の生えた煉瓦造りがある。高く積み重ねた書物がある。
広田先生も野々宮君(同郷の七歳上の理学士)もこの内にいる。
第三の世界は泡立つシャンパンの盃がある。
全ての上の冠として美しい女性がある。
この世界は三四郎にとって最も深厚な世界である。
三四郎はこの三つの世界を掻き混ぜて、一つの結果を得た。
国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、身を学問に委ねるのだ。
三四郎は美禰子(みねこ)と出会って熱烈な恋をし、野々宮に嫉妬する。

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「三四郎」の感想でよく聞かれるのは、美禰子(みねこ)の気持ちがわからないということです。

美禰子は三四郎を愛していたと思う方、野々宮を愛していたと思う方、美禰子は彼らを翻弄していたと思う方など、意見が分かれます。

小説の読み方は人それぞれであり、私も自由に考察します。

美禰子のコケティッシュな言動が、男心を作為的に惑わす小悪魔的な存在にも見えるのでしょう。

私は美禰子を感性が豊かな女性だと受けとめました。
純粋に人を愛せる人だと思います。

美禰子の下駄の鼻緒は右左の色が違います。

ゆえに三四郎には美禰子の下駄だとすぐわかるのです。

なぜ右左の色が違うのか?

これは美禰子という女を表すための「夏目漱石の表現」だと感じました。

美禰子は論理的で聡明な左脳と、感性豊かな右脳の両方が秀でている女性です。

右左のアンバランスさが美禰子を魅力的に見せ、人を惑わすのです。

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美禰子は最初は野々宮を愛していたのでしょう。

野々宮は二十三歳の美禰子より七歳年上で、その分野では世界でも名の通った理学士です。

野々宮の妹のよし子は兄のことを、
「学問好きの人は万事を研究する気で見るから情愛がうすくなる。あのくらい研究好きの兄がこのくらい自分を可愛がってくれるのだから、兄は日本中で一番いい人に違いない。」と言います。

よし子の洞察力に、三四郎は敬愛の念を抱きます。

よし子は身内で妹だから「このくらい可愛がって」で、とりあえず寂しさを抑えていますが、美禰子は他人なので不安な気持ちになります。

そんな時、大学の本郷の池の周囲で、美禰子は三四郎と出会います。

夏の暑い日、池の周囲で眩しくて団扇(うちわ)を額にかざす美しい美禰子に、三四郎は見惚れます。

美禰子からすれば、野々宮との仲が不安な時、自分の魅力を見つけてくれた三四郎に興味を持ちます。

美禰子は左手に白い小さな花を持って、匂いをかぎながら来ます。

三四郎は東京行きの汽車で出会った女と、宿の同じ部屋で隣に寝ても手を出さなかったため、「あなたはよっぽど度胸の無い方ですね」と言われたばかりだったので、美禰子との出会いが嬉しくもあり恐れも抱きます。
(矛盾だ)と三四郎。

美禰子は花を落として行きます。

三四郎はその花を拾って、匂いをかいでみます。
匂いはない。
花を池の中へ投げ込むと、野々宮が現れます。
「君まだいたんですか」
野々宮とは先ほど九州の同郷の先輩として、母に言われて会ったばかりでした。

野々宮は三四郎と美禰子のやりとりを見ていたので、三四郎に興味を持ち、食事に誘います。

そこで野々宮は三四郎を牽制するため仕掛けます。
三四郎の前で、蝉の羽のようなリボンを買うのです。

そのリボンを後日、美禰子がつけていたのを見た三四郎は、二人の仲を推察して嫉妬のような感情を持ちます。

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三四郎は大学で佐々木与次郎というお調子者の友達ができ、与次郎が傾倒している広田先生と知り合います。

広田先生は与次郎いわく「偉大なる暗闇」で、哲学にできあがっている人で哲学の煙(煙草)を吹き出します。
高校で英語を教えているが、与次郎は広田先生を大学の教授にしたいと画策しています。

美禰子の一番上の兄(故人)が広田先生の友達だったので、美禰子は広田先生に英語を習っています。

美禰子は両親も亡くなっていて兄と二人暮らし。
兄が結婚すれば家を出なければならず、自分も結婚を考えなければならない立場だと思われます。

広田先生の引っ越しの手伝いで、三四郎と美禰子は親しく喋る関係になりました。

三四郎は美禰子に誘われ、よし子、野々宮、広田先生と一緒に菊人形を見に行きました。

その日、美禰子と野々宮は何かを言いあっていました。
空中飛行機の話で意見が違ったらしく、
「女には詩人が多い」と野々宮は美禰子のことを評しました。

さらに野々宮は大学の近くに下宿したいそうで、妹のよし子を美禰子の家に置いてくれないか、と言っていました。
美禰子は承知したが、野々宮が家を引き払い下宿暮らしになるということは、学問に力を入れる目的なので、結婚は遠くなる、そう美禰子は理解したはずです。

混雑した菊人形の会場で、美禰子は振り返って野々宮を見ました。

野々宮は菊の根を指して同行者に説明しています。

美禰子はさっさと出口へ行きます。
三四郎は追う。

三四郎の目に、美禰子には霊の疲れ、苦痛に近き訴えが見えます。

「もう出ましょう」と美禰子は言います。
 
美禰子について三四郎は人混みを谷中の方へ歩きます。

この時の美禰子の描写が素敵です。
「美禰子はわざと女らしく甘えた歩き方をしない」

恐らくこの日、美禰子は野々宮を諦めたと思います。

失意の中、しっかりした足取りで歩いて行く美禰子は素敵です。
三四郎はついて行きます。

途中で疲れて美禰子はそのへんに座ります。

着物の汚れるのを気にせず、草の上に腰をおろすのです。
おおらかで大胆なところも美禰子の魅力です。
三四郎も並んで座ります。

「空の色が濁りました。重いこと。マーブル(大理石)のように見えます」と美禰子。

「こういう空の下にいると心が重くなるが気は軽くなる。安心して夢を見ているような空模様だ」と三四郎。

三四郎は大きな迷子(自分たち)を彼らが捜したんじゃないかと気にするが、
「責任を逃れたがる人だから、ちょうどいいでしょう」と美禰子は言います。
三四郎は、それは野々宮さんのことなのか聞くが、美禰子は答えません。

「迷子の英訳を知っていらっして?」

ストレイシープ、と美禰子は三四郎に言います。

「私そんなに生意気に見えますか?」

美禰子は立ち上がる時もストレイシープと小さな声で言います。  

帰り道、ぬかるみがあり、足がかりのために置かれた石のすわりがあまりよくない。
「おつかまりなさい」
三四郎は手を出すが、「大丈夫」美禰子は笑う。

美禰子は石の上にある右足に体の重みを託して、左足でひらりとこちら側へ渡った。
のめりそうに胸が前へ出る。
その勢いで美禰子の両手が、三四郎の両腕の上へ落ちた。
ストレイシープ、美禰子が言う。
その呼吸を感じる三四郎。

三四郎はストレイシープを機に美禰子にますます心を奪われるのですが、私は美禰子の恋心が野々宮から三四郎へ移ったのが、この日だったと思います。

ぬかるみで手を借りず、自分の意思と気持ちでひらりと三四郎の方へ渡って行く美禰子。

この描写は「美禰子の恋心が三四郎へ移る」ことを表現した夏目漱石の仕掛けだと思います。


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三四郎は美禰子からお手製の絵はがきをもらいます。

小川を描いて、草をもじゃもじゃ生やして、その緑に羊を二匹寝かして、向こう側に大きな男がステッキを持って立っている。
男は西洋の絵にある悪魔を模したもので、そばにデヴィルと仮名が振ってある。
表は三四郎の宛名の下に、迷える子と小さく書いてある。

三四郎は迷える子が何者かをすぐ悟り、迷える子を二匹書いて、その一匹を暗に自分に見立ててくれたのを甚だ嬉しく思いました。

ストレイシープ(迷える子)の中には美禰子のみではなく、自分ももとより入っていたのだ、と三四郎は快感を覚えます。

美禰子に返事をやろうと三四郎は思いますが、不幸にして絵が描けない、文章ならこの絵はがきに匹敵する文句でなくてはいけない、などと思って返事を書けないのです。

小説の中で三四郎は結局、絵はがきの返事を書きません。
(三四郎はあれこれ考えるタイプ)

小説は三四郎目線で書いてあるので、読者は三四郎が絵はがきに感動したことも知っているし、美禰子の気持ちが思わせぶりに(三四郎が)感じるので、読者もそう感じるんでしょうが、美禰子の立場に立ってみれば、三四郎が思わせぶりです。

三四郎はあれだけわかりやすく自分に好意を持っているように見えるのに、絵はがきの返事もよこさないのです。

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三四郎は大学の陸上運動会を見に行きます。

三四郎は運動好きでもなく、高校のボート競漕の時に旗振り役を勤めたが、その時青と赤を間違えて振って大変苦情が出た。
教授が鉄砲を打ち損なって慌てたのが原因だが、以来三四郎は運動会へ近づかなかったのです。

それなのに、なぜ運動会を見に行くのか?

美禰子に会いたいからです。

こんにちは、とか何とか挨拶をしてみたい、と三四郎は願います。(可愛い。)

三四郎は運動場で美禰子を見つけ、よし子と熱心に競技を見ているところを眺めます。

すると野々宮が胸に徽章を付けて、計測係をしているのが見えます。

美禰子と野々宮は柵を挟んで話し始めました。
美禰子は嬉しそうな笑に充ちた顔である。

三四郎は運動会がつまらなくなって会場を抜け出し、裏の築山の方へ、爪先上りをして丘の頂点まで行き腰掛けました。

高い崖の下にある池を眺めていると、美禰子とよし子が通ります。

三四郎は声をかけようか迷って、急いで少し裾の方へ下りると、
「あんな所に」よし子が見つけ、驚いて笑う。

三四郎はあまりご機嫌を取りたくなくて留まります。

なぜ競技をご覧にならないのか、よし子に聞かれ、つまらないからやめてきた、と三四郎は答えます。
「それより、あなた方こそなぜ出て来たんです。大変熱心に見ていたじゃありませんか」

美禰子は笑う。
三四郎にはその笑いの意味がよく分からない、と書かれているが、三四郎が自分を気にして見ていたことがわかったから笑ったのです。

「この上には何か面白いものがあって?」美禰子。

この上には石があって崖があるばかりで面白いものがあるはずがない。

よし子は小用があって退場。

「さっきあなたの所へ野々宮さんが来て何か話していましたね。運動場の柵の所で」

美禰子は「ええ」と言ったまま三四郎をじっと見て、少し下唇を反らして笑い掛けている。
三四郎は撤回したくなった。

「あなたはまだ絵はがきの返事をくださらないのね」

三四郎はまごつきながら「あげます」と答えた。
(結局、返事はあげない。)

「原口さんという画家をご存じ? 原口さんが今日見に来ていらっしってね。みんなを写生しているから、用心しないと描かれるって、野々宮さんがわざわざ注意してくださったんです」

美禰子は、三四郎が気にしている野々宮と美禰子の会話の内容を教えてくれました。

三四郎は自分がいかにも愚物のような気がした。

よし子が用をすませて戻ってきて、昨日から美禰子の家に居候していることを、三四郎は知ります。

下宿に戻った野々宮が兄妹の往来をするうち、美禰子との関係も深まるのではないかと、三四郎は危惧します。

「ひとを美禰子さんの所へ押し付けて、ひどいでしょう」と、よし子。

すると美禰子は「宗八さん(野々宮)のような方は、我々の考えじゃわかりませんよ。ずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」と言います。

赤門の所で二人と別れ、三四郎は考えます。

自分と野々宮を比較すると大分段が違う。
自分は田舎から出て大学へ入ったばかりである。自分が美禰子から尊敬を受け得ないのは当然である。

ここまでは当然の自己分析ですが、三四郎はさらにネガティブに疑います。

そう言えば何だかあの女から馬鹿にされているようでもある。
さっき運動会はつまらないから此処にいると丘の上で答えた時に、美禰子は、この上には何か面白いものがありますかと聞いた。
あの時は気づかなかったが、今解釈してみると、故意に自分を愚弄した言葉かもしれない。
今日まで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味がつけられる。

三四郎の視点で書かれているので、三四郎に感情移入する読者の一部は、なるほど美禰子は三四郎をからかって愚弄しているのだ、と思う人もいます。

でも美禰子の視点で見れば、全く景色が違います。

三四郎は興味もないのに運動会へ行き、野々宮と笑顔で話す美禰子を見て丘の上へ出て行き、美禰子たちを見つけると急いで裾の方へ降りてきて、見つかるとカッコつけて留まります。

運動会では美禰子たちを観察していたことも会話でわかります。つまらないから出て来たと三四郎は言う。

これは俯瞰で見たらコントです。

夏目漱石は面白がって書いています。ユーモアです。

だから美禰子にツッコミをさせたのです。

「この上には何か面白いものがあって?」
(石があって崖があるだけで面白くはない。)

美禰子の言葉は女らしく柔らかいのでわかりづらいけど、三四郎の天然ボケに対するツッコミです。

当時はまだボケとツッコミ的なお笑いの概念はありませんが、そういう感覚的な呼吸で書いていると思います。

さらに美禰子が野々宮と笑顔で会話していたことを、三四郎は気にして聞きます。

頭のいい美禰子からすれば、やきもちをやいて丘の上に出て来たことを瞬時にわかったはずです。

だから三四郎をじっと見て笑い掛けたのです。
可愛い、と思ったのでしょう。

気にしたままでは気の毒だから、野々宮との会話は他愛ないものだと、ちゃんと教えてあげます。

美禰子が野々宮のことを尊敬すると言ったのは、菊人形の日に野々宮のことを諦め、心の整理をつけたので、結婚相手ではなく、尊敬すべき素晴らしい方だ、と素直に言ったのだと思います。
住む世界が違うのだと、自分を納得させたのでしょう。

同い年の三四郎とは対等な立場でいられると思っています。

しかし絵はがきの返事もくれないので、三四郎の態度や考えがはっきりせず、恋愛へと進展できないのです。

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友達の与次郎に、三四郎はお金を二十円貸した。

広田先生が引越し代の一部を野々宮に借りて、それを返すお使いを頼まれた与次郎が馬券ですってしまった。

三四郎は、与次郎が居候している広田先生の家に行きました。

三四郎が広田先生の家に来る理由の一つは、この人の前に出ると呑気になる。
世の中の競争があまり苦にならない。
野々宮と二人きりで話すと、自分も早く一人前の仕事をして学海に貢献しなくてはすまない気が起こり、苛ついてたまらない。

三四郎は近頃女に囚われた。
惚れられているんだか、馬鹿にされているんだか、よすべきだか、続けるべきだか訳の分からない囚われ方である。
そういう時は広田先生と応対すると心持ちが悠揚になり、女の一人や二人どうなっても構わない気持ちになる。

自分は美禰子に苦しんでいる。
美禰子の傍らに野々宮さんを置くとなお苦しんでくる。

広田先生は以前(ストレイシープの後、話した時に)美禰子のことを乱暴だと言ったのです。

「あの女は心(しん)が乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の乱暴とは意味が違うが」

三四郎にはその時、乱暴という言葉が、どうして美禰子の上に使えるか不思議だったのです。

美禰子の話をしたかったのに、画家の原口が遊びに来ました。

原口は里見の妹(美禰子)の肖像画を描いて展覧会に出すつもりだという。
「あの女が団扇(うちわ)をかざして木立を後に明るい方を向いている所を等身に写してみようかしらと思ってる」

団扇をかざしているところは、美禰子の希望だという。

広田「あんまり美しく描くと結婚の申し込みが多くなって困るぜ」
原口「じゃ中位に描いておこう。あの女も嫁に行く時期だね」
広田「君、貰っちゃどうだ」
原口「僕でよければ貰うが、どうもあの女には信用がなくってね」
広田「あの女は自分の行きたい所でなくっちや行きっこない」

美禰子が希望したという団扇をかざしている構図は、非常な感動を三四郎に与えました。

三四郎と美禰子が初めて池の周囲で出会った時の、美禰子の振る舞いだったからです。

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三四郎は貸したお金が返ってこず、家賃の支払いがあるので困っていると、与次郎が美禰子にお金を借りる話をまとめてきた。
美禰子は三四郎にしか渡せないと言う。

三四郎は美禰子の家にお金を借りに行きます。

すると美禰子は「とうとういらしった」と親しい調子で言います。
わざわざ着替えたであろう光る絹を着ています。

どうしてお金を失くしたのか聞かれ、三四郎は「馬券を買ったのです」と答えます。

美禰子は「まあ悪い方ね」と笑って、
「馬券であてるのは人の心の中をあてるより難しいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらない呑気な方だのに」

「僕が馬券を買ったんじゃありません。佐々木が買ったのです」

「あなたがお金が御入用じゃなかったのね。ばかばかしい」

与次郎はそもそも自分がお金を失くしたことを、美禰子に言わなかったんですね。

三四郎はプライドが邪魔して冷淡な感じになります。
「借りてもいい。借りないでもいい。家へ言えば一週間位すると来ますから」

「ご迷惑なら強いて」
美禰子も受けて冷淡になります。

三四郎は借りておけばよかったと思うが、自分から進んで人の機嫌を取ったことのない男なので、気まずい空気が流れます。

三四郎は帰ると言い、美禰子は「そこまでご一緒に出ましょう。いいでしょう?」と言います。

三四郎は靴の紐を結びながら「え、どうでも」と答えます。

美禰子は三四郎の耳のそばに口を持ってきて、
「怒っていらっしゃるの」と囁きます。

二人は無言のまま連れ立って歩きます。

光る絹を着替えたのは自分のためではなく、用事があったのだと三四郎は思い、対応がそっけなくなります。

美禰子は自分名義の通帳で銀行で三四郎にお金を借りさせ、「預かって置いてちょうだい」と言います。

美禰子は展覧会の招待券が二枚あるから観に行きましょう、と三四郎を誘います。

三四郎がお金を借りる目的でも来てくれたのが嬉しくて、三四郎のために光る絹に着替えてお洒落したのです。

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展覧会の会場。

同じ姓の兄妹の画家の絵がたくさんあり、「兄さんの方がうまいようですね」と美禰子に言われ、三四郎はきょとんとします。

一人の画家が描いていると勘違いしていたのです。

二人は顔を見合わせて笑います。
(やっと和やかに。)

三四郎は絵はさっぱりわからず、油絵と水彩画の区別がつくくらいです。
立ち止まってヴェニスの絵を眺めます。

先へ抜けた美禰子は振り返って、向こうから三四郎の横顔を熟視します。
三四郎は自分の方を見ていない。

この描写は、菊人形を見に行った時、美禰子が振り返って野々宮をじっと見つめた時と、わざと同じように仕掛けてあります。
あの時も野々宮は美禰子を見ていなかった。

美禰子はあの時、野々宮に恋していました。
でもその恋を諦めます。

菊人形の会場をさっさと出て、追ってきた三四郎と二匹のストレイシープになりました。

この展覧会で美禰子が三四郎を見つめる意味は、美禰子が恋しているのは三四郎であり、やがてその恋を諦めることを示唆していると思います。

「あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらない呑気な方」と美禰子が言ったのは、
「私の心がわからないのですか?」
と三四郎に問うていたのです。

展覧会に画家の原口と野々宮が現れます。

里見さん、と大きな声で声かける原口だが、美禰子は原口より遠くの野々宮を見ます。

見るやいなや後戻りをして三四郎のそばに来た美禰子は、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。
三四郎には何を言ったのかわからない。

野々宮は三四郎に向かって、
「妙な連れと来ましたね」と言った。

美禰子は「似合うでしょう」と言った。
野々宮は何とも言わなかった。

野々宮たちと別れ、美禰子と二人きりになった三四郎は、「さっき何を言ったんですか」と聞く。

美禰子は画を離れて三四郎の真正面に立った。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さんを愚弄したのですか」

「なんで?」美禰子は無邪気である。

三四郎は無言のまま歩き出した。
美禰子はすがるようについて来た。

「あなたを愚弄したんじゃないのよ」

「それでいいです」
「なぜ悪いの?」
「だからいいです」

三四郎は自分が愚弄されたと思ったのです。
野々宮の気をひくための道具にされた、と思ったのでしょう。

美禰子は察して「あなたを愚弄したんじゃないのよ」と誤解を解こうとします。

「出ましょう」三四郎は展覧会を出ました。

外は降り出したばかりの雨。

「あの樹の蔭へ入りましょう」
美禰子は向こうの森を指しました。

二人は森へ行きます。
大きな杉の木は雨を防げない。
けれども二人とも動かず、濡れて立っています。

「悪くって? さっきのこと」
「いいです」
「だって、私、なぜだか、ああしたかったんですもの」

美禰子は瞳を定めて三四郎を見た。
三四郎はその瞳の中に言葉よりも深き訴えを認めた。
あなたのためにした事じゃありませんかと、二重まぶたの奥で訴えている。

「だから、いいです」

雨はだんだん濃くなった。
雫の落ちない場所はわずかしかない。
二人はだんだん一つ所へかたまってきた。
肩と肩と擦れ合う位にして立ちすくんでいた。

美禰子は三四郎に誤解を解いて機嫌を良くしてもらおうと歩みよって、光る絹の一張羅で雨に濡れているのに、三四郎は自分の中の「プンプン」が発動して、美禰子の気持ちも、雨に濡れる着物や体も思いやることができず、勝手に「プンプン」しているのです。

美禰子は限界を迎えます。

ブチ切れたと言ってもいいでしょう。

「さっきのお金をお遣いなさい」
「借りましょう、いるだけ」
「みんな、お遣いなさい」

美禰子は理性的に考えることができる一方、感性が豊かでとっさに感覚的に、気持ちに正直に振る舞う人だと思います。

「耳に口を寄せる」内緒話の表現は三四郎への一種のイチャつきで、「なぜだか、ああしたかった」のであり、自分の中で諦めて決別した野々宮に見せたかったのだと思います。

野々宮が原口と来る可能性のある展覧会に、三四郎を連れて行ったのも、恋の相手としてのお披露目です。

けれど三四郎はプライドと、野々宮に対するコンプレックスがあり、美禰子の気持ちを真っすぐ受け止めることができません。

菊人形を見に行ってストレイシープになった日のように美禰子を思いやることもできず、光る絹を着ている美禰子を雨から守ろうともしません。
仕方なくくっついて立っているだけです。

「みんな、お遣いなさい」

これは残念ながら美禰子から三四郎への恋の決別です。

美禰子は兄の結婚とともに、結婚相手を見つけなければならない状況ですが、今の三四郎は結婚相手としては子供っぽすぎるのです。

美禰子は前述の通り、論理的な左脳と、感覚的な右脳の両方が優れた人であり、気持ちを切り替えることができ、相手を見て切り替わるのです。

恋に真っすぐ、好きな人を見つめ、愛しますが(右脳)、無理だと悟った時の切り替えは早いのです。(左脳)

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三四郎はシャツを買いに大きな店へ入ると、偶然、美禰子とよし子が香水を買いに来ました。

美禰子は「先だってはありがとう」と礼を言いました。

三四郎は借金の礼状を書いたのです。
感謝の意を熱烈に書き、湯気の立ったものでした。
三四郎は手紙をポストに入れる時、美禰子の返事を予期していました。 (甘く見過ぎ。)

しかし返事は無く、美禰子に会う機会も今日まで無かったのです。

よし子がいるからああ冷淡なんだろうか、と三四郎は考えます。

よし子が三四郎のシャツを選んだ。
三四郎は香水の相談を受け、ヘリオトロープと書いてある瓶を持って、いい加減に、これはどうですと言うと、美禰子は「それにしましょう」とすぐ決めた。三四郎は気の毒な位であった。

三四郎は母に送金を頼んでいて(美禰子に返すお金)、母は心配して野々宮に送金して手紙を書き、野々宮から受け取ることになりました。

兄の所へ行くというよし子と一緒に、三四郎は行きます。

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よし子は兄の野々宮に、
「美禰子さんからお言伝があってよ。嬉しいでしょう。嬉しくなくって」

野々宮はかゆいようなかおをして、三四郎に
「僕の妹は馬鹿ですね」

三四郎は仕方なしに、ただ笑っていた。

「馬鹿じゃないわ。ねえ小川さん」

三四郎はまた笑っていた。
腹の中ではもう笑うのが嫌になった。

美禰子の言伝とは、文芸協会の演芸会に行きましょうというものだった。よし子も同行するのだ。

このくらいの用事をこうやってわざと三四郎の前で言って、兄をあおっているのは、よし子の策略だと思います。

後述しますが、よし子は三四郎を好きだと思います。

三四郎の前でわざと兄を鼓舞しているのです。

三四郎の美禰子への気持ちに気づかないふりを、よし子はしています。
三四郎が敬愛の念を抱くほどのよし子の洞察力で、三四郎の気持ちに気づかないはずはないのです。

野々宮は「おっかさんが心配して長い手紙をよこしましたよ。僕が一応事情を調べて、不都合がないと認めたら金を渡してくれろ、面倒でもその事情を知らせてもらいたいと頼まれました。佐々木が馬券を買って金を失くしたんだってね。そんな金はもう貸さない事にしたらよいでしょう」

三四郎は貸さない事にする旨を答えました。

こんな場面でも、大人な野々宮との格の違いを感じさせます。
三四郎も感じたでしょう。

「さっきの話をしなくっちゃ」
野々宮は今度はよし子に言います。

「知らないわ。だって仕方ないじゃありませんか。知りもしない人の所へ行くか行かないかって聞いたって、好きでも嫌いでもないんだから。何にも言いようはありゃしないわ。」

三四郎は兄妹をそのままにして表へ出ました。

実はよし子に来た縁談の相手は、美禰子がこの後、結婚する相手なのです。
美禰子の兄の友達X、金ぶちメガネ
(以下、金ぶちXと書きます。)

小説「三四郎」は時系列順に書いてあります。
私のこの考察も、小説にそって時系列順に書いています。

ここで、よし子の所に金ぶちXとの縁談話が来たということは、美禰子は今はフリーということです。

野々宮のことも諦め、三四郎のことも見切りを付けて諦めたものの、彼らの出方次第では、美禰子の気持ちを取り戻すことも、この段階までは可能でした。

美禰子が結婚する時、三四郎はもちろん、野々宮も大変悔しがったのです。

三四郎は借金のお礼状を書いて、呑気に返事を待っている場合ではなかったのです。
いくら湯気を立てて熱烈に書いたところで、借金の礼状でしかありません。

野々宮もよし子の激励に、かゆがっている場合ではなかったのです。

後に、よし子は失恋した三四郎に、美禰子の結婚相手のことを「私を貰うと言った方なの」と言います。

この小説は三四郎目線で書かれているので、三四郎の知らない美禰子の情報は書かれておらず、なぜ美禰子はよし子が振った相手と結婚したのか? いい加減な女だと思った読者は多いようです。

しかし、私は金ぶちXはもともと美禰子を好きだったと考えています。

彼は美禰子の兄の友達なので、美禰子のことを知っていたはずです。
美禰子は魅力的で、広田先生以外の周りのほとんどの男が好きになってしまう。
それなのに、美禰子をすっ飛ばして、よく知らないよし子に先に申し込むとは思えません。

美禰子にしたって、自分のことを好きでもない男を選ぶとは思えません。

恐らく金ぶちXは美禰子を好きだけど、美禰子には野々宮がいると思って、諦めたのだと思います。

しかし、よし子の所に縁談話が行ったのを機に、美禰子と兄は話したのではないでしょうか。
野々宮を諦めたことを。

美禰子の兄からその話を聞いた金ぶちXは、猛アタックを仕掛けて、美禰子を射止めたのだと考察します。

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三四郎は母から送金されたお金を持って、美禰子に会いに行きます。

美禰子は画家の原口のモデルをしていて、原口家の玄関に美禰子の下駄が揃えてある。
鼻緒の二本が右左で色が違う。

これは前述の通り、右脳と左脳が秀でている美禰子を表現した夏目漱石の仕掛けだと思います、

美禰子は全く動かない。
団扇(うちわ)をかざして立った姿そのままが既に画である、と三四郎は酔った心持ちで思う。

原口は事例をあげて「結婚は考え物だよ。共に自由にならない」と三四郎に言います。
「広田先生を見給え。野々宮さん、里見恭介くん、ついでに僕を見給え。みんな結婚をしていない」

「でも兄は近々結婚致しますよ」と美禰子。

「おや、そうですか。すると貴方はどうなります」
「存じません」

三四郎は美禰子を見ると、美禰子も三四郎を見て笑った。

三四郎は美禰子に近づきお金を返そうとするが、「今下すっても仕方がないわ」と受け取らない。

「小川さん、里見さんの眼を見てごらん」

原口に言われて三四郎がそうすると、美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。
横を向いて硝子越しに庭を眺めている。

「いけない。横を向いてしまっちゃ。今描きだしたのに」
「なぜ余計なことをおっしゃる」

「冷やかしたんじゃない」
原口は美禰子の眼と、絵の眼を三四郎に比べて見て欲しかったのです。

「里見さん、どうかしましたか」

三四郎の目にも、美禰子はどうかしているらしくもある。
色つやがよくない。目尻に耐え難い物憂さが見える。
もしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考え付いた。たちまち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲ってきた。
自分はそれ程の影響をこの女の上に有しておる。
けれどもその影響が自分に取って、利益か不利益かは未決の問題である。

この三四郎の分析(夏目漱石の表現)はさすがだと思いました。

三四郎は美禰子の様子がおかしくなった原因は自分が訪れたことにあり、それ程の影響を自分は美禰子に与えたが、利益か不利益かわからない、と二人の距離感を読者に考えさせます。

(今の段階で、美禰子の結婚話は、三四郎にも読者にも伏せられています。)

美禰子は三四郎へ笑顔になったが、眼を見つめられると、眼をそらしたのです。

恐らくこの頃、美禰子の結婚話は、ある程度進んでいると思われます。

兄が結婚して、あなたはどうなりますと聞かれた美禰子は、存じません、とはぐらかした罪悪感や、好きだった三四郎が何も知らず眼を見つめることに、平常心ではいられなかったと思います。

美禰子の疲れを見て、原口は彼女を解放した。

夕暮れにはまだ間がある頃、美禰子と一緒に三四郎は表へ出ました。

比較的人の通らない閑静な曙町を一廻り散歩しようじゃないかと三四郎は誘ってみたが、美禰子は案外にも応じなかった。

大通りを歩きながら、三四郎はどうともして、二人の間に掛かった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。
しかしなんと言ったら破れるか、まるで分別がつかなかった。
小説などにある甘い言葉は遣いたくない。

「何か原口さんにご用がお有りだったの」
「いいえ、用事は無かったです」
「ただ遊びにいらしったの」
「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」
「じゃ、なんでいらしったの」

三四郎はこの瞬間を捕えた。

「あなたに会いに行ったんです」

美禰子は少しも刺激に感じない。
三四郎は落胆した。

「本当は金を返しに行ったのじゃありません」

「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」

三四郎は堪えられなくなった。

「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」

三四郎は美禰子の顔を覗き込んだ。
美禰子は三四郎を見なかった。
(口から洩れた微かな溜め息)

向こうから車が走って来た。
金ぶちメガネをかけて色つやのいい男が乗っている。
背のすらりと高い細面の立派な人であった。

金ぶちXの登場だ。

「あんまり遅いから迎えに来た」

「そう。ありがとう」
美禰子と金ぶちXは微笑みあっている。

「どなた」金ぶちXは三四郎へ眼を向けた。

「大学の小川さん」

金ぶちXは帽子を取って三四郎に挨拶し、
「早く行こう。兄さんも待っている」
美禰子を連れて行った。

三四郎は一人、取り残されました。

「あなたに会いに行ったんです」

二人の間に掛かった薄い幕のようなものを裂き破りたくて、三四郎はこの世でもっともシンプルな愛の告白をしたのです。

「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」

美禰子の反応が無いことに気づきながらも、重ねて言ったのです。

いつも心の中であれこれ考えてばかりで、伝えることも行動することもできなかった三四郎が、美禰子をどうにかして自分の隣に置きたくて、ストレートに伝えたのです。

三四郎の初めての恋と、愛の告白は、こうして幕を閉じました。

✨✨✨✨✨

三四郎は広田先生から、昼寝中に見た夢の話を聞きました。

「それはね、僕が生涯にたった一度会った女に、突然夢の中で再会したという小説染みた話だ。」

二十年ばかり前に会った女だという。

「僕が大きな森の中を歩いている。突然その女に会った。昔の通りの顔をしている。僕がその女に、あなたは少しも変わらないと言うと、その女は僕に大変年をお取りなすったと言う。次に僕が、あなたはどうしてそう変わらずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日が一番好きだから、こうしていると言う。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかかった時だと言う。僕は何故こう年を取ったんだろうと不思議がると、女が、あなたはその時よりも、もっと美しい方へ方へとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。」

「僕が女に、あなたは画(絵)だと言うと、女が僕に、あなたは詩だと言った」

「先生はそれで結婚をなさらないんですか」
三四郎は聞いた。

「それほどロマンティックな人間じゃない」

「しかし、もしその女が来たらお貰いになったでしょう」

「(少し考え)貰ったろうね」

広田先生は前に美禰子のことを、
「あの女は心(しん)が乱暴だ。もっとも乱暴と言っても、普通の乱暴とは意味が違うが」
と評していました。

恋をして切り替えていく美禰子と、二十年前に一度きり会った女を夢に見る広田先生は、恋愛に関しては逆だと思います。

そんなところが乱暴だと思うのかもしれません。

どちらが良いとか悪いとかの話ではありません。それぞれの生き方、考え、感情、性格、置かれた状況などの問題なのです。

果たして三四郎は二十年後、美禰子の夢を見るでしょうか?

✨✨✨✨✨

三四郎がハムレットの演芸会を観に行くと、美禰子とよし子、野々宮、画家の原口の姿が見えました。

三四郎はハムレットに飽きた時は美禰子の方を見ていた。
美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時はハムレットを見ていた。

幕が下りて、美禰子とよし子が席を立ち、三四郎も続いて立った。
二人は廊下の中程で男と話をしている。

男の横顔を見た時、三四郎は席へ返らずに表へ出た。
雨が落ちる中、急いで下宿へ帰った。

三四郎が見た男は、金ぶちXだったのでしょう。

明くる日、三四郎は熱を出しました。

友達の与次郎が、講義に出てこないのを心配して来ました。

与次郎は美禰子が嫁に行くらしいことを言いました。
野々宮さんかと聞くと、野々宮さんじゃないと言う。

よし子を見舞いに来るようにしてやるから聞いてみろ、と与次郎は言った。

✨✨✨✨✨

よし子が蜜柑の籠を持ってお見舞いに来ました。

「美禰子さん、この頃少し忙しいものですから、どうぞ宜しくって」
「何か特別に忙しいことができたのですか」
「ええ。出来たの」
「⋯⋯」

「蜜柑をむいてあげましょうか」

渇いた人(三四郎)はほとばしる甘いつゆを、したたかに飲んだ。

「美味しいでしょう。美禰子さんのお見舞いよ」

「もうたくさん」

よし子はたもとから白いハンカチを出して手を拭いた。

よし子は三四郎を、出会った時からずっと好きだと思います。

初めての出会い。
病気で入院したよし子のお見舞いに行った三四郎は、懐かしい暖かみを感じ、遠い故郷にある母の影が閃いた。

一方、よし子は蒼白い頬の奥を少し紅くした。

後日、野々宮家へ行った三四郎はよし子と話した時、「野々宮さんは元から里見さん(美禰子)とご懇意なんですか」とか、美禰子の家族のことや、美禰子のことばっかり質問しました。

よし子は答えながら、水彩画の続きを描き始めました。

赤く出来た柿が、絵筆に残った黒が混じって渋柿のような色になりました。

よし子はせっかく描いた水彩画の上へ、横縦に二三本太い棒を引いて、絵の具箱のふたをぱたりと伏せました。

菊人形を見に行く日、よし子はのっぽを気にして、草履をはいて来ました。
三四郎はあまり背が高くありません。

その日、三四郎は美禰子を追ってストレイシープになったのです。

そして、よし子は三四郎の前で兄の野々宮から縁談話を言われて、断ったのです。

三四郎の心の中には美禰子しかいなくて、よし子はそれをずっと聞かされ、見ていた。

だから美禰子が結婚が決まり、熱を出した三四郎の口の中に、自分の指で蜜柑のつゆをしぼって入れて、
「美味しいでしょう。美禰子さんのお見舞いよ」

ほらほら美禰子さんはあなたのものにはならなかったのよ、とSっ気を出したのです。

失恋で苦しい三四郎は「もうたくさん」と言いました。

よし子は美禰子の縁談がまとまったことを告げました。
「私を貰うと言った方なの。ほほほ、おかしいでしょう。私、近いうちにまた兄と家を持ちますの」

「あなたはお嫁に行かないんですか」

「行きたい所がありさえすれば行きますわ」
よし子は心持ちよく笑いました。

行きたい所とは三四郎のことでしょう。

三四郎はその日から四日ほど床を離れませんでした。

よし子の指の絞った蜜柑をのむ三四郎を「渇いた人」と表現するのは、三四郎視点で書かれていたのを、作者の視点に切り替えて心象表現をしたのです。

他にもこういった三四郎から突然、作者に「切り替え」して神の視点で書かれる表現が見られます。

✨✨✨✨✨

日曜日、三四郎は思い切って床屋に行き、美禰子を訪ねました。

家へ行くと、兄の家へ行くところのよし子がいて、美禰子はチャーチにいると教えてくれた。

三四郎は美禰子がチャーチへ行く事は初めて聞きました。

チャーチの前に立つと讃美歌が聞こえ、美禰子の声もそのうちにあると、三四郎は耳を傾けた。

空に美禰子の好きな雲が出た。
かつて一緒に秋の空を見たこともあった。
雲が羊の形をしている。
ストレイシープ、ストレイシープ。

チャーチの戸が開き、美禰子が出て来た。
「どうなすって」

「あなたの出て来るのを待っていた」
「お入りになればいいのに。寒かったでしょう。」
「寒かった」
「お風邪はもういいの。大事になさらないと」
「拝借した金です。永々ありがとう」

三四郎はお金を返しました。

美禰子は懐へ入れて、その手をコートから出した時、白いハンカチを持っていた。

鼻の所へあてて三四郎を見ている。

やがて、その手を不意に延ばした。

ハンカチが三四郎の顔の前へ来た。
鋭い香りがぷんとする。

「ヘリオトロープ」美禰子が静かに言った。

三四郎は思わず顔を後へ引いた。
ヘリオトロープの瓶。ストレイシープ、ストレイシープ。

「結婚なさるそうですね」

「ご存じなの」

美禰子はしばらく三四郎を遠く眺めた後、溜め息をかすかに漏らして言った。
「我が罪は常に我が前にあり」

三四郎と美禰子はかようにして分かれた。

美禰子は三四郎が選んだ香水を使っていて、染み込ませたハンカチを三四郎の顔に延ばして、香りを共有させるシーンは、ある種の驚きがあり、映像としてリアルに想像させます。

美禰子はふった側であり、ふられた側の三四郎に未練を残させるような行動を、なぜとるのかという疑問はあります。

でも、やっちゃうのが美禰子なのです。

やられてしまい、美禰子が忘れられなくなるのも三四郎です。

これが美禰子の人を惑わせる小悪魔的なところなのかもしれません。

けれど私は思うのです。

美禰子は三四郎のことを好きだった。

そして「あなたに会いに来たのです」と告白されるまで、三四郎の恋心が熱烈なことを知らなかった。
読者は三四郎がどれほど美禰子に恋焦がれているか知っているけど、美禰子は知らないのです。

告白された時には、結婚話は進んでいたのでしょう。

最後にお金を返しに来て、これで本当にお別れで、美禰子は展覧会で絵を見る三四郎の横顔を熟視したように、三四郎を遠く眺めました。

美禰子は刹那的に、恋心を感じたと思います。

感じるままに、ハンカチに染み込ませた三四郎が選んだ香水の香りを共有した。

三四郎が哀しくなるかもしれないので、罪を感じたのでしょう。

この小説の哲学的な人物である広田先生の印象的な言葉があります。

ある状況の下に置かれた人間は、反対の方向に働き得る力を有している。
怒らせようと思うと笑ったり、笑わせようと目論んで掛かると怒ったり、まるで反対だ。
しかしどちらにしても人間に違いない。

美禰子は展覧会で、三四郎の耳に口を寄せ内緒話をしてイチャつきました。
それは恋の喜びを感じあいたかった、三四郎を喜ばせたかったのに、三四郎は怒ってしまい、別れの原因となりました。

あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらない、と美禰子に言われましたが、三四郎は嫉妬のあまり野々宮の索引ばかり気にしていたのです。

広田先生はこうも言います。

ある人間がどんな所作をしても自然だということ。
どんな人間をどう描いても世界に一人位はいるようじゃないですか。

これは広田先生の姿を借りた夏目漱石の言葉かもしれません。

美禰子の言動はミステリアスで、三四郎や読者の予想を超えるような表現とひらめきがあります。

世界に一人しかいない魅力的なヒロインだと思います。

✨✨✨✨✨

美禰子を描いた原口の絵「森の女」が出来上がった。

画が特別の出来で、丹青会はこの大作を一室の正面に懸けた。

美禰子と夫(金ぶちX)は二日目に来た。

「この団扇(うちわ)をかざして立った姿勢がいい」
夫は何も知らず、嬉しそうにその構図をほめる。

それは美禰子が提案したものだ。
三四郎と(森ではなく)池で出会った思い出のポーズだ。

後日、広田先生と野々宮と与次郎と三四郎が観に来た。

美禰子の絵の前に人がたくさん集っている。
野々宮は超然として入った。
大勢の後から覗き込んだだけで、三四郎は退いた。

「佐々木に買って貰うつもりだそうだ」
広田先生が冗談を言うと、
「僕より」
与次郎は言いかけて、見ると、三四郎が難しい顔をして腰掛けにもたれている。
与次郎は黙ってしまった。

「色の出し方がなかなか洒落ていますね。粋な画だ」野々宮が評した。

「少し気が利きすぎている位だ」と広田先生。

「里見さんを描いちゃ、誰が描いたって間が抜けてるようには描けませんよ」と与次郎。

野々宮が目録へ記しを付けるために鉛筆を探すと、はがきが出て来た。
美禰子の結婚披露の招待状だ。
野々宮は広田先生と出席している。
三四郎は帰京の当日この招待状を下宿の机の上に見た。時期は既に過ぎていた。

野々宮は招待状を引き千切って床の上に棄てた。

与次郎が三四郎の傍へ来た。

「森の女という題が悪い」
三四郎は言った。

「じゃ、なんとすればいいんだ」

三四郎は何とも答えなかった。
ただ口の内でストレイシープ(迷羊)、ストレイシープと繰り返した。

よし子は絵を観に来ませんでした。

私はよし子が来なかった理由は、三四郎が美禰子を喪失して落ち込む姿を見たくなかったのだと思います。

野々宮は超然として観に来て、淡々と絵の分析して感想を述べます。

しかし、そこから一転、美禰子の結婚披露の招待状を見つけ、引き千切って床の上に棄てるのです。

これは凄まじく激しい行動です。

野々宮は、切り替えて他の男と結婚した美禰子に怒りを感じていることがわかります。

招待状を引き千切って棄てるという怒りの儀式をして、美禰子のことを、心の中から捨て去る決意を示したと思います。

野々宮は、広田先生や三四郎とは違って、彼らより切り替えることができる人物でしょう。

それでも人目もはばからず、わかりやすく儀式をしないと忘れられないくらいに、美禰子に魅かれていたと思います。

三四郎はストレイシープが呪文のようになってしまっています。

三四郎が美禰子を思っている表現で、こんなのがあります。

三四郎は美禰子を余所から見る事ができないような眼になっている。
美禰子に対しては美しい享楽の底に、一種の苦悶がある。
三四郎は苦悶を払おうとして、まっすぐに進んで行く。

まっすぐ進んで行った先には、また新たな出会いや恋もあるでしょう。

けれど、三四郎はいつか美禰子のことを忘れたと思った頃に、きっと夢を見るでしょう。

美禰子が奏でる表現は時には心地よく、時には心をかき乱し、ピアニッシモのように囁き、フォルティッシモのように迫力を持って、聴こえて酔わせるのです。

三四郎の耳に口を寄せ、美禰子の表現が奏でる。

いつか夢の中で、森(池)で出会った美禰子に三四郎は言うかもしれません。

「あなたは音楽だ」


(終わり)

✨✨✨✨✨✨

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